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スミレの花の砂糖づけ  作者: 麦子
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7.花の名前

自分が普段歩いているはずの歩幅が分からなくなりました。自分のアパートへ着くまでが、月へたどり着くことよりもむつかしくかんじました。夜へ傾いていく空の色。通り過ぎていく男女の話し声。夕餉のにおい。となりのひんやりとした手の温度。


なつかしくてとおい、あのあたたかな時間。やわらかな記憶。わたしを呼ぶ、あのひとの声。



「おい、ここか?着いたぞ」



ぐん、と腕を引っ張られる感覚。ハッとして目を凝らすと、まだ住み慣れないわたしの居場所であるアパートが見えました。わたしを見下ろす黒い瞳の居心地の悪さから、一刻もはやく解放されたくて、ひたすら首を縦に振ります。ふうんと納得して一度逸らされた視線とゆるまった繋がれた手に気を抜いてしまったわたし。それを後悔するのは、さっきよりさらに強く絡められた手に気付いてからでした。



「まだ離してやるなんて一言も言ってないけど?」

「!?」

「まだお前から聞いてないことがある」



近づく距離と吐息。一歩後退すれば、すかさず両手ごと捕まって、動けなくなりました。こわくてこわくて、思わず目をぎゅっと閉じてしまいました。



「名前」

「…っ、…?」

「お前の名前だ。いい加減、教えろ。不便すぎる」

『なまえ…?』

「そうだ。あー、あと携番とアドレスもついでに教えろ」

『ばんごう…?アドレス…?』

「あ?まさか携帯電話持ってねえのか?」



いいえ、と首を横に振りながら呆気にとられていました。わたしの名前を聞き出すだけで、あの威圧感を出す必要性がどこにあったというのでしょう。恐怖の大魔王さまからやっと離された両手は、じっとりと汗ばんでいて少し震えていました。



「おら。赤外線すっから、ケータイ出せ」

『……携帯電話、今持ってなくて』

「は?」

『えっと、いま、あの、部屋に…モガッ』



またもや片手で頬を掴まれました。タコみたいな口になっているであろうわたしの唇を睨みながら、早乙女先輩が舌打ちをひとつ。



「モゴモゴすんな。俺にわかるように、はっきり口動かせ。分かりずれえんだよ」

『いま、けいたいでんわ、いえにありまふ』

「はああ?なんで携帯してねーんだ、意味ねえだろ…」

『すみません…最近買ったばかりなもので使い方がよく…分からなくて』

「あーそう。じゃあ、もういいわ。直接、口で言え」

『えっ』

「はやく」



じいっと黙ったままわたしの唇に視線を集中させられてしまい、緊張と恥ずかしさで喉の奥がカラカラに渇いていくのが分かりました。どうしてこのひとはこんなにも真っ直ぐと、わたしを見つめてくるのでしょうか。わたしにはとても真似できません。



『なつめ、なでしこ、です』



ぎこちなく動くわたしの唇を、彼はまばたきひとつしないで見つめていました。




「あー…よく分かんなかったわ。もっかい言ってみ」

『えっ!!』

「はやく。言えって」

『なつめ』

「……」

『なでしこ』

「…もう一回」

『なつめ…なでしこ…』

「なでしこ」

「…っ」

「どんだけ真っ赤にしてんだよ。…おもしれーなお前」



吹き出すような笑い声が頭上から聞こえてきて、ようやくからかわれたことがわかったわたしはただ口を閉ざして黙り込むしかありませんでした。早乙女先輩の肩が一度、大きく揺れます。背中を丸めて、何故か大爆笑している早乙女先輩の姿を見てほんのすこしだけ警戒心が和らいでいくような気がしました。



「なでしこ」

『は、はい』

「なんか紙持ってねえのか。それにお前のアドレスと番号書いとけよ」

『わ、わかりました』



いつも常備しているメモ帳を開いて、マジックでまだ覚えたての自分のアドレスや番号を書いていきます。興味津々に覗き込んできた早乙女先輩の瞳のせいで、字が震えてしまったけれど。



「夏目撫子、ねえ。ふうん、綺麗な名前だな」



何気なく、朗読するみたいな口振りで言われた褒めことば。思わず、早乙女先輩の横顔を見つめてしまいました。尖らせていたはずのよそよそしさも、いつのまにかかたちをまるくしてどこかへ転がっていってしまったみたいです。



『ありがとうございます』

「やっとこっち見たな」

「……」

「おいこら、なんでまた背けるんだ」



くいっと髪の毛を引っ張られて、そのまま先輩のほうへ傾くわたしの身体。トン、と背中が早乙女先輩の胸板に当たりました。上下逆さまに映る先輩の背景にくっきりと見えるのは、きれいなお月さま。



「なでしこ」



名前を呼ばれたと同時に、髪の毛をゆっくりと梳かれる感覚。見上げれば、わたしの腰まである長い髪の毛先にしずかに唇を寄せている早乙女先輩の姿が瞳いっぱいに映し出されます。まるで、洋画のワンシーンを見ているみたい。



そんなわたしの考えていたことを見抜いていたかのように、先輩から囁かれたのはとびきり甘いお別れのことばでした。




「おやすみ」



たったそれだけの台詞。見つめ合った時間なんて、きっと三秒も満たない。なのに、油断していた心臓を破裂寸前に追い込むこの破壊力。これが、女性を一瞬で恋に落とすテクニックというやつなのでしょうか?

あとでメールするわ、そう言ってすんなりとわたしの髪の毛からすり抜けていった指先から目が離せませんでした。



腰砕けになったわたしの頭上にはチカチカと輝くちいさな星たち。

夏の夜の空気に溶けていく早乙女先輩の背中が視界から姿を消しても、わたしの頭の中から彼が消えていくことはありませんでした。



ああ、なんて心臓に悪いお方なのでしょう。



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