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30 side:グレイス・テュール・ドーヴァダイン

大公嫡子、グレイスの視点の話です。

 耳の奥で煩いほど自分の心臓の音が聞こえる。


 グレイスは足元に転がる女を、指一本動かせないままに見下ろしていた。

 女の不規則な喘息音が掠れるように響く。


 女の首がおかしな方向に曲がっている。その腕の中に抱き込まれた小さな子供は、気を失っているのかものひとつ言わない。

 死んではいない筈だ。その子供が女に抱き込まれる前に、己の魔力がその子供を覆ったのを確かにグレイスは感じた。


 グレイスは、女の口から泡立った唾液が溢れる様を凝視する。

 まるで凍りついたように全身が動かない。

 こんな時に限って誰も周りに居ない。だから、自分が誰かを呼んでこなければならない。女が完全に死ぬ前に。

 そう思っている筈なのに、足の裏に根が生えたかのようだ。


 女の身体はぴくぴくと、潰された虫のように小さく痙攣している。


 グレイスの息が上がる。苦しい程に心臓が脈打ち、身体が燃え盛る火のように熱い。


 誰か、呼ばないと──声を上げないと。

 叫び声となるはずだった吐息は、喉の奥に絡み付いて無様に上がった呼吸音にしかならない。


 どうして自分は、ここに立ち尽くしているのか。女の腕の中の子供が無事である保証はない。脳震盪を起こしているかもしれない。女だって、ここで痛みにもがき苦しみながら一人で死んでしまうだろう。


 ──だが、この女が死ねば。

 この女さえ死ねば、エリックが手に入る。


 仄暗い感情はグレイスの四肢を強張らせ、女の死にゆく様を見詰めさせていた。


 この女が、死ねば。死ねば──あの部屋にもう戻る事は二度と無い。いつそこへまた入らなければならないか、怯えながら過ごす日々は消えるのだ。


 人を呼ばなければ。助けを求めなければ。

 いや駄目だ。万が一この女が生き残ったらどうする。


 耳の奥で煩いほど自分の心臓の音が聞こえる。




「──っ!!」


 声にならない引き攣った叫びとともに、グレイスは寝台の上で跳ね起きた。

 夢の中と同じ様に、心臓が痛いほどに脈打っている。全力で走った後の様な苦しさに息も上がっている。

 脂汗がこめかみから頬に伝う。


「グレイスー?起きた?」


「……あ、ああ。今起きた」


 扉の外からエリックの声がして、漸くグレイスは滴り落ちてきた汗を乱暴に袖で拭った。意識して深くゆっくりと呼吸を行い、興奮した自分を落ち着ける。

 部屋は薄暗い。朝を迎えている筈なのに、いつもは部屋を照らしている窓からの光が今日は無い。

 王都には珍しく、激しい雨の音がする。


 エリックの母親が死んだ日も、こんな雨の音に包まれていた。外の石畳を打つ水音と、強い風の音。

 だからあんな夢を見たのか、と、グレイスは舌打ちした。


「グレイス?どうかした?」


 扉の向こうから、エリックが不審そうに再び声を掛けてくる。グレイスは慌てて寝台から降りると、扉の鍵を開けた。


「おはよう、エリック」


「おはようグレイス。どうしたんだよ?具合悪いのか?」


「い、いや。違う。ちょっと夢見が悪くて……」


 一ヶ月間もの間、家で再教育を受けたくせにエリックの粗暴な口調は変わらないままだ。何年もかけて変化したそれは、やはり何年かしないと戻らないのかもしれない。


 それでも戻るものはいい。

 グレイスがどれだけ望もうと、あの雨の日には戻れないのだから。


「まあ、こんな天気だもんな。悪い夢だって見るよ」


 そう言って窓の外、灰色に濁った景色を見るエリックも、あの日の事を思い出しているのだろうか。グレイスの背に冷たいものが伝う。粟立った肌を宥めるよう、彼は自分の二の腕のあたりを擦った。

 まだまだ夏の遠い、春先の雨の日。気温は低い。まるで冬の再来のようだ。


「……グレイス?具合悪いのか?」


 訝しんだようにエリックが顔を覗き込んでくる。グレイスは青白い顔色をしていて、目線もどこか覚束無いようだ。


「大丈夫だ。寒いだけだから……」


「いや、やっぱり具合悪いだろ。最近生徒会の仕事で忙しいしさ、疲れてるんじゃねえの?」


 そう言いながらエリックはグレイスを寝台に向かわせる。

 乱れたシーツを見て、これは後でメイドに直させないとダメだな、とエリックは口に出さずに判断した。寝汗をかいたらしい。もしかしたら熱が出ていたのかもしれない、と兄の体調を気遣って、とっとと寝かせる事にする。


「エリック、俺は大丈夫だから……」


「いいから、寝とけよ。どうせ外は雨だし、今日は休みなんだから」


 宥めるようにエリックの手がグレイスの肩を叩いた。そのまま寝台に押しこまれてシーツで包まれると、あっという間に起き上がれないほど身体が重くなったのを感じた。


「……訂正する。なんか、怠い」


「やっぱりな。メイドたちを呼んでくるよ」


 やれやれと苦笑しながらエリックが離れていく。

 思わず腕を伸ばそうとして、しかし倦怠感に負けて指先一つ動かせない。グレイスは部屋を出ていくエリックを黙って見送るしかなかった。

 何だか頭がぼうっとする。熱が出ているのかもしれない事に漸く思い至り、舌打ちしたい気分に駆られた。体調を崩すなんて自分らしくもない。


 一人で部屋に残されると、窓の外から雨の音が嫌でも一色の中に滑り込んで来る。眠ってしまえば良いのだろうが、あんな夢を見た後では眠る事に抵抗感がある。

 あまり良くない形で気分が昂ぶっている。泣きたいような、哄笑したいような。

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。エリックは部屋にいないだけで、ちゃんと自分の側にいる。


 ──ふと、思考の片隅で紅い瞳が閃いた。

 気に食わないそれを思い出してしまい、グレイスの眉間に皺が寄る。

 狂人め。とっとと大好きな戦の中で、討ち死になりなんなりすればいいものを。


 グレイスはその面差しを振り払うように、枕に顔を埋めた。雨の音は、煩わしくも彼を苛む事をやめたりしなかった。

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