全ての終わった朝へ
がたんごとん、と繰り返す音に合わせて不規則に体が上下する。夕焼けも終わり、人もすっかりいなくなった車内で、私たちは互いに体を少し離すようにして座席に座っていた。
車窓に反射する私は目を逸らしていて、あなたはじっとその窓の向こう側を見ようと目を凝らしていた。
二人とも、何かが切れてしまったように動かないのに、お互いの手を握りしめる手にだけははっきりと意思がこもっていた。
「どこに行こうか?」
沈黙を破ったのはあなたで、相変わらずの笑顔で私の方を覗き込んだ。
問いかけた言葉も、まるで帰り道にほんの少しだけ寄り道する時のような気軽さに包まれていて、私はあなたの眩しさにくらくらとしてしまった。
私の方はと言えば、飛び出した時の高揚感は役目を果たしたと言わんばかりに引いていって、後に残ったどっぷりと逃げ場のない落ち着かなさが車内に満ちていくようで、身じろぎができないのに。
私の中で唯一無事なのは、あなたと繋いでいる手だけ。私がその手に力を込めて握れば、あなたも私と同じぐらいの力で握り返してくれるこの手だけ。
あの場所からいくら逃げても、意味なんてないことは分かっていた。でも何もしないまま、あなたと引き裂かれるなんてまっぴらごめんだった。
もしどうやっても私たちがずっと一緒にいられる事が起こり得ないのであれば、無駄だと分かっていてもそこから何とか逃げ出さんともがく私の気持ちを、大人の誰が分かってくれると言うのだろうか。
がたんごとん、と電車は揺れる。乗り込んでしまったからには、私たちはどこかで明確な意志を持って、どこかの駅に降りなくてはいけない。
ふと、ぼんやりと顔を上げた向こう側に見える窓の中に、一部だけ黒く沈んでる箇所が見え隠れした。
「…海」
ぽつり、と言葉が出た。
「え?」
「海、行きたい」
いまから〜?、と朗らかにゆるく笑うあなたに私は安堵の息をつく。よかった、いつも通りだ。
この前の土曜日に見たあなたの横顔が、どうしても今のあなたやこれまでのあなたと結びつかない。どれもきっと、あなた自身であることに違いはないはずなのに。
「いいよ」
できるはずもないのに、あなたは私の目を見てしっかりと言い切った。全てのことが自分の思うがままであるかのようなどこか幼なげな口ぶりが、今はとても切なく思えた。
けれどその目は決して笑っていなかったことを、私は知らなかった。
この電車をこのまま乗り続けていれば海の近くに行けることは知っていたし、コツコツと貯め続けたお小遣いを合わせれば、何とか二人分の切符になることもちゃんと調べていた。
あなたはきっと全部気づいていたはずなのに、優しくも私に調子を合わせてどこかおざなりで下らない逃避行にも付き合ってくれた。
私も知っていた。あなたは私の我儘であれば、大抵のことは付き合ってくれると言うことを。そして今なら、尚更。
「…夜の海、初めて」
「私もだよ」
私の言葉を拾うあなたはいつもに増して丁寧で、電車が上下に揺れるたびに日常と非日常の間を行き来しているみたいで、どこか落ち着かない。けれど私たちはあくまで普通を装う。お互い、相手も自分も完璧にいつも通りにふるまえていないことを知っていながら、それには触れない。
…私たちは、日常には続きがあるかもしれないけれど、非日常にはきっといつか終わりが来ることに気がついているから。
「ねぇ、髪留めがずれちゃってる」
あなたが私のうなじの近くに優しく触れた。そこには、適当に一本に束ねられた私の髪を控えめに彩る髪飾りがついていた。
随分前にあなたと私で海に行った時に拾ったシーグラスを、洗って磨いて髪ゴムにくっつけたもので、私のいくつか前の誕生日にあなたが私にくれたものだった。あなたのハーフアップの結んである所にも、似た色合いのシーグラスが優しく煌めいている。
「…ありがとう」
私は少しの照れも含めて、あなたにお礼を言う。あなたはどういたしまして、と小さく呟いてまた私と手を繋いだ。
電車の速度が徐々に落ちていく。がたんごとん、という音も不規則な揺れも収まっていく。代わりに、車輪と線路の擦れるか細い音が、電車の外から微かに聞こえてきた。
…誰かの悲鳴みたい。
私は無感情にもそう思った。多分その一瞬だけ麻痺していた。悲鳴を上げているのはあなたか私かもしれない、とほんの一瞬だけ、心によぎってしまったから。
「着いたよ」
あなたが立ち上がって私の手を引いた。
開いたドアはまるで口を開けているみたいに見えた。そのせいか車内から外に出るのに、なぜか外の世界から何者かの体の中へと吸い込まれていくような感覚を味わった。
寂れたホームに人の影はなく、まばらに点滅する灯りに蛾がたかっているばかりだった。私たちは灯りと、灯りの間の暗い所をただまっすぐに突っ切った。
手を繋いだまま改札に切符を通した。改札から出る時、私たちはそれを受け取れない。正真正銘の、片道切符だ。
そこには潮の香りが満ちていた。一筋の光も見えないそれは、あの時私が車窓から見たあの海に違いなかった。
私たちは砂浜に立っていた。
何かのノイズみたいな音は私の頭の中を静かに鈍らせて、私たちはただぼんやりと暗い海を眺めていた。
あなたは何も言わなかった。私も、何も言わなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
「私たちはちゃんと逃げきれるよ」
あなたはおもむろにそう言った。ひどく柔らかい声だった。私はあなたの方を見た。薄暗くてその表情はよく見えなかった。けれど私には分かった。あなたは今きっと、この前に見たあの時のような顔をしているのだろう。その顔にどんな感情が宿っているのかが分からないことに、私は歯噛みする。
私がずっと黙っていたことにあなたは何か勘違いをしたのか、またもう一度同じような調子で告げた。
「逃げきれる、大丈夫だから」
ほら見て、とあなたは水平線の方を指差した。
やがて真っ暗だった海の端が白んで、その輪郭があらわになった。夜が終わる。そしてきっともうすぐ、私たちのこの逃避行も終わる。
あなたの瞳に朝の色が差し込む。あなたは眩しそうに目を細めた。
「…海、綺麗だねぇ。朝焼けが海に満ちてる」
私は思わずあなたと繋いでいた手に力を込めた。あなたがこのまま海や朝に透けていってしまうような気がしたから。
あなたは私の方を見た。そして笑った、かのように見えた。
ほんのりと歪められた唇、弧を描いた目。それなのに、全くもってその瞳は笑ってはいなかった。あなたの瞳には光が差し込んでいるのに、あなたの目は全くもって輝いてはいなかった。むしろ光を吸い込んでいるかのようにさえ見えた。
びくり、と私が思わず後退りするよりも早く、あなたは私に手を伸ばした。
あなたの手が私のうなじのあたりに触れた。そしてそのまま、何の躊躇いもなくそこにあるものを私の髪から引き抜いた。
私は声を上げる暇すらなく、あなたにされるがままだった。はらりと髪がはだけて、少し伸びてきた髪が広がる。
そしてあなたはふっと私と繋いでいた手をやんわりと振り放すと、思い切り私の髪留めを掴んでいる方の手を振りかぶった。
止める間もなかった。抵抗もできなかった。
あなたは綺麗な投球フォームを見せて、あなたのくれたシーグラスの髪留めは朝焼けの海へと吸い込まれていった。ぽちゃん、と小さな音がして、私たちの思い出はあっけなく波にのまれて消えた。
私の口から言葉が出てこないのをいいことに、あなたは私の方を見ないままあなたの髪に留められたもう一つの髪飾りを乱雑に引き抜いた。あなたの綺麗な髪がふわりと潮風にあおられて靡いた。
あなたが私の方を向いた。けれどあなたは私の目を見ようとはしない。必要以上にしか開かれていない瞳は、伽藍堂のようにそこに嵌め込まれているだけだった。
私の手に、あなたはその髪留めをなんとかしてねじ込もうとしてくる。私は反射的に抵抗していた。ずっと一緒だったから何となくわかる。今の見たことのないあなたでも、あなたはあなただから。これからあなたが、私に何をさせようとしているのかも。
「捨ててよ!!!」
あなたが叫んだ。いつも朗らかに笑っていたあなたの口から飛び出した、剥き出しのそれ。
思わず手の力が緩んだ隙に握らされた髪飾りは、丸みを帯びた角が私の手のひらの中でその存在を主張する。
不思議だ。角は尖ってはいないはずなのに、どうしてだろう。とてもとても痛い。涙が込み上げるわけでもないのに、どうしてか全身が苦しい。
「…捨てて」
懇願するように、あるいは命令するように、あなたの声が一段と低くか細くなる。
私は半ばあなたに操られるようにして、それを思い切り投げた。指先からそれが離れた瞬間、反射的に追いかけたくなったけれどあなたのそばを離れることが今は何よりも怖かった。
髪飾りは朝焼けを半透明に透かせ、一瞬だけ煌めいた。そしてその後、何事もなかったかのようにとぷんと海のどこかへ沈んだ。私の気持ちなんて、知りもしないまま。
日は昇りきった。遠くから、サイレンの音がほのかに聞こえてきた。私たちは自分たちが髪留めを投げ入れた海の方を見ていた。
旅が終わる。旅と言うにはあまりにも杜撰で感情的だったけれど、いざ終わってしまうともなればひどく切ない。
けれど不思議と、電車の中で感じていた焦りや恐怖は湧いてない。きっと、あなたが私の中から絡め取ってくれたから。
隣に立つあなたは、身じろぎ一つしない。そして、私とあなたはもう手を繋ぐこともない。目を合わせることもしない。
あなたの目にはもう何が映ろうとも心には映らないし、私があなたにできることなどもうないから。
サイレンの音が大きくなる。波の音を完全にかき消した。
あなたは今、何を思っているのだろうか?怒り、悲しみ、焦り、後悔…。どれもしっくりはこなかった。どれもあなたという形に少しも沿うところがなかった。
私の知っていたあなたはどこかに逃げていってしまった。私を置いて。でも今私の隣にいるあなたは、確かに私の知るあなたに違いなかった。
頭がこんがらがりそうなのにひどく冴えた感覚。ズキズキいたんで仕方ないのは、きっと一睡もしなかったことだけじゃない。なのになぜか、私の思考はひどく澄んでいて視界に映る全てのことがすっと私の中に入り込んでくる。
けれど決して、それらが私の心を動かすことはもうないだろう。
サイレンの音が近づくのをやめた。声を張り上げる大人たちの声が近づいてくる。近づいてくる。
私とあなたは海を見ていた。
もう何も、奪われるものなんてなかった。




