第6話 知らない街で、少しだけ迷う
朝、船内アナウンスで目が覚めた。
柔らかな音楽のあと、英語と日本語が重なる。
「本日、〇〇港へ入港いたします――」
カーテンを開けた瞬間、思わず息を止めた。
海の向こうに、街があった。
建物が並び、港には小さな船が行き交っている。
煙の匂い。
動いているクレーン。
遠くの車の音。
数日ぶりの「陸」だった。
「着いたね」
後ろから拓真の声。
「うん……なんか、変な感じ」
ずっと海だけを見ていたせいか、地面の存在が少し現実的すぎた。
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下船準備の人たちで通路は賑わっていた。
帽子、カメラ、リュック。
みんな少し浮き立っている。
「ツアーじゃないけど大丈夫かな」
「まあ、なんとかなるだろ」
いつもの言葉。
でも今日は、少しだけ頼もしく聞こえた。
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タラップを降りた瞬間。
足元が、しっかりしている。
なのに体が少し揺れる。
「……まだ船にいるみたい」
「クルーズあるあるらしいぞ」
笑いながら歩き出す。
港の空気は少し湿っていて、知らない匂いが混ざっていた。
言葉も、看板も、少し違う。
海外に来たときの、あの感覚。
胸の奥が少しだけ広がる。
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地図アプリを開く。
「とりあえず中心街?」
「カフェあるといいな」
「由衣らしいな」
歩き始める。
石畳の道。
低い建物。
窓辺の花。
観光地らしい賑わいなのに、どこか生活の匂いがする。
車じゃない旅は、歩く速度で世界を見る。
それが新鮮だった。
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角を曲がったところで、私は立ち止まった。
「……あれ?」
「どうした?」
「さっきの道、どっちだっけ」
地図が回転して、方向が分からなくなる。
見覚えのある景色が見つからない。
「迷った?」
「たぶん」
少し笑いながら言ったけれど、胸がざわつく。
車なら戻れる。
でも今は、自分の足だけ。
言葉も完璧じゃない。
ほんの小さな不安が広がる。
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「まあ、歩こう」
拓真が言う。
「適当?」
「ドライブと同じだろ」
その言葉で肩の力が抜けた。
確かにそうだった。
私たちは、いつも迷いながら旅してきた。
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しばらく歩くと、小さなカフェが目に入った。
テラス席。
手書きのメニュー。
コーヒーの香り。
「入る?」
「入ろう」
店員にぎこちない英語で注文する。
少し通じて、少し通じない。
それでも笑顔が返ってくる。
席に座ると、風が気持ちよかった。
街の音が遠くに流れている。
「なんかさ」
私はコーヒーを見ながら言った。
「ちゃんと旅してる感じする」
「船でもしてただろ」
「うん。でも……」
言葉を探す。
「自分で来た感じ」
それがしっくりきた。
船では運ばれていた。
でも今は、自分で歩いてここにいる。
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隣の席で、一人の女性が本を読んでいた。
船で何度か見かけた人だ。
目が合うと、軽く会釈される。
「あ、船の」
思わず声をかける。
「こんにちは」
女性は微笑んだ。
「初めての寄港地ですか?」
「はい。ちょっと迷いました」
「それも旅ですよ」
落ち着いた声だった。
「一人旅、ですか?」
「ええ。船ではいつも」
少し驚く。
寂しくないのだろうか。
そう思ったのが伝わったのか、女性は笑った。
「一人も楽しいけど、夫婦旅っていいですね」
「そうですか?」
「同じ景色を覚えてる人がいるって、贅沢ですよ」
その言葉に、返事ができなかった。
拓真を見る。
砂糖を入れるか迷っている顔。
いつもと同じ仕草。
なのに、少しだけ違って見えた。
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帰り道は迷わなかった。
港へ戻る途中、振り返る。
さっきまでいた街。
知らない場所なのに、少し名残惜しい。
船が見えてくる。
巨大な白い姿。
「帰る場所って感じするね」
自分で言って驚いた。
数日前までただの乗り物だったのに。
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船へ戻ると、スタッフが笑顔で迎えた。
「Welcome back」
その一言で、ほっとする。
部屋へ戻り、窓の外を見る。
街がゆっくり遠ざかっていく。
私は思った。
旅って、知らない場所へ行くことじゃなくて。
少しだけ、自分から歩き出すことなのかもしれない。




