35 side:アルフレッド・テュール・アークシア
王太子アルフレッド視点の話になります。
アルフレッドは、珍しく緊張を隠せないでいた。
顔に浮かべた麗しい微笑はいつもよりほんの少し硬く強張り、膝の上に乗せた拳は握り締められている。
しかし、王太子として育てられた彼がこれほど緊張するのも、今日ばかりは仕方の無い事だと言える。
彼と机を挟んで対面する男は、隣国リンダールの大公ヨシュア・ユーリエル・ド・レーヌ・リンダールその人なのだから。
隣で頭を下げたままのグレイスには、取引とはいえ悪いことをしたかもしれない。彼にとって──自分にとっても似たようなものだが──悪夢そのものでしかない『力』を使わせたのだから。だが、彼のその『力』の存在が無ければ、アルフレッドがここに今居ることは無かったであろう事は事実だ。
だから彼は、喩え幼馴染の従弟が苦しんだとしても、その力を行使させる事に躊躇いはしなかった。自分の為に。
自分の望みを叶える為に。
アークシア王国王太子アルフレッド・テュール・アークシアは、拳の震えを押さえつけて、毅然と顔を上げた。リンダール大公城の、貴賓室の中で。
「この度は、このような席に応じて頂き、誠にありがとうございます」
「──ふ。気概だけは、一人前か」
アルフレッドはぐっと息が詰まりそうになるのを何とか堪えた。精一杯取り繕った余裕は全て見抜かれている。分かっていたことだが、一筋縄ではいかないらしい。
「まどろっこしいのは好かん。訪れた目的をはよう語るがいい」
大公からは、恐ろしい程の重圧が放たれている。閉鎖国としてまともな外交の機会など無く、故に平和な王宮で感じる重圧など虚仮脅しのようなものでしかなかったアルフレッドにとって、それはとても鋭く、重苦しい。
「……私には、欲しいものがあるのです」
それでも彼は、視線すら外さぬままそれを答えて見せた。大公ヨシュアの唇が、愉快そうに歪む。
「そして、リンダールが何を欲しているのかを、知っています」
「ほう……?」
「何故それを欲しているのかも、知っています。」
ビリ、と肌に痛いほどの緊張が走る。まるで水の中に居るかのようだ。気を抜けば息が出来なくなりそうな、攻撃的な威圧感。
だが、ここで潰れる訳にはいかない。ぐっと今以上に背筋を伸ばし、胸を張る。真っ直ぐに大公ヨシュアの紫色の瞳を見据えて、アルフレッドは宣言した。
「なぜなら私は、人の心を見ることが出来る魔法使いだからです」
大公の浮かべる笑みに怜悧なものが乗った。良し──アルフレッドは一先ず心中で頷く。自分の話は、確かに相手に響いている。
「馬鹿な。先触れの小僧は、お前は雷を操る魔法使いと述べたぞ。余を謀ったのは、どちらだ?」
うっそりと口の端を吊り上げる大公に、アルフレッドは艶然と笑い返して見せた。
「クシャ教の神、ミソルアについてご存知ないのですか?」
ミソルア神。元は、大陸全土に広がっていた名も無き神話の天空父神として祀られた神。
その司る性分は、法と裁き。つまり、罪を見る為に心を覗き、罪を裁く為に天罰として雷を降らせる。
「……言ってみろ。アークシア王太子、アルフレッドよ。お前が何を欲し、我々が何を欲しているのか、言うがいい」
酷く力のある、酷薄な声だった。
アルフレッドの頬に、脂汗が伝って落ちる。ペースを渡してしまうと危険だ。アルフレッドの頭の中ではずっと、目の前の男が如何に危険か訴える警鐘がガンガンと鳴り響いている。
一つ息を吐いて、吸って、アークシアの王太子として出来うる限り最上級の笑顔を浮かべて。
「私は、エリザ・カルディアが欲しい」
次の一呼吸を置いて、ここで使える最大級の武器を放った。
「リンダールは、彼女の持つ魔物の森が欲しい。そうですよね?あなた方の神の眠る、神聖な森なのですから」
その瞬間、大公の放っていた重圧が霧散した。
隣のグレイスの頭がぐらりと傾ぐ。慌ててそれを受け止めたアルフレッドは、彼の顔が青を通り越して白くなっている事に気がつき、歯噛みした。部屋の中に留めたのは失敗だった。
「王太子、ソファを使って構わんから横にしてやれ。帰りもそいつを使うのであろう?」
「あ、お心遣い、感謝致します……」
大公ヨシュアはまるで親しい小父のような口ぶりで、ソファを顎で差した。その落差の大きさに戸惑いを感じつつ、アルフレッドも倒れそうなほど自分の精神が磨耗しているのを自覚する。
たったあれだけの短い遣り取りで、こんな……。
「ほれ、手拭を貸してやる。お前も顔を拭うがいい。酷い汗だ。」
「あ、ありがとうございます」
投げ渡された手拭いで、全力で走り終えた後のように流れる汗を遠慮無く拭う。アルフレッドが落ち着きを取り戻したの頃合いを見計らい、大公はまるで世間話でもするかのように話を再開させた。
「で、具体的には何をどうしたいのか決まっているのか。まあ、ここまで乗り込んでくる度胸と頭があるところを見ると案があるのであろうが」
「ええ、勿論です。父上には、話だけは既にしてあります。何しろエリザ・カルディアを手に入れることは、王家全体の問題……ひいてはアークシア全土に関わる話となりますので」
「であろうな。魔法とはよう言うたものだわ。己の欲した一人を自分に縛りつけねば暴走するなどという話は、真実であるという事だな」
アルフレッドの脳裏に、自分がその人生の大半を過ごしてきた部屋情景が閃いた。
冷たく重い手枷と足枷、魔法の暴走を防ぐ為に与えられ微量の毒と、それにのたうつことも出来ずに耐える苦しみ、自分と外界を閉ざす鉄格子と、気が狂いそうなほどの孤独──
頭を軽く振ってそれらを打ち払い、彼はいつもと同じ笑顔を浮かべる。
「ええ。アークシア六百年の歴史にかけて、その事は保証出来ますよ」
それには、ふん、と大公ヨシュアが鼻を鳴らして返した。
学習院春の休暇の最後の日の、夜のことであった──。