3.花の毒
込み合う食堂の中で、クリーム色のワンピースが戸惑い気味に揺れていた。
「何やってんだあいつ」
ひとの多さに怯える後ろ姿で、すぐにこの間のウジウジ女だと分かった。紅色のがま口財布を両手で握りしめて、食券を買う自販機の前で固まっている。眉を思いきり下げて泣きそうな顔で、何を食べるか決まらなくて迷っているらしかった。行動も思考も何もかもが、すげえトロくさい。
後ろに並ぶ列にやっと気付いたトロ女は、慌てて財布の中からお金を出そうとして小銭をぜんぶ地面にじゃらじゃらと落としていた。とうとう表情は曇りだして、泣き出す3秒前みたいな瞳の潤ませ具合に、見ていて腹がたってくる。座っていた席を立って、もたもたと小銭に広い集めている女の前まで歩いていき仁王立ちする。
目の前にできた影を不思議に思ったのか、女はゆっくりと顔を上げて、そして俺だと気付いた瞬間青白い顔をさらに青くさせて持っていた財布ごと地面に落とした。中身が全部飛び出して、俺の足元にもいくつか小銭が飛んできた。
「ほらよ」
仕方なく拾ってやったにも関わらず、女はぺたりと尻餅をついたまま顔を俯かせてしまう。すかさず、顎をもち上げて顔を固定させる。震える唇からは何も聞こえてこなかった。あー、面倒くせえ。
「さっさと金拾え。んで、さっさと食券買えよ」
「……」
「おい。聞いてんのか」
「……」
「ちっ」
微動だにしない女の腕をぐいっと引っ張って立たせてやる。肩を竦ませて泣きそうになっている女の代わりにせっせと金を広い集めて財布の中に突っ込む。並ぶのも面倒だったので、列に割り込んで適当なボタンを押す。出てきた食券をカウンターにポイッと置く。しばらくしてから出来上がった親子丼をお盆に乗せて、固まったままでいる女の腕を引いて歩き始める。くそ、なんで俺がこんな面倒くせえことしなくちゃいけねえんだ。
「おら、早くここ座れ」
コクン、と小さく頷いてふらふらと椅子に腰掛けるトロ女。さっきから目も合わせようとしやがらねえ。苛つく。隣に座って、じっと様子を観察すればさりげなく距離を置こうとする。苛つくので、細い足に自分の足をがっしりと絡ませて逃げられないようにしてやった。
「食え」
「……」
「俺が食えっつってんだから、さっさと食え。冷めちまうだろうが」
割り箸を不恰好にパキリと割ってから、一度だけ俺を見ようとして視線を泳がせる。結局視線は下を向いたまま、ちまちまと親子丼を食べていく。…食べるの遅えな、なんてどうでもいい情報を頭の中に入れつつ、そういえばこいつの名前さえ知らないことに今更気付いた。
「お前、名前は?」
ピタリと箸を持つ手が動きを止めた。それっきり、反応がない。俯いたままの女の頭をがしりと掴んで、ぐりんと自分の方に向かせる。やっとまともに合った両目は、困っているように見えた。口をはくはくさせて、何も話そうとしない女に苛立ってついつい口調が荒くなる。
「名前だ、名前。別に体重聞いてるわけじゃねーんだから、それぐらい答えられるだろうが」
「……」
「てめえ、いつまでそうやって黙ってるつもりだ」
「…っ。…、…。」
パッと女の顔から手を離す。何か、おかしい。この間、はじめて話し掛けたときも、今も、こいつの声を一回も聞いたことがない。薄くて血色の悪い唇をきゅっと閉じて、トロ女は相変わらず黙ったままだ。ためしに「おい、アイウエオって言ってみろ。ア・イ・ウ・エ・オ」と、促してみてもおどおどと口を開けたり閉じたりしてみせるだけ。
「お前、まさかマジで喋れねえの?」
長い前髪の隙間から覗くはちみつ色の瞳が、動揺を隠すことができずにゆらゆらとおおきく揺らいだ。
「声、出せねえのか」
ゆっくりと頷いてから、怯えながらも俺を見上げた女の視線に、不覚にもほんの少しだけどきりとした。違和感の正体がやっと分かり、ふうんと頬杖をつきながら思うことはひとつしかなかった。
花のにおいなんかに惑わされるんじゃなかったぜ。
彼女にでっち上げる女、間違えちまった。こんな外見も中身も面倒くせえ女、御免だ。
あーあ、失敗した。