5.尖らない牙
栗色の髪が、視界をかすめたような気がした。
なぜかそれが妙に気になってしまって、バスに乗り込む直前に後ろへと振り向いてみれば、見覚えのある女が具合悪そうに俯いてしゃがみこんでいた。
面倒くせえな、と思いながらも足が勝手に動いていたのだから仕方がない。目の前で青白い顔をして、後退りする女の手首をぐっと掴んだ。細っせえ腕。…こいつ、ちゃんと飯食ってんのか。
「…っ」
「逃げんな。顔あげろ」
そろそろと俯いていた顔をあげた女と一瞬だけ、目が合った。すぐに逸らされた視線に、舌打ちしそうになるがなんとか耐えてあらためて女の顔色をまじまじと観察する。そのあいだ、女は居心地悪そうに視線をあちらこちらに向けていた。ぺたりと地面に両足をつけて、ワンピースの裾をぎゅうぎゅうと握って今にも泣きそうな表情。俯きそうになっていたその額に、長い前髪を掻き分けて自分の手のひらを押さえつけると女はたちまち身体を硬直化させた。
「あちいな。お前、熱あるんじゃねえの」
「…。…?」
「それか、熱中症かもな…おい、自分で立て……るわけねえよな」
俺の言っていることが理解できていないらしい女は、不思議そうに首を傾げた。通行人の横切る視線もうざったくなってきたし、いつまでもこんなところに座りこんでこの女と話してるのも面倒くせえ。
「おい。お前、いまからどっか行く予定あるのか」
「…? …!」
「話せねえことは分かってるから。口動かすだけでいいから、なんか言え」
「……」
「はやく」
『びょういん。びょういん、です』
唇がちいさく、動いた。その動きを見逃さないようにじっと女の唇を見つめる。カバンの中から、目的地の地図を出しておそるおそる俺に差し出す。
「ふうん…病院か。丁度いいじゃねえか、ついでに診てもらってくるか」
「?」
「よし、行くぞ」
「!?」
トロ女の膝裏に腕を回して、背中をもう片方の腕で支えて立ち上がる。“お姫様だっこ”なんてガラじゃねえが、そうでもしないとこの女、ずっとここに蹲ったままでいそうだからな。面倒くさいが仕方ねえ。綿みてえに軽い感覚に不意討ちを食らいつつ、プルプルと身体を震わせて俺の服をギュッと掴んだトロ女の顔を覗いてみる。
口をパクパクさせて、茹でダコみたいに真っ赤になって狼狽えていた。はじめてみるこいつの表情に、少しだけ面食らう。なんだ、こんな顔もできるんじゃねえか。恥ずかしそうに俺を盗み見て逸らすその仕草が、なんだか可笑しくて口元が緩んだ。
「病院の場所も歩いていけない距離じゃないみてえだし、このまま行くか」
「!?」
「なんだよ、その顔は」
『お…』
「あ?なんだよ」
『お、おろしてください』
「……」
『はっ、はずかしいので!』
一生懸命に動く唇をじっと見つめる。はじめての、トロ女の意思表示にますます自分の口角があがっていくのが分かった。
「降ろしてやらねえよ。お前、どうせ逃げようとするんだろ」
『うあ…』
「(面白い…)」
『み、見られるのは苦手なんです』
「だったら、俺の肩にでも顔うずめてろ。そしたら、わかんねえだろ」
そうして、意外と素直に俺の肩に顔を隠しはじめる女の髪から、ふわりと香ったのはあの花のような甘いにおいだった。頬に柔らかく触れた栗色の髪の毛。その感触に、なぜかくらりと目眩がして足取りがふらついてしまった。
くそ、なんでこんなに今日はあついんだ。