09
陛下より賜った報奨金という安心感が存在するためか、伯爵領は落ち着いた状態を保っている。
「うーん、試そうか、止めとくべきか……」
考えているのは、村ごとに病院を設立するか否かという事である。同時に保険や年金、介護の制度を立ち上げたいとも考えているのだが。
そちらを行うよりも先に、インフラの大規模整備を優先させるべきだろうか。
非常に迷う。こんな時に相談に乗ってもらえる人は、テレジア侯爵しかいないか。
よし、テレジア侯爵を訪ねよう。
思い立ったらすぐ行動。インク壺と羊皮紙を引き寄せて、羽根ペンを引っ掴んだ。会って頂けるかお伺いをたてねば。
そうして翌日訪れたテレジア侯爵邸で、どうやらそれはずっと未来の制度であるという事を思い出す事になった。
「病院の設立はわかるが、その介護や年金、保険というのはどういうものだろうか?」
「えっ」
テレジア侯爵が胡乱気に私の顔を眺める。
そういえばその制度って近代のものだったかもしれない?
しどろもどろになりつつ、介護は老人の世話の仕事、年金は老後の為の積立貯金のようなもの、保険は病気や怪我があった時、医療費が貰えるよう毎月微々たる額を納める制度と説明する。
「それにインフラとは?」
「生活環境の事です。今回考えているのは、上下水道を整えて、集落内の衛生状態を向上させる事と、領主館のある本集落と他集落を繋ぐ道の舗装です」
上下水道を整えるとなると、同時に灌漑工事を行った方が効率的かもしれない。畑の面積を増やせば
休耕地をおけるので、連作障害をある程度防げるだろう。
「インフラとやらを整えるのが先決でしょうな。ただ病院に関しては、今より人員を確保し教育をした方がよいのではありませぬか。その二つは人口の拡大に直結すると思いますゆえ。年金と保険については、もう少し時を見るべきでしょうぞ。面白い案ではあるが、実行するには地力がまだまだ足りぬ事はご自分でもおわかりでしょう」
「ふむ、なるほど。そうですね」
客観的なテレジア侯爵の意見で、思考がスッキリとまとまる。よし、これから先行う領地改革の目処が立ったな。
「ありがとうございます、テレジア侯爵」
「いやなに、エリザ殿の革新的な案を聞けるだけこちらにも利がありますれば」
革新的なのだろうか。ちょっと考えれば誰でも思いつきそうな事ではあるが。まあいいや、目指せ平均寿命六十歳。領民の命のために平均初出産年齢を十六歳から十八歳までは絶対に引き上げたい。
それから今は適当な戸籍の制度をきちんとしたものに整えて、できるだけ早く人頭税じゃなくて収入税に変えていかなければ……。
そういえば、うちの領地は殆ど牧畜も行ってないな。折角広い平原がまだまだ未開発の東側にあるし、畑にして潰すよりもそのまま牧場として利用させたほうがいいかもしれない。肥料不足の足しにもなりそうだし、肉類が自給できれば穀物ばかりで細っこいうちの領民の栄養状態の改革にもなるだろう。
……誰だ、この世界が乙女ゲーと言ったやつ。嘘つきと罵ってやるからちょっと表に出てこい。
先日受けた招待にあずかり、手土産を用意してモードン邸を伺った。格好は普段通り、学習院で着用している騎士服である。
「やぁ、エインシュバルク伯爵。お目見え頂けるなんて本当に光栄だよ」
「こんばんは、ゼファー殿。お招き頂けて嬉しいよ。モードン伯爵にご挨拶をさせて頂いても宜しいかな」
「勿論。こっちだよ」
学内ではモードンと呼んでいる彼も、今日はややこしいだろうと名前呼びだ。何しろここにはモードンさんが何人いるかわからない。カルディアさんは私を残して全滅したというのに。
モードン改めゼファーに連れられて会場の奥へと進むと、行儀良く椅子にかけたゼファー似の少年を挟んでモードン辺境伯とその奥方が招待客の応対をしていた。
モードン辺境伯は貴族院で少しばかり付き合いがある方で、お互い顔を見知っている。伯爵は半年置きに領地に戻っているためなかなか会えないが、私が貴族院に出席し始めた最初の頃、いろいろと世話になった。
「父上、エインシュバルク伯爵をご案内させて頂きました」
「やあ、エインシュバルク伯。暫くだね。ゼファー、ご苦労」
ゼファーと面立ちがそっくりのモードン伯爵は、まだギリギリ二十代ということもあって若々しい美丈夫である。すらりとした痩身に、最高峰の銀糸と謳われる長髪が良く似合っている。親子だけあって話し方も似ており、歳の離れた兄弟と言われても信じてしまいそうだ。
ゼファーもあと十年ほどすればこうなるのかと思うと感慨深いものがある。
「モードン伯に置かれましては、ますますのご健勝と耳にしております。拙いものではありますが、凖成人を迎えた御子息にお祝いの品を贈らせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「これは有り難い。ルーシウスも喜ぶ」
モードン辺境伯が半歩身を引いたので、綺麗に包装した小箱を椅子に掛けたゼファー弟に直接差し出す。
「おめでとうございます、ルーシウス殿」
「あ、ありがとうございます、エインシュバルク伯爵様っ!」
一つ年下であるだけだというのに未だあどけないゼファーの弟は、顔を赤らめてプレゼントを抱き締めた。声が上ずっている。怖がらせただろうか……。
「弟は何を頂けたのかな?」
「ブローチを贈らせて頂いたよ。凖成人の装いには必要だろうから」
「ああ、ルーシウスはきっと誰からも羨ましがられるだろうね。何しろエインシュバルク伯爵の最初の贈り物を頂けたのだし」
学友のフォローが心に染みる。いいさ、どうせ私は好血、冷血で知られる残虐伯爵だもの。怖がられても仕方ない。
楽団の奏でる音楽に彩られた舞踏会本会場にゼファーと連れ立って訪れると、令嬢たちが素晴らしい速さでこちらへ寄ってきた。
あっという間に包囲される。戦であれば死んでいたと思うほどその勢いには迫力があった。
というか、ゼファーはこれ程までに令嬢達に人気があるのか。学習院では王太子とその取り巻きに霞んでしまっているが、父譲りの銀髪と、ラピスラズリのように美しい深藍の瞳に印象付けられた美貌は、確かに令嬢達の憧れの的だろう。
「え、エインシュバルク伯爵様、私と……」
「いえ、わ、私と一曲……」
「バルコニーでお話でも……」
溢れてしまった令嬢たちが、仕方なくだろうか、隣の私に次々声を掛けてくる。下手な男を誘って噂になるくらいなら私を選ぶというあたり貴族令嬢らしい判断である。
震えていたり強張っていたりと私が怖いだろうに、おそらく誰かと踊らなければ評判に関わるに違いない。
「私などで良ければ、喜んで」
同情心から手を取った。学習院で男性用のダンスの仕方を学んでおいて良かったかもしれない。例によって爵位持ちの分類で強制的に男子生徒に混ぜられて、ではあったが。