第7話 少しだけ、特別な夜
部屋に戻ると、ベッドの上に一枚の案内カードが置かれていた。
金色の文字。
『Tonight — Formal Night』
「フォーマルナイト?」
声に出して読む。
ドレスコード:スマートカジュアル以上。
「……どうしよう」
クローゼットを開ける。
持ってきた服は、歩きやすさ重視ばかりだった。
ワンピースは一着だけ。
念のために、と入れておいたもの。
「着るの?」
後ろから拓真がのぞく。
「場違いじゃないかな」
「大丈夫だろ」
いつもの軽い調子。
でも少し不安だった。
きらびやかな人たちの中で、浮いてしまう気がする。
⸻
夕方。
支度を終えて鏡の前に立つ。
久しぶりにちゃんと整えた髪。
少しだけ丁寧に塗った口紅。
見慣れているはずの自分が、少し違って見えた。
ドアが開く音。
「準備でき――」
言いかけた拓真が止まる。
数秒の沈黙。
「……なに?」
「いや」
視線をそらしながら言う。
「いいじゃん」
それだけ。
でも、なぜか顔が熱くなる。
「そっちも、ちゃんとしてるね」
ジャケット姿の拓真を見る。
普段より少しだけ背筋が伸びている。
結婚式以来かもしれない。
こんな格好を見るのは。
⸻
レストランへ向かう通路は、いつもと違う空気だった。
ドレス姿の女性。
スーツの男性。
笑い声とグラスの音。
「すごいね」
「別世界だな」
少し緊張しながら席へ案内される。
テーブルクロス。
キャンドル。
静かな生演奏。
まるで映画の中みたいだった。
⸻
「乾杯しますか」
拓真がグラスを持ち上げる。
「なにに?」
「……旅?」
曖昧な理由に、ふたりで笑う。
グラスが軽く触れる。
小さな音。
それだけなのに、妙に記憶に残りそうだった。
⸻
料理が運ばれてくる間、周囲を眺める。
楽しそうに話す夫婦。
家族連れ。
一人で静かに食事する人。
それぞれの時間。
「ねえ」
「うん?」
「私たち、こういうの来たことあったっけ」
「ないな」
「だよね」
普段の私たちは、サービスエリアか道の駅。
それが好きだった。
でも今、この空間も悪くないと思っている自分がいた。
⸻
演奏が始まる。
ゆっくりしたピアノの音。
窓の外には夜の海。
真っ暗な中を、船の光だけが進んでいる。
「なんかさ」
私が言う。
「結婚したばっかりみたい」
「それは言いすぎ」
「そう?」
「俺、もっと痩せてたぞ」
思わず吹き出す。
緊張がほどける。
⸻
料理を食べながら、ふと気づく。
今日はスマホを一度も見ていない。
目の前の人と、同じ時間を過ごしているだけ。
それが、こんなに落ち着くなんて。
「ねえ」
「うん?」
「ありがとう」
「急にどうした」
「連れてきてくれて」
少し驚いた顔。
「まだ旅の途中だぞ」
「でも言いたくなった」
拓真は少し考えてから言った。
「俺もさ」
「うん?」
「最近、ちゃんと休んでなかった気がして」
初めて聞く声色だった。
「運転してても、仕事のこと考えてたし」
知らなかった。
同じ旅をしていたのに。
「ここ来てさ」
グラスを回しながら続ける。
「やっと止まった感じする」
その言葉が、胸に落ちる。
私も同じだった。
⸻
食後、デッキへ出る。
夜風が少し冷たい。
遠くで笑い声。
星が、思っていたより多かった。
「こんなに見えるんだ」
「街の灯りないからな」
手すりにもたれる。
船は静かに進んでいる。
海と空の境目が分からない。
「ねえ」
「うん?」
「また来たい?」
少し考えてから、拓真が言う。
「……来たいな」
即答じゃないところが、らしいと思った。
「次は?」
「分からん」
「計画なし?」
「それが俺たちだろ」
笑う。
確かにそうだった。
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風が強くなり、私は少し身をすくめた。
そのとき、拓真が自然に肩へ手を回した。
驚くほど自然だった。
若い頃なら意識したはずなのに。
でも今は、ただ安心する。
言葉はいらなかった。
船は暗い海を進み続ける。
私たちも、たぶん同じ方向へ。
ゆっくりと。




