『メインクエスト・帝国の追撃者』 Ⅱ
――――酷く、寒い。
何度かの『ソレ』を受け、ヴィネルは漠然と理解していた。
『ソレ』とは得体の知れない喪失感。何か大事な物が流れ出る違和感。
流れ出ていたのは『生命力』だ。
自分の体がダメージを負ったときにそれは失われていた。
同時に満ちていく感覚があったのは『回復率』。
今、ヴィネルの体はその『回復率』による『生命力』の充填よりもダメージ量が大きく上回っていた。
本来なら痛みによってもっと早く理解していただろうが、今のヴィネルに痛覚は存在しない。
――――もう、何も見えない。
今にも掻き消えそうな風前の灯火を宿す瞳はヴィネルに暗闇しか届けない。
――――もう、何も出来ない。
ヴィネルは試しに力を込めてみるが、体が上手く動かない。
せいぜい指先で床を弱々しく引っ掻く程度だ。
体は火の粉のかけらにすらなりはしない。
――――死ぬのだろうか?
そう思った途端にヴィネルは心臓の鼓動がやけに大きく感じた。
それは恐怖だった。人が誰しも持つ根源的な恐怖。
カチカチと歯が音を鳴らす。
それは恐怖から来る物なのか、それともただ寒いだけなのかヴィネルには判別出来なかった。
ただ、一つだけ分かったことがあった。
――――覚えている。
ドクン、と心臓が跳ねる。
やがて、暗闇が流れ落ちるように溶けてゆき水浸しな石の床を映しだす。
――――この感覚を体は覚えている。
地に這い蹲り、死を感じたことも。
何度も何度も繰り返して、折れそうになったことも。
それでもなお、立ち上がったことも。
――――ソレハ『スベテ』コノ『ゲンジツ』ノタメニ――――
ヴィネルは限界を訴える腕に鞭を打って動かす。
インベントリから最高級ポーションを取り出すと、赤い液体の入ったフラスコがその手に握られる。
ヴィネルはその栓を片手で開け、それを一気に飲み干した。
殆どを失われていたはずの生命力がそれで一気に充填される。
ずぶ濡れのぼろ雑巾のようになっていたその姿が炎に包まれると元通りとなっていた。
紅蓮の瞳にレルードとドエインが慌てた様子で警戒するのが映し出される。
それを見るヴィネルの表情には恐怖が見え隠れしている。
生命力を失うことで知った死への恐怖はそう簡単に拭えない。
だが、それでも前へと突き動かされる。
果たしてそれが自分の意思なのか、かつてあった自分の記憶から来るものなのか、それとも見えない誰かが背中を押すからなのか、ヴィネルには分からない。
強くならなければいけない。この『現実』で最強にならなければ――――
漠然と思い浮かんだそれを胸にヴィネルは紅蓮と化す。
瀕死だと目に見えて分かる状態だったヴィネルが立ち上がった事でドエインは驚愕する。
だが、相手は普通では無いのだと無理やりに思考を切り替える。
『アクアエンチャント』の恩恵を受けている限り負けはない。
狙いは確実にレルードとなっているはずだとドエインは断定する。
だが、ヴィネルは一直線にドエインの元へと駆けて来る。
困惑するドエインだったが射程内に入ったヴィネルをとりあえず迎撃する。
右から左へと横薙ぎに一閃。ヴィネルはそれを身を屈めて躱す。
予想通りの動きにドエインは次の手を放つ。
大上段に振り上げてからの振り下ろし。
わざとヴィネルの位置からずれた床に叩きつけた瞬間に魔法を発動させる。
「――『ロックシザーズ』」
ヴィネルの足元の床が隆起し岩の顎門がその足を食いちぎらんと迫る。
弱点を突く属性ではないが土属性の魔法でダメージは与えれると判断しての手だ。
ヴィネルはそれをジャンプして躱す。
宙に浮き無防備な体躯に向け、ドエインは下から上へと斬り上げその体を薙ぐ。
見事に真っ二つなったヴィネルは炎へと姿を変え――――そのままドエインの眼前まで踏み込んで来た。
油断していた。何度か斬ったがその都度大なり小なり体勢を崩していたことでドエインは今度もそうなるはずだと考えていた。
だが、今のヴィネルは全く体勢を崩さずに立っている。
まるでそれが当然と言わんばかりの表情で立つヴィネルはドエインの顔面に何かを押し当てる。
ドエインは視界が塞がれてそれをなんとかしようとするよりも早く、押し当てられたそれはヴィネルの腕ごと『爆発』した。
あらゆる防御力を無視する『爆弾』がドエインの兜を安々と吹き飛ばす。
ドエインの素顔が露になる。その顔は岩のようにゴツゴツとした髑髏だった。
ドエインは土属性の魔法を操る『ガイアスカル』という魔物の力を移植されていた。
人と相入れぬはずのその力の影響か、ドエインは魔物の姿に変貌していた。
「おもしろい顔してんなぁ……それで焼かれても平気ってか? まぁ、灰になるまで焼いてやるよ――『烈火』」
ヴィネルは『烈火』を発動し、その頭部を鷲掴みにする。
防具に付与された属性防御も、エンチャントも、直にその力を叩き付けられれば意味をなさない。
レルードはドエインをサポートしようと動くが――
「テメェは邪魔すんな――『砲火』!」
火球が発射されレルードは瞬時に水の盾を生成して攻撃に備えるが――火球はレルードの足元に着弾し炸裂する。
炎と煙の中に消えるレルード。
やがて、ドエインの手から大剣が落ち耳障りな音を立てる。
高熱で焼かれもろくなった髑髏をヴィネルは一息で握り潰した。
後衛だがレルードも炎に耐性を持つ装備はしているはずだ、とヴィネルはレルードの方へと向き直る。
レルードは未だに燃え盛る炎の中に居るようだったが、このまま『砲火』を何発か叩き込んでやろうと構えている時にそれは起こった。
大部屋の中――否、迷宮内が突如として鳴動する。
まるで迷宮自体が哭いているかのような錯覚にヴィネルは思わず耳を塞いでしまう。
壁にある燭台の灯が一つ、また一つと消えて行き、ついにはレルードを包みこんでいた炎すらも消え去ってしまう。
完全な闇が当たりを支配すると同時に、ヴィネルの足元に銀色に輝く魔方陣が現れた。
「っ――なんだ!?」
驚いて魔方陣から飛び退こうとすると、虚空から銀の鎖が伸びヴィネルを捕える。
抵抗する暇も無く、ヴィネルは魔方陣の中へと引きずり込まれて行った。
「げほっ……一体、何が?」
完全な暗闇の中、レルードは身を起こした。
耐火の装備と『アクアエンチャント』のお陰で大事には至らないがそれでもそれなりのダメージを受けていた。
(ドエインは……やられたでしょうね。あのままだったら私も……これが一体どういうわけで起こったのかわかりませんが、僥倖と思っておきましょう)
レルードはボロボロの体を何とか立たせ、歩き出そうとした矢先、その背に声がかけられる。
その声は場違いなほど明るく陽気な口調だった。
「いっやー、こりゃえらい派手にやったもんやのう。どんだけ元気有り余っとるっちゅうねん。なぁ?」
レルードは声のしたほうに振り向くが闇が濃すぎて姿が見えない。
ここにいるとすれば考えられるのは『紅蓮の瞳』と一緒にいた女しかありえない。
だが、ドエインが塞いだはずの通路からどうやって戻ってきたのかレルードは想像出来なかった。
「いや、でも強化人間ってえらいビビったわ。まさかウチを追って来たんかーって思ったら狙いは『紅蓮の瞳』やったし。まぁウチがかたしても良かったんやけど、ヴィネルがどのくらい出来るのか見とくのもえぇと思ってな? 傍観しとってんねん」
聞いてもいないことをべらべらと勢い良く喋る女の声にレルードは苛立ちを募らせる。
ある程度目が慣れて来るとレルードの目に女のシルエットが映しだされる。
レルードはその方向へと無造作に魔法を放った。
「――『アクアジャベリン』!」
宙に魔方陣が描かれ、中から3本の水の槍が放たれる。
槍が暗闇の中に消えると、女の慌てたような声が響き渡る。
「うわわっ! え、ちょっ――――こらぁ! 危ないやないかい!? 串刺し一歩手前やったで!?」
レルードは舌打ちをすると再度同じ魔法を放つべく口を開くが、それよりも女の行動のほうが速かった。
「はぁ……もうえぇわ、じぶん――『ダークネスウィップ』」
女の声と同時にレルードの四肢に何かが絡みつき、身動きを取れなくする。
それを見たレルードは目を疑った。その手足に絡み付いていたのは闇が固形化したような鞭だった。
レルードは途端に青褪める。その力には見覚えがあったのだ。
この帝国で皇族を除き最も逆らってはいけない人間が持つ力。
彼女は皇帝に並ぶ力を持っているとされる異色の『強化人間』。
闇を操る非道の魔女『女王級』エリシア・ローゼルクス。
「何故……何故貴女が『紅蓮の瞳』と一緒に居る!?」
レルードは最大の疑問をエリシアへとぶつける。
だが、返ってきたのは巫山戯ているとしか思えない答えだった。
「乙女の秘密やで? そうペラペラ喋るもんでもないわ。それに、じぶんお喋り嫌いそうやしもう終わりにしよか――『カニバルベーゼ』」
エリシアが言葉を紡ぐとそれに呼応するように闇が凝り固まっていく。
そうしてレルードの頭上に出来上がったのは、巨大な牙を生え揃えた異形の大口だった。
恐怖の悲鳴を上げることすら許されず、レルードは文字通り闇に喰われた。
後には暗闇と静寂が広がる。
そんな中、エリシアはヴィネルが魔方陣に引きずり込まれた辺りを見つめながら心底楽しそうに呟く。
「はてさて……『紅蓮』か『銀鎖』か、どちらが出てくるんやろ? それとも両方とか? ウチとしては……ヴィネルが出てくると、これからも楽しめそうやな」
暗闇の中一人佇み嗤う魔女の瞳は、暗闇にあってなお融け込まない深淵の色を誇っていた。




