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車旅しかしてこなかった夫婦が、はじめてクルーズ船に乗って気づいたこと  作者: あめとおと
本編

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第9話 下船前夜


 夜の船は、いつもより静かだった。


 廊下にはスーツケースが並び始めている。


 ドアの外に置かれた荷物。


 明日の朝、それらは運び出される。


 旅が終わる準備が、もう始まっていた。


「出す?」


 拓真がスーツケースを指す。


「……もう少しあとで」


 まだ閉じたくなかった。


 この時間を。



 ラウンジへ向かうと、人がまばらだった。


 初日の賑わいとは違う。


 どこか落ち着いた空気。


 ピアノの音だけがゆっくり流れている。


 私たちは窓際の席に座った。


 外は真っ暗な海。


 もう何度も見た景色なのに、今日は少し違って見えた。



「明日か」


 拓真が言う。


「うん」


 それ以上の言葉が続かない。


 グラスの氷が小さく鳴る。


 静かな時間。


 でも、気まずさはない。



「さ」


 拓真が突然言った。


「なんでクルーズにしたか、言ってなかったな」


 私は顔を上げる。


「そういえば」


 聞こうと思って、聞かなかったこと。


「なんとなく?」


「半分はな」


 少し笑う。


「もう半分は?」


 拓真は窓の外を見たまま続けた。


「止まりたかったんだよ」


 その言葉が、すぐには理解できなかった。


「仕事、忙しかったの?」


「まあ、それもあるけど」


 少し間。


「気づいたらさ、ずっと走ってる感じしてて」


 ドライブ好きな人らしい言い方だった。


「旅行行っても運転して、次考えて、帰ったらまた仕事で」


 確かにそうだった。


 休んでいるはずなのに、止まってはいなかった。


「だから、逃げ場ない旅にした」


「逃げ場?」


「降りられないだろ、船って」


 思わず笑う。


 でも、少し分かる気がした。


「強制的に止まるしかない場所」


 そう言ってグラスを回す。


「そしたら、なんか……」


 言葉を探すように止まる。


「ちゃんと時間過ごせる気がして」



 私は何も言えなかった。


 そんな理由でこの旅を選んだなんて、思ってもみなかった。


「言ってくれればよかったのに」


「言うほどでもないかなって」


「言ってよ」


 少しだけ拗ねた声になる。


 拓真が苦笑する。


「でもさ」


 続ける。


「来てよかっただろ?」


 私はすぐ答えた。


「うん」


 迷いなく。



 しばらく沈黙。


 ピアノの音が変わる。


 ゆっくりした旋律。


 誰かが小さく拍手する。


 私は窓に映る自分たちを見る。


 並んで座る二人。


 若くはない。


 でも、悪くないと思った。



「ねえ」


「うん?」


「私さ」


 言葉が自然に出てきた。


「最近、ちゃんと話してなかったかも」


「そうか?」


「必要なことばっかり」


 買い物。

 予定。

 仕事。


 生活の会話。


「でもここ来てさ」


 海を見ながら続ける。


「なんでもない話いっぱいしたよね」


「したな」


「それ、なんか嬉しかった」


 拓真は少し照れたように笑った。



 ラウンジを出て、最後の夜のデッキへ向かう。


 風は少し冷たい。


 星が、初日より近く見えた。


 船の光が海に揺れている。


 私は手すりにもたれる。


「終わっちゃうね」


「終わるな」


 今度は否定しない。


 ただ事実として受け止める。


「帰ったらさ」


 拓真が言う。


「またドライブ行こう」


「いつもの?」


「ああ。でも」


 少し間。


「急がないやつ」


 その言葉に、胸がじんわり温かくなる。


「いいね」


「目的地なしで」


「私たちらしい」


 笑う。



 風が吹く。


 私は少しだけ近づいた。


 自然に肩が触れる。


 言葉はもう必要なかった。


 船は暗い海を進み続ける。


 この旅と同じように。


 戻れない時間を、静かに積み重ねながら。



 部屋に戻り、スーツケースを閉じる。


 ファスナーの音が、やけに大きく聞こえた。


 最後にもう一度、窓の外を見る。


 白い航跡が、夜の海に伸びている。


 私は思った。


 この旅で何かが劇的に変わったわけじゃない。


 でもきっと。


 少しだけ、同じ方向を向き直せた。


 それで十分なのかもしれない。



 灯りを消す。


 船の揺れが、子守歌みたいだった。


 明日、旅は終わる。


 でも――。


 終わりじゃない気がしていた。





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