10.笑う牙にご用心
都会の王子様とそのご友人に案内された場所は、豪華なお城や煌びやかな舞踏会でもなくて、あたたかな湯気の空気が漂う庶民的なラーメン屋さんでした。
「この店で、一番高いやつ頼もうね夏目ちゃん。いっちばん高いやつ」
「…俺明日デートなんですけど。久々のデートで気合いいれたいから金が無くなったら意味ないんですけど」
「お前の惚気なんて聞いてねえよ。坂田たちならどこででもいちゃつけるだろ。つーか、さっさと別れて屍になればいいのに。あっ、おじさーん注文いいすかー?」
「…自分がうまくいってねえからって、八つ当たりすんなよな。これだから万年片想い野郎は…イデエッ」
「んん?坂田、何か言った?」
「ナニモイッテナイデス」
テーブル席に着いたなり、わたしの向かいがわに座ったお二人は何やら楽しそうに会話をしていますが、わたしは緊張と混乱でそれどころではありませんでした。王子様改め慧先輩から受け取ったメニューとひたすらにらめっこ。どれもボリュームがすごくて、すでに挫けそうです。あ、でもこの野菜ラーメンならまだお腹にやさしそうかも。
しばらくメニューと格闘していると、突然ニュイッと指が伸びてきてわたしが見ていた野菜ラーメンをトントンと指しました。顔をあげると、慧先輩のご友人の方が「これにする?」と尋ねてきます。こくりと頷くわたしを見て、慧先輩が不満げに口を尖らせました。
「ええーっ、夏目ちゃんつまんないって。ホラ、こっちの特上とんこつラーメンにしようよー」
「いいだろ、別になんでも!好きなの選ばせてやれよ!」
「坂田のドケチ」
「お前にだけは言われたくない」
注文をいい終えたあとも止まらないお二人の掛け合いに混じって入り込んでくるのは、他人の楽しそうな話し声や笑い声。そして時折、慧先輩たちを控えめにチラチラと伺うような女性の視線。なんだか、わたしひとりだけが浮いているように感じて、目線は自然と自分の膝元へと下がっていきます。駄目な癖だって、分かってるくせに。どうしたって、逃げだしたくなるのです。だって、ここにわたしはいちゃいけない。
「夏目ちゃん…だっけ?」
割と近い距離から、声がしたのに気がついてハッと顔を上げます。すると、いつの間にかラーメン3つが置かれていたテーブルに、身を乗り出してじっとわたしを観察するように見つめていたらしい慧先輩のご友人、坂田先輩とぱっちりと目が合いました。前髪を結んだせいで丸見えになってしまっているおでこを恥ずかしげもなく披露しながら、坂田先輩は真剣なかおを近付けて、わたしの長い前髪を何気なくぴろんとめくったのです。急に眩しくなる広がった視界に、目が点になります。
「前髪、邪魔じゃね?食うのに集中できねえだろ、こんな長かったら。つか、普通にうっとおしい」
「うわ…なにさりげなくセクハラしてんの?最低だな坂田」
「前髪あげただけでセクハラ扱い!?…え、まじでセクハラになんの、コレ?」
「ただし坂田に限る」
「理不尽か!」
おでこを全開にさせられたままのわたしを置き去りにして、お二人の会話は進んでいきます。スカートを捲られたわけでもないのに、こんなに恥ずかしいのはなぜなのでしょう。穴があったら、入りたいとはまさに今のこの心情を表すのでしょうか。おおきな紙袋か、お祭りで売っているお面を頭まですっぽりと被って、隠れたいです。しかしわたしのその思いは叶うはずもなく。
「食べるときくらい、前髪あげとけば?俺、結んでやろっか」
「眼鏡も邪魔じゃん?湯気で曇っちゃうしさ、今だけ外しちゃいなよ」
すごく息ぴったりなお二人の手によって、どんどん明るくなっていくわたしの視界。為す術もないまま、オロオロするだけのわたし。そんなわたしの前髪をすばやくヘアゴムで結んだ坂田先輩は、一仕事終えたようなため息をひとつして、「俺とお揃いだな」と嫌味のない笑顔。慧先輩は、「この眼鏡、度はいってないんだねー」と首を傾げながら、何故かわたしの眼鏡をかけたままラーメンを食べはじめてしまっています。
「夏目ちゃん、ボーッとしてると麺のびちゃうよ?」
「ぶわはははっ、野上、眼鏡曇ってる曇ってる!」
「なにツボってんの?坂田って、箸転がって笑う中学生レベルだよね」
「や、やめろその顔面で迫ってくんな、ブフッ」
「…っ、…。」
きつく結んでいたはずの糸がふやけていく感覚。騒いでいたお二人が動きを止めて、わたしへと視線を向けてきました。キョトンとして見つめ返せば、慧先輩の手が伸びてきてポンポンと頭を撫でられます。
「なんだろう…警戒して怯えきっていた野生の小動物をやっと手懐けたようなこの感じ」
「野上が言うと、なんかアレだな…いやらしい」
「失礼だな。別に餌付けしようとか思ってないよ」
「思ってそうでこわいんだよ、お前の場合は」
さっきより和らいだ雰囲気になったお二人に、ますます意味が分からず首をこてんと傾げます。そんなわたしを見ていた坂田先輩が楽しげに笑いかけてくれました。
「あー、成る程なー。あの癒し系な表情にやられちゃったのか早乙女は」
「いやいや、多分本人はまだ見てないと思うよ」
「まじか。もったいねえな早乙女…つか見せなくていんじゃね?夏目ちゃんをわざわざあのケダモノに近づけなくていいだろ、色んな意味で汚れるわ」
すっかり気を緩めていたわたしの真後ろに、真っ黒な影がさしました。振り向かなくても分かるその存在感に、ほどけかけていた糸をきつく結び直します。かわいく結んだ前髪を揺らして笑っていた坂田先輩が、わたしの後ろに立っているそのひとに気付いて「あ」と短い声を上げました。
「お前ら、言いたい放題だな。だれがだれを汚すって?あ?」
「噂をすれば」
「早乙女さんちの寅次郎くんじゃないすか」
勇気を振り絞って見上げたその先には、“くすのき書店”という文字がプリントされたカーキ色のエプロンを着て愛想悪く仁王立ちしている魔王さまがいらっしゃいました。涙目のわたしをゆっくりと見下ろした眼がぴくりと動きます。そして。
「………ぶっ」
「夏目ちゃん、早乙女にウケてるよその髪型。良かったね」
おもいきり吹き出されました。顔を背けて、肩を揺らしている早乙女先輩の姿をなんだか複雑な気持ちで見つめます。やっぱり、ヘンテコなことになっているのでしょうか今のわたし。
「おい、早乙女何爆笑してんだよ。俺の渾身のちょんまげだぞ、かわいい出来だろ?」
「わら、って、ねえ…」
「笑い噛み殺してんじゃん」
「なんで、デコ出し、だよっ。意味…ブハッ、わかんねえし…っ」
わたしには何故ここに早乙女先輩がいるのかが“意味わかんねえ”状態なのですが。その答えは、ひとり黙々とラーメンを食べている王子様が握っていました。
「あれっ、つーかなんで早乙女ここにいるんだよ。バイトは?」
「昼休憩。場所はさっき野上からメールで聞いた。坂田が飯奢ってくれるって」
「奢らねえよ!?」
「俺、特上とんこつラーメン大盛りで」
「容赦なしか!」
「まあ、来た理由はそれだけじゃねーけど」
そこまで言って、チラリと向けられる視線。慌てて顔を逸らすわたしの頭をよしよしとやさしく撫でてきたのは、割り箸を噛みながらにこにこ微笑んでいる慧先輩でした。
「ごめんねー夏目ちゃん。でも、ご飯はみんなで食べたほうがおいしいと思って」
…このひと、確信犯だ。魔王さまを指先ひとつでかんたんに召喚してしまった王子様は、今日一番のすてきな笑顔をきらきらとふりまいたのでした。その笑顔のかけらがぷすりとからだに刺さって、とたんに空気がぷしゅうと抜けていきます。きっとこの技で、幾多のお姫さまのハートをがっしりと掴んだのでしょう。さすが、都会育ちの王子様。裏表を使い分けて、手のひらに転がして上手に今まで生きてこられたのでしょう。わたしには到底できない器用さ。
サプライズ好きの王子様の罠にうっかりはまってしまったわたしと早乙女先輩。すっかり伸びきってしまった野菜ラーメンと出来たてほやほやのとんこつラーメンがとなりに並びます。右肩に度々触れるとなりに座る彼の存在。どうしたって、苦手なものは苦手。逃げたくて、おっかなくて、息が詰まりそうになる。
あの夜の色した眼でじっと見つめられると、身動きすらとれなくなります。
「あ?撫子、お前眼鏡は?」
「野上が掛けてる…やべ、さっきの曇りフェイス思い出した…ブッフ!」
「ふーん」
興味なさそうにわたしの結ばれた前髪を指先で突いて遊びながらも、早乙女先輩はわたしから目を離してはくれなくて。
「眼鏡無いほうがいいんじゃねえの。お前せっかく目の色髪とおそろいで綺麗なんだから、もったいねえだろ」
真っ赤になる術しか分からなかったわたしを見つめては、早乙女先輩は今日何度目かになる笑い声をしずかに、わたしの耳元で囁くのです。
ラーメンの味は、ほとんど分かりませんでした。