第5話 海しかない日
カーテンを開けても、景色は昨日と変わらなかった。
海。
ただ、それだけだった。
港も、建物も、島さえ見えない。
どこまで見ても青。
「……本当に何もないね」
思わず笑ってしまう。
車旅なら、ありえない状況だった。
必ず道があって、町があって、次の目的地がある。
でも今日は違う。
船は進んでいるのに、景色は動かない。
⸻
朝食のあと、私たちは予定も決めずに船内を歩いた。
イベント案内には、ダンス教室やクイズ大会、ワイン講座が並んでいる。
「どうする?」
「どうしよう」
結局、何も選ばなかった。
急ぐ理由がないと、人はこんなにも決められないものらしい。
⸻
デッキに出る。
風は強くない。
太陽が水面に反射して、細かい光が揺れている。
波の音と、遠くのエンジン音。
それだけ。
椅子に腰を下ろす。
しばらく誰も話さなかった。
沈黙なのに、居心地が悪くない。
むしろ、久しぶりに静かな気持ちだった。
⸻
「暇だね」
私が言う。
「うん」
「どうする?」
「別に」
拓真は海を見たまま答える。
会話として成立していないのに、不思議と落ち着く。
スマホを取り出しかけて、やめた。
電波は弱いし、見る必要もない気がした。
時間を確認する理由がない。
次の予定もない。
ただ、座っているだけ。
それだけなのに、少しずつ頭の中が静かになっていく。
⸻
「覚えてる?」
拓真が突然言った。
「なにを?」
「最初の長距離ドライブ」
思わず笑う。
「夜通し走ったやつ?」
「そう」
「あれ無謀だったよね」
「若かったな」
海を見ながら話す。
目を合わせない会話は、どこか素直になれる。
「サービスエリアでさ」
「うん」
「朝焼け見たじゃん」
思い出す。
眠くて、寒くて、それでも妙に楽しかった時間。
「コーヒーまずかったよね」
「紙コップのやつな」
「でもおいしかった」
ふたり同時に笑った。
⸻
風が少し強くなる。
遠くで子どもの笑い声。
誰かがページをめくる音。
世界がゆっくり動いている。
「ねえ」
「うん?」
「私たちさ」
言葉を探す。
「最近、旅行してなかったのかな」
「してただろ」
「うん。でも……なんていうか」
うまく言えない。
「景色、見てなかった気がする」
車ではいつも次を考えていた。
渋滞。
時間。
ルート。
楽しかったはずなのに、どこか忙しかった。
でも今は。
何もしなくても景色がある。
急がなくても時間が進む。
⸻
しばらくして、拓真が立ち上がった。
「コーヒー買ってくる」
「私も行く」
「いいよ、座ってて」
珍しくそう言って歩いていく。
背中を見送る。
私は一人、海を見た。
波は絶えず生まれては消える。
同じ形がひとつもない。
それなのに、ずっと見ていられる。
ふと思う。
こんなふうに何もしない時間、いつ以来だろう。
家では、何かしらしている。
仕事、家事、スマホ、テレビ。
空白がない。
でも今は、空白しかない。
そして、それが少し心地いい。
⸻
戻ってきた拓真が紙カップを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
一口飲む。
少し薄いコーヒー。
「……あ」
「なに」
「最初のドライブの味」
拓真が笑う。
「似てるか?」
「なんとなく」
風が髪を揺らす。
船は変わらず進み続けている。
「ねえ」
「うん?」
「この旅さ」
言いながら、自分でも驚く。
「来てよかったかも」
拓真はすぐには答えなかった。
少ししてから、小さく言う。
「まだ早いだろ」
「そうだけど」
「でも、俺も思ってる」
短い言葉。
それだけで十分だった。
⸻
夕方。
空の色がゆっくり変わっていく。
オレンジから紫へ。
海が光を飲み込む。
周囲の人たちも、自然と黙って景色を見ていた。
誰も急いでいない。
誰も何かを求めていない。
ただ同じ方向を見ている。
私は思った。
旅って、移動することじゃなくて。
こうして立ち止まることなのかもしれない。
⸻
夜、部屋に戻る。
窓の外は真っ暗だった。
けれど、もう不安はなかった。
船の揺れが、少し心地いい。
ベッドに横になる。
遠くで波の音がする。
目を閉じる直前、ふと思った。
今日は何もしていない。
なのに、すごく長い一日だった。
そしてたぶん――。
少しだけ、心が軽かった。




