14.黄色の花のすみっこで
きみの声がすきだった。きみの手がすきだった。何より、わたしに向けてくれるお日さまみたいな笑顔が、だいすきだった。
なのに。神様、どうして。
「このっ、いい加減、止まれっ!おい、待ちやがれ、撫子!!」
どうして、“もう近付かない”と、固く決意した昨日の今日で、また会ってしまうのでしょう。わたしはただ、図書館で本を借りて、半田先生の研究室にお邪魔させていただこうと、考えていただけだったのに。こんな汗だくになってまで、大学内を走り回る予定なんて、なかったはずだったのに。
そもそも、どうしてここに彼が、早乙女先輩が。
「おや?撫子さん、いらっしゃい。探してた本は見つかった?」
ひたすらに走っている間に、どうやら当初の目的地であった半田先生の研究室の前にたどり着いていたようでした。丁度、研究室のドアから出てきた半田先生は、分厚いファイルを片腕に抱えたまま、わたしを見つけるなりいつもの眠たげな瞳をふんわりと緩めてくれます。
「ん?あれ、どうしたの…随分汗だくだね。走ってきたのかい?」
『は、はんだ、せんせ、あの…』
「……ん?ははっ、若者たちは元気でいいなあ」
『え…?』
「でも、廊下は走っちゃだめだよねえ」
半田先生のやわらかく笑う視線の先、わたしの背中の向こう側。近付いてくるのは、大げさなくらい耳に響く靴音とわたしの名前を呼ぶ、早乙女先輩の声。恐る恐る、半田先生とおなじ方角へと振り向くと、汗だくで一心不乱に走ってくる般若の形相をした、大魔王様が見えてしまいました。別の意味で汗だくになるわたしのからだ。捕まったら、おしまいです!
きっともう、逃がしてはもらえないような、そんな気がします。
『にげなきゃ…だめだ…』
「そっか。鬼ごっこしてるんだね、いいね青春時代ってかんじだ」
『ち、ちがいます…!』
そんなかわいらしいお遊びなんかじゃありませんよ!と、わたしが激しく首を振って否定すると、半田先生はまた少しだけ目を見開いてから、ゆっくりと表情を緩めるのでした。
「そっか。じゃあ今は、とことん逃げている最中なんだね」
こうして話している間にも速度を緩めずに廊下を走って、こちらへ徐々に近付いてきている早乙女先輩の姿。
「それじゃあ、僕は応援でもしようかな」
とん、と背中を軽く前へと押される感触。一歩、二歩、進んでしまった足を止めて、半田先生のほうへ振り向きます。
「がんばれ。」
まるで、マラソン選手へむけた激励のことばのようにも聞こえました。わたしはよく分からずに首を傾げました。半田先生は、なぜかいたずらっぽく歯をのぞかせて笑いかけてくれるだけでした。
軽く会釈をしてから、わたしはまた走りだします。こんなにお腹が痛くなるほど走るのは、何年ぶりでしょう。走るのは、昔から苦手でした。運動音痴で、遅いくせにすぐに転ぶから、駆けっこはいつもビリ。楽しかった思い出なんてありません。
今だって、そうです。……早乙女先輩はどうして追い掛けてくるのでしょう。
「おま、トロいくせして、なんで、逃げ足だけはえーんだよっ!ざっけんなぁっ!」
早乙女が、苛々した口調で叫ぶのが聞こえてきます。でもわたし、今、一生懸命ですから。早乙女先輩から逃げるのに。必死で、速さなんて考えてなくって。見えるのは、夏のにおいが残る青空だけ。気付けば、キャンパスから出ていました。中央の時計台の下を走り抜けて、体育館前で、談笑中のダンスサークルの方たちのあいだをするりと割って走っていきます。
疲れ果ててきた頃、お日さまのようなあたたかなにおいがしました。ああ、これは向日葵のにおい。夏の花のにおい。花壇一面に、満開な向日葵の行列が、キラキラと水を浴びて光っていました。
思わず走る足を緩めてしまいます。その油断が、いけませんでした。
「…やっと、つかまえた」
ぱし、と手首をいともたやすく握られました。あつい手の温度。呼吸の音が、耳元でして、振り向かなくても分かってしまいました。振りほどこうと、拒もうとしたもう片方の腕も簡単に握られて、とうとう真正面から、早乙女先輩の顔を見上げることしか出来なくなりました。
「もう、逃がさねえからな」
つかまれた両手をほどこうとしますが、びくともしません。……もうわたしに構わないでほしいのに。逃げようとするわたしの足と、近付こうとする早乙女先輩の足。先輩が、ゆっくりと口を開きました。
「お前、ムカつくんだよ。何考えてんのか、わっかんねーし、全然こっち見ねーし、笑わねーし」
「……」
「苛々すんだよ、お前みたいなやつ見てると。そんなあからさまに逃げられると。……無理矢理にでも、とっつかまえたくなるんだよ」
夏のあつさが、視界を滲ませます。どうして、このひとは、こんなにも真っ直ぐにわたしを見つめることができるのでしょう。わたしには、できない。逸らすことしか知らないわたしには、見つめ返すことなんか、できっこないんです。そんなわたしの思考を見透かしたかのように、早乙女先輩は話し続けています。
「お前は、いつも俯いてばっかだな。俺はお前のこと見て話してんのに、お前はいつも逸らしてばっかで、見ようともしねえ」
「…っ」
「こっち見ろよ。俺のこと、見ろよ。俺も撫子のこと、ちゃんと見るから。そしたら、お前の話だって、聞いてやることぐらいできるだろーが」
「……」
「なあ」
「……」
「撫子」
ぐっと腕を引かれて、先輩とのからだの距離が近づいたそのときでした。冷たい何かがわたしたちの真上にバシャーッと勢いよく降ってきたのです。ポタポタと髪から落ちてくる雫が首筋へと落ちていきます。雨かとも思いましたが、空は変わらず快晴。瞬く間にして、びしょ濡れになってしまったわたしたちに、次は慌てた声が降ってきました。
「げえっ。やっべ、すんません!かかっちゃいましたか!?」
ホースを持って現れたのは、ここの男子学生さんのようでした。向日葵に水やりでもしていたのでしょう。タオルを首にかけて、汗を拭う作業着姿の男のひとは、早乙女先輩の姿を捉えたなり、顔を真っ青にさせました。
「って、早乙女さん!?うわわっ、まじですいません!俺、今日花壇の水やり当番、教授に頼まれてましてー…はは…まさか…ひとがいるとは思いもしなくてですねー…はははー…」
「冷てえんだけど」
「ハイ、冷たそうですねー…ははははー…つか、俺、お邪魔、っすか?いや〜〜お熱いっすね〜お二人さん、みたいな?ハハハー……」
「言い訳する前に、やることがあるよなあ?なあ、平田?」
「すっすんまっせんでした!!今すぐダッシュでタオル持ってきます!あと今度なんか奢るんで許してください早乙女サン!!!」
「いいからさっさと行けよ平田」
「ですよね行ってきます!!」
“平田”さんとやらのお姿がすぐに見えなくなり、早乙女先輩が舌打ちをしながら髪を掻き上げました。まさに、水も滴るなんとやら、です。ユラユラと、先輩のいる世界が揺れています。なんだか先程から、焦げそうなくらい頭のてっぺんがあついのです。
「…あ?撫子…?お前、顔色悪…って、おい!撫子!」
『…、…。』
早乙女先輩がわたしの肩を掴んだのが分かりましたが、そのあとのことはすぐに分からなくなりました。プツンと途切れたわたしの意識。視界が、真っ暗になる直前まで呼ばれていた名前。先輩、そんなにからだを強く揺さ振らずとも、わたしは平気ですよ。放っておいて下さい。わたしは、ひとりでも大丈夫ですから。
「撫子」
だから、そんな声でわたしの名前を呼ばないでください、先輩。
思い出してしまうんです。先輩に見つめられるたびに、先輩に追い掛けられるたびに。大切な、たったひとりのあのひとのことを。決して、先輩とあのひとは似ていないのに、どうしても、重ねてしまうのです。
「おーーい、撫子ー?撫子ちゃーん」
懐かしいきみの声がする。
「おっ、こんなとこにいたのか。探したぞ」
お日さまのにおい。いつも傷だらけのカサカサ手のひら。
「俺が悪かったからさー、ほら、仲直りしよーぜ。なっ?」
わたしを呼ぶ、やわらかな雲のような笑顔。
どうしたって、忘れられないよ。もう会えないのに、会いたいって思っちゃうよ。また、ぎゅってしてほしいって甘えたくなっちゃうよ。ねえ。
『すみれくん…』
ああ。それなのに。神様、どうして。