12.花の迷路
そして、彼女の思考もループする。
名前を呼ばれた気がしました。振り向くけれど、辺りは一面真っ黒で人っこひとりいませんでした。片方の瞳から、ぽろりと涙の一粒が落っこちて暗闇の中に溶けていきます。水面はもう、足首まで蓄まっていました。
知ってるよ、もうわたしのとなりで手をつないで無邪気に笑ってくれるきみがいないこと。とっくに、思い知ってるよ。きみがいなくなったわたしの世界は、逸らしたくなるものばかりで逃げ出したくなるような道のりしかないってこと。
息がうまくできないような、この海の底で、ただ終わりがくるそのときまで静かに眠りにつくのも悪くないのかもしれない。
「いつまで寝てるんだよ、さっさと起きやがれ」
遥か遠くの頭上から、苛立った声が響いてくるのが分かりました。慌てて耳を塞ごうとしたら、その手首ごと引っ張りあげられて、わたしのからだは宙へと浮かびました。きつく閉じていた瞳を無理やりこじ開けられて、見えたその先には眩しい光が溢れていました。
「さっさと行くぞ、このおおばか」
声のするほうへ、手の引っ張られるほうへ、涙を拭く暇もないままわたしの素足はぺたぺたと前へと進んでいきました。
ああ、そういえば。たったひとりだけいました。隅っこで目を逸らすだけの臆病なわたしを、見つけ出して強引に引っ張りあげてくれたひと。ひとりになる術を簡単に素手でぶち壊してくれたひと。
また、小さく名前を呼ばれた気がしました。
*
「どうしたんだい撫子さん、目の下が真っ黒だよ。隈ができている、よく眠れなかったのかい?」
夏の終わり。ぼんやりと部屋で過ごしているだけのわたしを呼び出してくれたのは、半田先生でした。「友人から外国のお菓子をお土産でもらったんだ。いっしょに食べないかい?きみの好きなあたたかいココアもだすよ」携帯電話越しから、先生特有の眠たそうな声がふわふわと笑っているのが聞こえました。半田先生からのせっかくのお誘い、断れるわけがありません。わたしの返答をのんびりと待っているであろう先生に聞こえるように、手を大きく一回叩きました。この手拍子は、今現在、声が出せないわたしのために半田先生が考えてくれた返事の合図なのです。イエスなら一回叩く。ノーなら二回。
わたしの返事を聞いて安心したのか、「じゃあ、大学の僕の研究室で待ってるよ」と言って、半田先生からの電話は切れました。
慌てて、ハンガーにかけてあった桃色のワンピースに袖を通します。…出掛ける間際に、わたしはふと今朝見た夢のつづきを考えていました。最近、不思議な夢をよく見るような気がします。何かの前触れなのでしょうか。
そして、電車に揺られて着いた久しぶりの大学。迷わずに向かった、半田先生の研究室。ノックをしてドアを開けた途端に、半分しか開いていない半田先生の瞳がゆっくりと見開かれたのでした。キョトンとするわたしの顔を覗き込んで、半田先生は心配そうに、先程の冒頭のことばを言われたのです。
「女の子なんだから、夜更かししちゃだめだよ?…それとも、何かいやなことがあったのかい?」
『最近、夢をよく見るんです』
「ゆめ?…良かったら、聞かせてくれる?一応、僕は“心理学のせんせい”、だからね」
冗談混じりに、えっへんと胸を張る半田先生を見て、少しだけ強張っていた肩の力が抜けていきました。
半田先生の研究室が好き。ここはいつだってあたたかくてやさしくて、たくさんの本に囲まれている。まるで、森の奥にある小人さんの隠れ家みたい。ソファーにゆっくりと腰掛けたわたしを確認して、半田先生がかわいらしいウサギの耳が生えている白いマグカップにコトコトとココアをいれてくれました。熱いから気をつけてね、と笑った先生は、そのまま書類や私物でぐちゃぐちゃになったデスクから何かを探しはじめます。パソコンの横に、こんもりと煙草の吸い殻が積もっている灰皿がやけに目立っていて、そっと苦笑い。
「おっ、あったあった」
本の山から発掘されたのは、お菓子の箱でした。右手にコーヒーカップ、左手にはお菓子の箱を抱えた半田先生がよっこらしょとわたしの向かい側の椅子に腰掛けました。すぐに箱の中身を確認しだす先生は、相変わらずどこかこどもっぽい。
「おお、クッキーだ」
『どれもかわいいかたちをしていますね。おいしそう』
「好きなだけ、食べて構わないからね」
『ありがとうございます。いただきます』
「うんうん。お食べお食べ〜」
お花のかたちをしたクッキーをひとかじり。半田先生が淹れてくれたココアを一口。どちらもとても甘くて、でもしつこくないやさしい味がしました。一息ついて、クッキーを口いっぱいに頬張っている半田先生をちらりと見ます。ん?と、首を傾げられました。
半田先生とはよくお話をしますが、夢のお話をするのははじめてかもしれません。なんだかちょっとだけ緊張しながら、朧気な夢の内容をポツリポツリと話していきました。半田先生は、相槌をたまにうちながら黙って聞いてくれていました。
全部話し終わったあと。たくさんのわたしの文字で埋めつくされたメモ帳から、顔を上げて半田先生を見れば、先生はただ笑ってわたしの頭をぽんぽんと軽く叩いてくれました。
「話してくれて、ありがとう。疲れたかい?」
『いいえ。半田先生に聞いてもらえて良かったです。いつもわたしの話を聞いてくれて、ありがとうございます』
「なんのなんの。…僕には、それくらいしかできないからね」
半田先生がどこか寂しげに笑いました。そんなことないです、そう伝えたいのに。コトバは、喉の奥でチクチクと刺さったままで声になることはありませんでした。大きく首を横に振ることしかできないわたし。もどかしいこの感覚。去年から数えきれないほど、この痛みを経験したにも関わらず、わたしのコトバは相変わらず表に出ることはないのです。いったい、いつまで?
『そんなこと、言わないでください。半田先生がいなかったら、わたしはきっとまだふさぎ込んでいたままでした』
控えめに、先生の手をきゅっと握ります。半田先生は、ありがとうと小さくつぶやいてそっとわたしの手を握り返してくれました。なんて、やさしい手なのでしょう。今でも鮮明によみがえるあの日。生温い春の日。桜の花。お線香のにおい。黒の行列。囁き声。泣いてばかりだったあのころのわたし。そんなわたしと同じ目線にしゃがみこんで眠そうな笑顔を見せてくれた、あの時の半田先生の、魔法みたいなコトバ。
「撫子さん、僕の大学に来ないかい?」
あのコトバに、どれだけ救われたか。やっと、一歩進むことができたのです。半田先生は、わたしの恩人なのですから。
「撫子さん、焦らなくてもいいと僕は思うよ。きみのせいじゃ、ないんだから。…もっと、甘えてもいいんだよ?」
『わたしは、大丈夫ですよ』
「…そう?」
やさしいひと。また、甘えてしまいたくなる。いやだ怖いと全部弱音を吐いてしまいたくなる。でも、そんなのだめ。またおんなじことを繰り返してしまうだけ。
夢の中で聞いた、彼の声を思い出します。眩しい背中。逞しい腕、強引なのにどこかやさしさも感じたあの温もり。夢は、願望の現れだと、何かの本で読んだ記憶があります。だとしたらあの夢は、わたしの願いそのもの?
わたしはまた、やさしさに付け込もうとしていたのでしょうか。甘えようとしていたのでしょうか。…なんてことでしょう。恥を知れ、わたし。どこまで、自分のことしか考えてないんだろう。突然蹲ったわたしの肩に触れる半田先生の手をやんわりと避けます。
「撫子さん、どうしたの?どこか痛い?気分が悪くなった?」
半田先生、わたし本当はあのときうれしかったのかもしれません。知らない土地へ来て、知らないひとばかりの大学で、はじめてわたしに声をかけてくれたことが。逸らされてばかりだったわたしのことを、一度も逸らさずに見つめてくれたこと。こわくて逃げ出したい気持ちの奥で、どこかうれしいと思っていたわたしがいたんです。
わたしは、彼に、早乙女先輩に、救いを求めようとしていたのです。
だって、早乙女先輩はいつも面倒くさいと舌打ちしながらも、わたしを見限ろうとはしなかった。泣いて怯えてばかりのわたしを見ても、文句を言いつつもそばからはなれようとはしなかった。逃げようとするわたしの手を毎回しっかりと握ってくれた。
本当は、やさしいひとなのではないかと思った。
あの夢は、きっと警告だ。これ以上、彼に近付いてはだめだという神様からの。もしくは悪魔からの。どちらでもいい。離れなくちゃ、先輩から。わたしが近付いちゃいけない。きっと、また繰り返す。やさしいひとを、巻き込みたくない。
離れなくちゃ。
『半田先生』
「ん?」
『わたし、がんばります』
「え?な、なにを?それより、大丈夫なのかい?」
『がんばりますから』
「う、うん?」
これ以上、早乙女先輩には近付かない。
大丈夫、逃げるのは得意分野ですから。