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車旅しかしてこなかった夫婦が、はじめてクルーズ船に乗って気づいたこと  作者: あめとおと
番外編

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12/14

喫茶店と旅の話


 朝の喫茶店は、まだ少し眠そうだ。


 シャッターを半分だけ開けると、外の光が細く床に伸びた。


「おはようございます」


「おはよう」


 マスターはいつも通り新聞を折りたたみながら返事をする。


 変わらない朝。


 変わらない匂い。


 コーヒー豆を挽く音が店の空気をゆっくり起こしていく。



 エプロンを結びながら、私はふと思った。


 船では、朝が特別だった。


 カーテンを開けるたびに違う景色があって。


 今日はどこに着くんだろう、と少しだけ胸が弾んだ。


 でも今は――。


 同じ場所に帰ってくる朝。


 それも悪くない。



「旅行、どうだったの?」


 開店から一時間ほど経ったころ、常連の佐藤さんが聞いてきた。


 いつもの窓際の席。


 いつものブレンド。


「楽しかったですよ」


「海外?」


「船で」


「船?」


 目を丸くする。


「クルーズ船です」


「へえぇ……すごいねぇ」


 “すごい”と言われて、少しだけ戸惑う。


 豪華だったけど。


 でも、思い出すのは豪華さじゃない。



「何して過ごすの?」


「……何もしてなかったかも」


「え?」


「海見て、ご飯食べて、散歩して」


 言いながら、自分でも笑ってしまう。


 説明すると、驚くほど普通だった。


「贅沢だね、それ」


 佐藤さんが言う。


 その言葉が、妙に胸に残った。



 カウンターに戻る。


 コーヒーを淹れる。


 お湯を落とす速度を、少しゆっくりにする。


 前よりも、急がなくなった気がする。


「最近、丁寧だね」


 マスターがぽつりと言った。


「そうですか?」


「なんか、落ち着いた」


 自分では分からなかった。


 でも、言われてみれば。


 時間に追われる感じが、少し減った気がする。



 昼前、店が少し混み始める。


 注文の声。


 食器の音。


 いつもの忙しさ。


 なのに、不思議と息が切れない。


 波みたいだな、と思った。


 忙しい時間も、静かな時間も、ただ来ては過ぎていく。


 船の上と同じだ。



 休憩時間。


 裏口から外へ出る。


 空を見上げる。


 もちろん海は見えない。


 でも風の匂いが少し似ていた。


 ポケットのスマホが震える。


 拓真からのメッセージ。


今日、帰り遅くなる


 短い一文。


 以前なら、少しがっかりしていたかもしれない。


 でも今は違った。


了解。ゆっくり帰ってきて


 そう返信する。



 画面を閉じる。


 ふと気づく。


 待つ時間が、嫌じゃなくなっている。


 旅のあとから。


 急がなくてもいい時間が、日常にも残っている。



 店内に戻ると、コーヒーの香りが迎えてくれた。


 私はエプロンを整え、またカウンターに立つ。


 ここも、旅の続きなのかもしれない。


 場所は同じでも。


 流れている時間が、少しだけ違う。





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