喫茶店と旅の話
朝の喫茶店は、まだ少し眠そうだ。
シャッターを半分だけ開けると、外の光が細く床に伸びた。
「おはようございます」
「おはよう」
マスターはいつも通り新聞を折りたたみながら返事をする。
変わらない朝。
変わらない匂い。
コーヒー豆を挽く音が店の空気をゆっくり起こしていく。
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エプロンを結びながら、私はふと思った。
船では、朝が特別だった。
カーテンを開けるたびに違う景色があって。
今日はどこに着くんだろう、と少しだけ胸が弾んだ。
でも今は――。
同じ場所に帰ってくる朝。
それも悪くない。
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「旅行、どうだったの?」
開店から一時間ほど経ったころ、常連の佐藤さんが聞いてきた。
いつもの窓際の席。
いつものブレンド。
「楽しかったですよ」
「海外?」
「船で」
「船?」
目を丸くする。
「クルーズ船です」
「へえぇ……すごいねぇ」
“すごい”と言われて、少しだけ戸惑う。
豪華だったけど。
でも、思い出すのは豪華さじゃない。
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「何して過ごすの?」
「……何もしてなかったかも」
「え?」
「海見て、ご飯食べて、散歩して」
言いながら、自分でも笑ってしまう。
説明すると、驚くほど普通だった。
「贅沢だね、それ」
佐藤さんが言う。
その言葉が、妙に胸に残った。
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カウンターに戻る。
コーヒーを淹れる。
お湯を落とす速度を、少しゆっくりにする。
前よりも、急がなくなった気がする。
「最近、丁寧だね」
マスターがぽつりと言った。
「そうですか?」
「なんか、落ち着いた」
自分では分からなかった。
でも、言われてみれば。
時間に追われる感じが、少し減った気がする。
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昼前、店が少し混み始める。
注文の声。
食器の音。
いつもの忙しさ。
なのに、不思議と息が切れない。
波みたいだな、と思った。
忙しい時間も、静かな時間も、ただ来ては過ぎていく。
船の上と同じだ。
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休憩時間。
裏口から外へ出る。
空を見上げる。
もちろん海は見えない。
でも風の匂いが少し似ていた。
ポケットのスマホが震える。
拓真からのメッセージ。
今日、帰り遅くなる
短い一文。
以前なら、少しがっかりしていたかもしれない。
でも今は違った。
了解。ゆっくり帰ってきて
そう返信する。
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画面を閉じる。
ふと気づく。
待つ時間が、嫌じゃなくなっている。
旅のあとから。
急がなくてもいい時間が、日常にも残っている。
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店内に戻ると、コーヒーの香りが迎えてくれた。
私はエプロンを整え、またカウンターに立つ。
ここも、旅の続きなのかもしれない。
場所は同じでも。
流れている時間が、少しだけ違う。




