第8話 旅の終わりの気配
朝、廊下が少し騒がしかった。
スーツケースの転がる音。
ドアの開閉。
笑い声に混ざる、どこか慌ただしい空気。
まだ寄港日ではないはずなのに。
「……なんか、雰囲気違うね」
私はカーテンを開けながら言った。
外はいつもの海。
変わらない景色。
なのに、船の中だけが少し先へ進んでいる気がした。
⸻
朝食会場では、スタッフが何度も声をかけていた。
「明日の下船案内はこちらです」
テーブルの上に置かれる紙。
“Disembarkation Information”。
その文字を見た瞬間、胸が少しだけ沈んだ。
「もうそんな時期か」
拓真が言う。
「早くない?」
「早いな」
本当に、あっという間だった。
⸻
食後、私たちは自然とデッキへ向かった。
いつもの椅子。
いつもの海。
でも今日は、人が少し静かだった。
本を読む人。
写真を撮る人。
ただ座っている人。
みんな同じことを考えている気がする。
――この旅、もう終わるんだ。
⸻
「最初の日さ」
私が言う。
「船、でかすぎて落ち着かなかったよね」
「迷子になりかけたな」
「なりかけじゃないよ、なってた」
笑う。
数日前なのに、ずいぶん前のことみたいだった。
「もう慣れたね」
「ああ」
その一言に、少し寂しさが混ざる。
慣れた頃に終わる。
旅っていつもそうだ。
⸻
昼過ぎ、船内ショップをのぞく。
記念品を選ぶ人たちで賑わっていた。
「なんか買う?」
「どうしよう」
マグカップ。
ポストカード。
船の模型。
どれも“旅の証”みたいだった。
私は小さなキーホルダーを手に取る。
船の形。
「それにする?」
「うん。たぶん普段使わないけど」
「じゃあなんで」
「忘れたくないから」
口に出してから、自分で少し驚いた。
⸻
午後、ラウンジでコーヒーを飲む。
ピアノの音が静かに流れている。
窓の外では海が光っていた。
「帰ったらさ」
拓真が言う。
「また忙しくなるな」
「うん」
分かっている。
仕事。
日常。
いつもの生活。
でも今はまだ、ここにいる。
「なんか変わるかな」
私が聞く。
「なにが?」
「私たち」
拓真は少し考えた。
「大きくは変わらんだろ」
「だよね」
「でも」
コーヒーを一口飲んで続ける。
「ちょっとは違うかもな」
その言い方が、妙に現実的で好きだった。
⸻
夕方。
最後のサンセットイベントの案内が流れる。
人がデッキに集まり始める。
私たちも自然と向かった。
空がゆっくり色を変える。
オレンジ。
赤。
紫。
海が光を飲み込んでいく。
誰も大きな声を出さない。
ただ景色を見ている。
同じ時間を共有している。
それだけなのに、胸がいっぱいになる。
「終わっちゃうね」
小さく言う。
「まだ一日ある」
「でも、もう見えてる」
旅の終わりは、突然じゃない。
こうして、少しずつ近づいてくる。
⸻
夜、部屋へ戻るとベッドの上にタグが置かれていた。
スーツケース用の荷札。
下船準備。
現実への合図。
私はそれを手に取り、しばらく眺めた。
「なんかさ」
「うん?」
「帰りたくないってほどじゃないけど」
「うん」
「もう少し乗ってたい」
拓真が笑う。
「それ、最高の感想じゃないか?」
そうかもしれない。
最初は不安だった。
居場所が分からなかった。
でも今は。
この船が、少しだけ日常になっていた。
⸻
窓の外。
暗い海の中、白い航跡が伸びている。
船は止まらない。
終わりへ向かって、静かに進んでいる。
私は灯りを消しながら思った。
旅の終わりが近づくと。
どうして、今がこんなに大切に見えるんだろう。




