表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
車旅しかしてこなかった夫婦が、はじめてクルーズ船に乗って気づいたこと  作者: あめとおと
本編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/14

第5話 海しかない日


 カーテンを開けても、景色は昨日と変わらなかった。


 海。


 ただ、それだけだった。


 港も、建物も、島さえ見えない。


 どこまで見ても青。


「……本当に何もないね」


 思わず笑ってしまう。


 車旅なら、ありえない状況だった。


 必ず道があって、町があって、次の目的地がある。


 でも今日は違う。


 船は進んでいるのに、景色は動かない。



 朝食のあと、私たちは予定も決めずに船内を歩いた。


 イベント案内には、ダンス教室やクイズ大会、ワイン講座が並んでいる。


「どうする?」


「どうしよう」


 結局、何も選ばなかった。


 急ぐ理由がないと、人はこんなにも決められないものらしい。



 デッキに出る。


 風は強くない。


 太陽が水面に反射して、細かい光が揺れている。


 波の音と、遠くのエンジン音。


 それだけ。


 椅子に腰を下ろす。


 しばらく誰も話さなかった。


 沈黙なのに、居心地が悪くない。


 むしろ、久しぶりに静かな気持ちだった。



「暇だね」


 私が言う。


「うん」


「どうする?」


「別に」


 拓真は海を見たまま答える。


 会話として成立していないのに、不思議と落ち着く。


 スマホを取り出しかけて、やめた。


 電波は弱いし、見る必要もない気がした。


 時間を確認する理由がない。


 次の予定もない。


 ただ、座っているだけ。


 それだけなのに、少しずつ頭の中が静かになっていく。



「覚えてる?」


 拓真が突然言った。


「なにを?」


「最初の長距離ドライブ」


 思わず笑う。


「夜通し走ったやつ?」


「そう」


「あれ無謀だったよね」


「若かったな」


 海を見ながら話す。


 目を合わせない会話は、どこか素直になれる。


「サービスエリアでさ」


「うん」


「朝焼け見たじゃん」


 思い出す。


 眠くて、寒くて、それでも妙に楽しかった時間。


「コーヒーまずかったよね」


「紙コップのやつな」


「でもおいしかった」


 ふたり同時に笑った。



 風が少し強くなる。


 遠くで子どもの笑い声。


 誰かがページをめくる音。


 世界がゆっくり動いている。


「ねえ」


「うん?」


「私たちさ」


 言葉を探す。


「最近、旅行してなかったのかな」


「してただろ」


「うん。でも……なんていうか」


 うまく言えない。


「景色、見てなかった気がする」


 車ではいつも次を考えていた。


 渋滞。

 時間。

 ルート。


 楽しかったはずなのに、どこか忙しかった。


 でも今は。


 何もしなくても景色がある。


 急がなくても時間が進む。



 しばらくして、拓真が立ち上がった。


「コーヒー買ってくる」


「私も行く」


「いいよ、座ってて」


 珍しくそう言って歩いていく。


 背中を見送る。


 私は一人、海を見た。


 波は絶えず生まれては消える。


 同じ形がひとつもない。


 それなのに、ずっと見ていられる。


 ふと思う。


 こんなふうに何もしない時間、いつ以来だろう。


 家では、何かしらしている。


 仕事、家事、スマホ、テレビ。


 空白がない。


 でも今は、空白しかない。


 そして、それが少し心地いい。



 戻ってきた拓真が紙カップを差し出した。


「どうぞ」


「ありがとう」


 一口飲む。


 少し薄いコーヒー。


「……あ」


「なに」


「最初のドライブの味」


 拓真が笑う。


「似てるか?」


「なんとなく」


 風が髪を揺らす。


 船は変わらず進み続けている。


「ねえ」


「うん?」


「この旅さ」


 言いながら、自分でも驚く。


「来てよかったかも」


 拓真はすぐには答えなかった。


 少ししてから、小さく言う。


「まだ早いだろ」


「そうだけど」


「でも、俺も思ってる」


 短い言葉。


 それだけで十分だった。



 夕方。


 空の色がゆっくり変わっていく。


 オレンジから紫へ。


 海が光を飲み込む。


 周囲の人たちも、自然と黙って景色を見ていた。


 誰も急いでいない。


 誰も何かを求めていない。


 ただ同じ方向を見ている。


 私は思った。


 旅って、移動することじゃなくて。


 こうして立ち止まることなのかもしれない。



 夜、部屋に戻る。


 窓の外は真っ暗だった。


 けれど、もう不安はなかった。


 船の揺れが、少し心地いい。


 ベッドに横になる。


 遠くで波の音がする。


 目を閉じる直前、ふと思った。


 今日は何もしていない。


 なのに、すごく長い一日だった。


 そしてたぶん――。


 少しだけ、心が軽かった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ