第4話 動くホテルの歩き方
目が覚めたとき、一瞬どこにいるのか分からなかった。
白い天井。
柔らかいベッド。
規則的な低い振動。
そして、ゆっくりとした揺れ。
「あ……」
思い出す。
船だ。
カーテンを開けると、窓いっぱいに海が広がっていた。
地平線しかない景色。
車旅では絶対に見られない光景だった。
「起きた?」
後ろで拓真の声。
「うん」
「朝飯どうする?」
その言い方が、いつもの旅行と同じで少し安心する。
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船内マップは思っていたより複雑だった。
「レストラン、どこ?」
「上じゃない?」
「上ってどっち」
エレベーター前で立ち止まる。
同じように地図を見上げている人が何人もいた。
少し安心する。
迷っているのは私たちだけじゃない。
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ビュッフェレストランは、想像以上に広かった。
窓際にずらりと並ぶ席。
料理の島がいくつも続いている。
「……どこから?」
「分からん」
皿を手にしたまま立ち尽くす。
パン。
卵料理。
フルーツ。
知らない料理。
全部きれいで、全部おいしそうで、逆に選べない。
「取りすぎないようにね」
「たぶん無理」
結果、皿は少し山になった。
席を探していると――。
「相席、よろしいですか?」
声をかけられた。
振り向くと、上品な雰囲気の夫婦が立っていた。
同年代より少し上くらいだろうか。
「もちろん」
拓真が答える。
向かいに座った二人は、どこか余裕のある空気をまとっていた。
「初日ですか?」
女性がにこやかに聞く。
「はい。初めてで」
「分かります。私たちも最初は迷子でしたもの」
笑い方が柔らかい。
「クルーズ、よく乗られるんですか?」
「ええ、年に一度くらい」
思わず顔を見合わせる。
年に一度。
そんな世界があるのか。
「船って退屈じゃないですか?」
気づけば聞いていた。
女性――雅子さんは少し考えてから言った。
「退屈ですよ」
「え?」
「だからいいんです」
予想外の答えだった。
「何もしない時間って、普段ないでしょう?」
確かに。
スマホを見て、予定を考えて、次の場所へ移動して。
いつも何かしている。
「船はね、景色が勝手に変わるんです」
隣の恒一さんが言う。
「急がなくても、旅になる」
その言葉が、妙に心に残った。
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食後、私たちは船内を歩き回った。
プールデッキ。
ラウンジ。
ショップ。
どこへ行っても新しい景色。
そして、どこへ行っても海。
「これ全部、船の中なんだよね」
「まだ信じられないな」
デッキに出ると、風が強かった。
潮の匂い。
遠くまで何もない青。
私は手すりにもたれる。
船は音もなく進んでいた。
自分が動いている実感がないのに、景色だけが変わっていく。
「不思議だね」
「なにが?」
「頑張ってないのに、旅してる感じ」
拓真が少し笑う。
「いつも頑張ってたのか?」
「運転とか、予定とか」
「まあな」
沈黙。
でも気まずくない。
風の音が会話の代わりになる。
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夕方、部屋に戻る途中。
スタッフの男性が軽く会釈した。
「Good evening」
反射的に「こんばんは」と返す。
それだけなのに、少し嬉しい。
知らない場所なのに、少しだけ居場所ができた気がした。
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夜。
船内ラウンジではピアノが流れていた。
人々が静かにグラスを傾けている。
私たちは端の席に座り、ノンアルコールカクテルを頼んだ。
「なんか、大人の旅行って感じ」
「もう十分大人だろ」
「そうだけど」
笑い合う。
窓の外は真っ暗だった。
海なのか空なのか分からない。
ただ、船だけが光の中に浮かんでいる。
「ねえ」
「うん?」
「まだ一日目なのに、長く感じない?」
「分かる」
時間が伸びたみたいだった。
スマホを見る回数も減っている。
急ぐ理由がない。
そのとき、ふと思った。
もしかして――。
私たちは今まで、少し急ぎすぎていたのかもしれない。
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部屋へ戻る途中、通路の窓から外を見る。
暗い海の中、船の航跡だけが白く光っていた。
まっすぐ続く線。
戻れない道。
でも、不安はもう少しだけ薄れていた。
この旅、案外好きかもしれない。
そう思いながら、私はカードキーをかざした。




