11.花と野獣と
続・ごはん回。そして、彼の思考はループする。
まただ。考える前に、勝手に足が動いていた。走るなんて、ガラでもないはずなのに。
オモチャのラッパみたいな音が、隣から聞こえてきた。思考がフッと途切れて、今自分がいる場所をぼんやりと見渡す。こじんまりとしたラーメン屋には、なんだか不似合いな栗色の長い髪がふわりと、視界の片隅で揺れていた。鳴り止まない陽気な音に慌てふためいて、首からぶら下げていたネコのかたちのポーチを握りしめている撫子をじっと見る。どうやら携帯電話の着信音らしい。未だに、操作がよく分かっていないのか、携帯の画面を凝視しながら固まっていた。
「…ばか、ここ押すんだよ」
視線が合った。…なんだそのあからさまな“すごいですね”的な眼差しは。通話ボタンの場所を教えてやっただけだぞ。おおげさなやつ。撫子がぎこちなく携帯電話を耳に当てるのをただ、眺めた。このトロい女にも、知り合いがいたのか。視線を前方へちらりとずらすと、向かい側に座っている友人その1とその2が、ラーメンを食べながら小競り合いをしていた。ばか二人組の会話にはいる気はさらさらないため、携帯電話を両手でそっと握りしめて、相手の声に相槌をうつように首を小さく縦に振っている撫子の様子を見つめることにした。
…ちょっと会わない間に、また少し痩せたような気がする。そもそも、携帯電話の相手は、撫子が話せないことを知っているのだろうか。知っていてあえて電話を掛けてきた理由は一体なんだ。
「誰と話してんだろうね、夏目ちゃん」
「……知らね」
こそこそと俺の肩を叩いてきたのは、友人その1である野上だった。なにがそんなに面白いのか。口元が分かりやすくニヤニヤしている。…俺に聞くなよ。むしろ、俺が聞きたいぐらいだ。エセ王子は黙ってラーメン食ってろ。
「別に誰だっていいだろ」
「気になるくせに〜。顔に書いてあるよ」
「うっぜ、絡んでくんな。そういうお前も、“面白そう”って顔に書いてあんだよ」
「あっ、バレた?」
うざったらしく俺に耳打ちしてくる野上を押し退けて、撫子を見る。まだ、電話中らしく律儀にコクコクと頷いたり、ペコペコとお辞儀をするのを繰り返している。日本人の見本みたいなやつだな、あいつ。相手は声だけなのだから、どんな態度を取ってもわかりはしないのに。…まじで、電話の相手誰だよ。いや、非常にどうでもいいが。
「男じゃねーの?」
「ぶっ」
「うわ、早乙女きたない!」
今まで俺らの会話を黙って聞きながらラーメンを食べていたはずの坂田からの、何気ない一言に、思わず飲んでいた水を噴くはめになってしまった。キョトンと首を傾げている能天気な坂田と、むせこむ俺を見てゲラゲラと笑いこけている野上に、軽い殺意さえ覚える。
「どうした早乙女、ラーメンでも喉につまったか?」
「……ああ、まあな。夜道には気をつけろよ坂田」
「おい、最後のほうに、早口で物騒なこと口走るなよ!俺、なんかまずいこと言ったか!?」
「うん、ナイスだったよ坂田。超笑えた」
「…俺は笑えねえよ、クソ野上」
「うわー、コワイコワイ」
その時、隣で縮こまって電話をしていた撫子が、通話中になっている携帯電話をおもむろにゆっくりとテーブルの上に置いたのが見えた。そして、その携帯電話に向かってパンッと手拍子を一回。…何、珍妙なことしてんだこいつ。神頼み?は?電話の相手、神?いやいや、そんなわけあるかよ。
ばかなことを考えていた俺の服の袖がくん、と引っ張られた。見ると、撫子が控えめに俺と、野上たちを見上げていた。おずおずとメモ帳を取り出して、書き出した撫子を野上と坂田が興味津々に覗き込んでいる。
『早乙女先輩』
「……なんだよ」
『わたし、先に帰ってもよろしいでしょうか』
「なんで」
『その…用事があったのを思い出しまして……すみません。慧先輩、本日は昼食に誘っていただきありがとうございました。坂田先輩も、せっかく先輩が奢ってくださったのに全部食べられなくてすみませんでした…』
「いいっていいって。またいっしょに食べようなー?坂田の奢りで」
「なんでだ!つか、夏目ちゃんが謝らなくていいから。こっちこそ、野上が無理矢理ごめん。帰り、気をつけて帰りな」
「そうだよ夏目ちゃん。気をつけて帰るんだよ?特に夜道には特に。油断してると、早乙女に襲われちゃうんだからね」
「襲わねえよ」
すみませんすみません、と撫子が頭を下げるたびに下手くそにくくられている前髪がピョンピョンと揺れている。今日はこの可笑しな前髪のおかげで、いつもより撫子の表情がよく見える。…坂田と同じなのが気に食わないが。
店の出入口に向かっていく撫子の背中を見ていたら、「あ、そういえば」と言いながら野上が立ち上がった。
「夏目ちゃーん。夜道もそうだけど、車にも気をつけてー。また挽かれそうにならないようにねー」
「じゃあなー、夏目ちゃーん。…なんだよ、いい子じゃん。なんで早乙女なんかに引っ掛かったりしたんだろうなあ」
「……おい、野上」
「ん?なに、早乙女…って、顔般若みたいになってるけど、どうした?」
「あいつ、車に挽かれたのか」
「んーん、違うよ。挽かれそうになってただけ。で、偶然見つけた俺が助けたの」
ザッと血の気が引いた気がした。あいつ、前々から思ってたが、危なっかしいにもほどがある。この間は、熱中症で道端にへたりこんでいたと思ったら、今度は車に挽かれそうになっていただと?
「ふざけんなよ…あのトロ女。あれほど、前見て歩けっつってんのに…」
「夏目ちゃんってそそっかしいよなー」
「そそっかしいのレベル超えてんだよあいつの場合!くそ、腹立つなマジで!」
「なんか必死だな、早乙女。そんなに夏目ちゃんが気になるんか」
「はあ!?いや、気になるっつーか、撫子見てると苛々するんだよ!危なっかしいし、いつもどっか遠くのほうぼんやり見てるし、なんか目が離せねえ!それだけだ!」
そうだ、それだけだ。それっぽっちの存在なんだ。夏目撫子という存在は。
それだけだというのに、なぜ。俺は今も撫子が出ていった方角から目が逸らせないんだ。出会った第一印象は最悪で、それは今もさほど変わってないというのに。
なんで、俺はいつもあいつのところへと足が向かってしまうのだろう。
頭を抱えて唸る俺を見ていた友人たちが一度互いの顔を見合わせた。そして、声を揃えて俺の顔を指さして言ったのだ。
「好きなんだろ?」
「好きなんじゃないの?」
「……誰が誰をだよ」
「だから、早乙女が」
「夏目ちゃんを」
「ありえねえだろ。なんで俺があんなトロくてイモい女…。好き?…ねえな、ありえねえ」
こいつら急に何を言いだすかと思えば。意味がわからん。失笑しながら、水の入ったコップを口に運ぶ。…あ?おかしいな、水が口の中に入ってこねえ。なんでだ。
「早乙女、そこ口じゃなくて鼻。全部こぼれてる」
「動揺しまくりじゃんかよ…結構分かりやすいなお前」
「違う。間違えただけだ。問題ねえ」
「ありまくりだろ!服、びしょびしょになってんじゃねえか!」
「お前らが意味わかんねえこと言うからだろうが!就活のし過ぎで頭おかしくなったんじゃねえのか!?」
「逆ギレか!いいよなあ、もう就職先決まってるやつは恋だの愛だの考えられて!俺だってなあ…俺だって……イチャイチャしてえんだよおおお」
「ただの八つ当たりじゃねーか!」
ぎゃあぎゃあ言っていた坂田は次第に、勝手に大人しくなっていった。壁に寄りかかり、「いいんだ別に。俺、あの子といっしょにネバーランド行って幸せに暮らすんだ…就活?そんなもんクソ食らえだ…社会はなんて冷たいんだ…」などと、戯れ言をブツブツつぶやくだけになる。これだから、恋にのぼせてるやつは嫌なんだ。俺がこのばかと同類だと?ありえねえ。
ようやく平静を取り戻しかけていた俺に、追い討ちをかけたのは黙って傍観していた野上だった。相変わらずのニセモノのようなにこやかな笑顔が癪にさわる。
「じゃあアレだ。一目惚れだ」
「ありえねえ。なんだ一目惚れって。鳥肌立つわ」
「だって、はじめて会ったときから夏目ちゃんのことが気になるんでしょ?自分を見てもらえなくて苛々してるんでしょ?」
「違う。あいつがいつも俺の目の届くところに居るから気になってるだけだ。なんでいつも俺の視界にはいってくるような場所にいるんだよ」
「だからさ、それって、早乙女があの子のことを視界にいれてるからじゃないの?早乙女がいつも視線で追ってるんだよ、夏目ちゃんのこと。それだけ、好きになっちゃってるんじゃないの?」
……フリーズする。頭の中が、真っ白になった。ただ、野上が言い放ったコトバだけがてっぺんから足の裏までぐるぐるとループして反芻されているだけ。
そんな“スキナンデショ・ヒトメボレ地獄”から溺れかけていた俺を救ったのは、タイミングよく鳴り響いたバイト着のエプロンの中に入っていた携帯電話のアラーム音だった。しまった、休憩時間とっくに過ぎてた。
まだなにかごちゃごちゃ言ってる野上は無視して歩きだす。何が好きだ。何が一目惚れだ。しかも相手があの面倒くさいトロ女?ありえねえ、天地がひっくり返っても俺が今さらそんなこっ恥ずかしいレンアイをするなんてあるわけがないんだよ。
ハッ、と自嘲気味に笑った瞬間、ガツンと何かに激突した。見ると、店の柱だった。…地味に痛い額を押さえながら、スタスタと出口であるドアに向かって早足に歩く。背後から坂田の声がしたが、当然無視する。うるせえんだよどいつもこいつも。何度も言うが、俺がまともなコイなんて出来るわけがねえんだ。あんな面倒の塊、御免だ。こっちからお断りだ。
勢いよく足を前に進めようとしたら、何故か身体が動かなくなった。ぱちくりとする俺の背後から、再び坂田と野上の声が聞こえた。
「早乙女、挟まってる挟まってる。自動ドアに身体が」
「動揺が行動に現れてんぞー。早乙女…お前ほんと清々しいほど分かりやすいな…」
違う。これは、間違えただけだ。まったく、問題はねえ。