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車旅しかしてこなかった夫婦が、はじめてクルーズ船に乗って気づいたこと  作者: あめとおと
本編

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第3話 港という境界線


 出発の朝は、思っていたより静かだった。


 旅行の日はいつも早起きになるのに、その日は目覚ましが鳴る直前まで眠っていた。


 カーテンの隙間から薄い光が入っている。


 隣を見ると、拓真はすでに起きてスマホを見ていた。


「おはよう」


「おはよう」


 いつもと同じ挨拶。


 なのに、少しだけ落ち着かない。


 今日はドライブじゃない。


 ハンドルを握らない旅が始まる日だった。



 港までは電車で向かった。


 それも、なんだか不思議だった。


 いつもなら旅行は家の前から始まる。荷物を車に積み込んで、コーヒーを買って、高速に乗る。


 でも今日は、大きなスーツケースを転がしながら駅を歩いている。


「旅行って感じするね」


「もうしてるだろ」


 拓真が笑う。


 確かにそうだった。


 知らない人たちの中に、自分たちも混ざっている。


 同じ方向へ向かう人たち。


 少し浮き足立った空気。



 改札を抜け、港方面の出口を出た瞬間。


 私は足を止めた。


「……え」


 言葉が出ない。


 遠くに、それはあった。


 建物の向こうから突き出す、白い壁のようなもの。


 いや、壁じゃない。


 船だった。


 想像していたより、ずっと大きい。


 ホテルを横倒しにしたみたいな高さ。


 窓が無数に並び、上階にはデッキらしき空間が重なっている。


「でか…」


 自分の声が小さく聞こえた。


 写真で見ていたはずなのに、まったく別物だった。


 現実のスケールは、画面を簡単に裏切る。


「これ、乗るの?」


「たぶんな」


「沈まない?」


「失礼だな」


 思わず笑う。


 でも本気でそう思うくらい、現実感がなかった。



 ターミナルの中は、空港に似ていた。


 スーツケースの列。

 外国語の会話。

 スタッフの案内。


 けれど空港よりゆっくりしている。


 急かされる感じがない。


「なんか…みんな余裕あるね」


「時間あるからじゃない?」


 確かに、誰も走っていない。


 出発まで、まだ何時間もあるらしい。


 チェックインカウンターに並ぶ。


 前の夫婦は慣れた様子で書類を出し、スタッフと笑いながら会話している。


 私はパスポートを握りしめたまま、少し緊張していた。


「初めてのクルーズですか?」


 受付の女性が微笑む。


「はい」


「ようこそ。きっと素敵な旅になりますよ」


 その一言で、胸の奥が少し温かくなる。


 搭乗券――いや、乗船カードを受け取る。


 そこには部屋番号が印字されていた。


 本当に、部屋があるんだ。



 乗船口へ向かう通路は、長いガラス張りだった。


 歩くたび、船がどんどん大きくなる。


 近づくほど、現実になる。


 金属の匂い。

 低く響くエンジン音。

 風に混じる潮の香り。


 私は立ち止まった。


「どうした?」


「……なんか」


 言葉を探す。


「戻れなくなる感じ」


 拓真は少し考えてから言った。


「旅行って、だいたいそうじゃない?」


 そうかもしれない。


 でも今回は違う。


 車なら、引き返せる。

 気が変われば帰れる。


 でも船は――。


 海に出たら、降りられない。


 中村さんの言葉がよぎる。


 船は逃げられない。


 不安と、期待が同じ重さで胸にある。



 船内に足を踏み入れた瞬間。


「……わ」


 思わず声が漏れた。


 そこはもう港ではなかった。


 吹き抜けのロビー。

 きらめく照明。

 柔らかな音楽。


 ホテルよりも、少しだけ夢みたいな空間。


「いらっしゃいませ!」


 スタッフの明るい声。


 シャンパンを持つ人。

 写真を撮る家族。

 笑い声。


 世界が切り替わったみたいだった。


「すごいね」


「ああ」


 拓真も珍しく周囲を見回している。


 床が、ほんのわずかに揺れた。


 気のせいかと思ったけれど、違う。


 ここは建物じゃない。


 海の上に浮かんでいる。


 私は手すりに触れた。


 冷たい金属の感触。


 本当に来てしまったんだ。



 客室へ向かう廊下は、思ったより静かだった。


 長く続くカーペット。

 同じ形のドア。


「もうホテルだね」


「いや、まだ港だけど」


 カードキーをかざす。


 小さな電子音。


 ドアを開ける。


 窓の向こうに、海が広がっていた。


 近すぎて、少し怖いくらい。


 波がゆっくり動いている。


 ベッドに腰を下ろす。


 軽く揺れる感覚。


 胸の奥が、ふわっと浮く。


「ねえ」


「うん?」


「もう帰れないね」


 冗談のつもりだったのに、声は少しだけ真剣だった。


 拓真は窓の外を見ながら言った。


「帰らなくていいだろ、まだ」


 その言葉の意味を考える前に。


 低く長い音が響いた。


 ――ボォォォォォ。


 船の汽笛。


 窓の外で、景色がゆっくり動き始める。


 港が離れていく。


 建物が小さくなる。


 地面が、遠ざかる。


 私は立ち上がり、窓に近づいた。


 知らない旅が、静かに始まっていた。





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