第2話 スーツケースが閉まらない
クルーズ予約の紙は、数日たっても現実味を持たなかった。
冷蔵庫にマグネットで留めたまま、私は毎朝それを横目で見て出勤する。
本当に行くのだろうか。
まだ半分くらい、冗談の延長みたいな気がしていた。
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「クルーズ?」
喫茶店で、思わず口に出した途端、常連の中村さんが顔を上げた。
「船の?」
「はい。なんか……行くらしくて」
「ほう」
コーヒーカップを持つ手が止まる。
「いいねえ」
「そうですか?」
「旅はね、移動手段が変わると別物になるんだよ」
意味が分かるような、分からないような言葉だった。
「車旅とは違いそうですね」
「違う違う。船は逃げられないからね」
「逃げられない?」
「海の上じゃ、降りられないだろ?」
中村さんは笑った。
冗談のはずなのに、少しだけ胸に残る。
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その夜。
私は床にスーツケースを広げていた。
新婚旅行以来、ほとんど使っていない古いものだ。表面にうっすら擦り傷が残っている。
「早くない?」
ソファから夫の声。
「早くないよ。何持っていけばいいか分かんないんだから」
スマホには「クルーズ 持ち物」と検索結果が並んでいる。
ワンピース。
フォーマル服。
リゾートウェア。
「……リゾートウェアって何」
「知らない」
即答だった。
「ジャージじゃダメかな」
「たぶんダメだろ」
「だよね」
ため息をつく。
私たちの旅行は、基本的に動きやすさ最優先だった。汚れてもいい服、温泉に入りやすい服、長時間運転しても楽な服。
“見られる旅”なんて、考えたこともない。
「これとか?」
クローゼットから少しきれいめのワンピースを出す。
数年前、親戚の結婚式で着たもの。
拓真がちらっと見て言った。
「いいんじゃない」
「適当でしょ」
「いや、似合ってた記憶ある」
思わず手が止まる。
「記憶って」
「写真あっただろ、どっかに」
そう言われて、棚の奥を探す。
アルバムが出てきた。
最近まったく開いていなかったもの。
ページをめくる。
結婚式。
友達との集まり。
そして――。
「あ」
車の前で笑っている二人。
まだ新しいコンパクトカー。
少し焼けた顔。
妙に楽しそうな表情。
「これ、最初の車中泊だ」
「懐かしいな」
拓真が隣に座る。
自然と肩が触れる距離。
「雨すごかったよね」
「寝袋びしょびしょになったやつな」
「でも楽しかった」
「うん」
短い会話なのに、なぜか少し温かい。
アルバムを閉じる。
スーツケースを見る。
車旅は、自分たちで進んでいた。
次の景色も、休憩も、全部自分たちで決めていた。
でも今度は違う。
船が進む。
私たちは乗っているだけ。
「なんかさ」
思わず口に出す。
「変な感じ」
「なにが?」
「どこ行くか、自分で決めない旅行って」
少し考えてから、拓真が言った。
「たまにはいいんじゃない」
「そうかな」
「運転しなくていいし」
それは確かに魅力だった。
長距離運転のあと、足がじんわり重くなる感覚を思い出す。
「……暇にならない?」
「なるかもな」
「私たち、暇に弱いよね」
顔を見合わせて、少し笑った。
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翌日から、準備は少しずつ現実になっていった。
パスポートの確認。
服の買い足し。
船内アプリのダウンロード。
スマホの画面に表示される船の写真。
巨大な白い船体。
その中に、自分たちの部屋があるらしい。
まだ信じられない。
でも、少しずつ思い始めていた。
もしかしたら――。
これは、いつもの旅行とは違うのかもしれない。
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夜。
荷物を詰め直していると、スーツケースの蓋が閉まらなくなった。
「増えすぎた」
「絶対使わないの入ってるだろ」
「いるかもしれないじゃん」
「車じゃないんだから」
その一言で、ふたりとも少し黙る。
そうだ。
今回は、車じゃない。
忘れ物を取りに戻れない。
寄り道もできない。
でも――。
「まあ」
私はスーツケースを押さえながら言った。
「なんとかなるか」
拓真が笑う。
「いつもそれだな」
カチン、とロックが閉まった。
その音が、出発の合図みたいに聞こえた。




