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車旅しかしてこなかった夫婦が、はじめてクルーズ船に乗って気づいたこと  作者: あめとおと
本編

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2/14

第2話 スーツケースが閉まらない


 クルーズ予約の紙は、数日たっても現実味を持たなかった。


 冷蔵庫にマグネットで留めたまま、私は毎朝それを横目で見て出勤する。


 本当に行くのだろうか。


 まだ半分くらい、冗談の延長みたいな気がしていた。



「クルーズ?」


 喫茶店で、思わず口に出した途端、常連の中村さんが顔を上げた。


「船の?」


「はい。なんか……行くらしくて」


「ほう」


 コーヒーカップを持つ手が止まる。


「いいねえ」


「そうですか?」


「旅はね、移動手段が変わると別物になるんだよ」


 意味が分かるような、分からないような言葉だった。


「車旅とは違いそうですね」


「違う違う。船は逃げられないからね」


「逃げられない?」


「海の上じゃ、降りられないだろ?」


 中村さんは笑った。


 冗談のはずなのに、少しだけ胸に残る。



 その夜。


 私は床にスーツケースを広げていた。


 新婚旅行以来、ほとんど使っていない古いものだ。表面にうっすら擦り傷が残っている。


「早くない?」


 ソファから夫の声。


「早くないよ。何持っていけばいいか分かんないんだから」


 スマホには「クルーズ 持ち物」と検索結果が並んでいる。


 ワンピース。

 フォーマル服。

 リゾートウェア。


「……リゾートウェアって何」


「知らない」


 即答だった。


「ジャージじゃダメかな」


「たぶんダメだろ」


「だよね」


 ため息をつく。


 私たちの旅行は、基本的に動きやすさ最優先だった。汚れてもいい服、温泉に入りやすい服、長時間運転しても楽な服。


 “見られる旅”なんて、考えたこともない。


「これとか?」


 クローゼットから少しきれいめのワンピースを出す。


 数年前、親戚の結婚式で着たもの。


 拓真がちらっと見て言った。


「いいんじゃない」


「適当でしょ」


「いや、似合ってた記憶ある」


 思わず手が止まる。


「記憶って」


「写真あっただろ、どっかに」


 そう言われて、棚の奥を探す。


 アルバムが出てきた。


 最近まったく開いていなかったもの。


 ページをめくる。


 結婚式。

 友達との集まり。

 そして――。


「あ」


 車の前で笑っている二人。


 まだ新しいコンパクトカー。

 少し焼けた顔。

 妙に楽しそうな表情。


「これ、最初の車中泊だ」


「懐かしいな」


 拓真が隣に座る。


 自然と肩が触れる距離。


「雨すごかったよね」


「寝袋びしょびしょになったやつな」


「でも楽しかった」


「うん」


 短い会話なのに、なぜか少し温かい。


 アルバムを閉じる。


 スーツケースを見る。


 車旅は、自分たちで進んでいた。


 次の景色も、休憩も、全部自分たちで決めていた。


 でも今度は違う。


 船が進む。


 私たちは乗っているだけ。


「なんかさ」


 思わず口に出す。


「変な感じ」


「なにが?」


「どこ行くか、自分で決めない旅行って」


 少し考えてから、拓真が言った。


「たまにはいいんじゃない」


「そうかな」


「運転しなくていいし」


 それは確かに魅力だった。


 長距離運転のあと、足がじんわり重くなる感覚を思い出す。


「……暇にならない?」


「なるかもな」


「私たち、暇に弱いよね」


 顔を見合わせて、少し笑った。



 翌日から、準備は少しずつ現実になっていった。


 パスポートの確認。

 服の買い足し。

 船内アプリのダウンロード。


 スマホの画面に表示される船の写真。


 巨大な白い船体。


 その中に、自分たちの部屋があるらしい。


 まだ信じられない。


 でも、少しずつ思い始めていた。


 もしかしたら――。


 これは、いつもの旅行とは違うのかもしれない。



 夜。


 荷物を詰め直していると、スーツケースの蓋が閉まらなくなった。


「増えすぎた」


「絶対使わないの入ってるだろ」


「いるかもしれないじゃん」


「車じゃないんだから」


 その一言で、ふたりとも少し黙る。


 そうだ。


 今回は、車じゃない。


 忘れ物を取りに戻れない。


 寄り道もできない。


 でも――。


「まあ」


 私はスーツケースを押さえながら言った。


「なんとかなるか」


 拓真が笑う。


「いつもそれだな」


 カチン、とロックが閉まった。


 その音が、出発の合図みたいに聞こえた。




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