第10話 旅が終わって、私たちはまた走り出す
朝のアナウンスで目が覚めた。
「まもなく最終寄港地へ入港いたします――」
聞き慣れた声。
でも今日は少しだけ違って聞こえる。
カーテンを開ける。
窓の外には、見慣れた港の景色が広がっていた。
建物。
道路。
行き交う車。
数日前まで当たり前だった景色なのに、少し遠く感じる。
「着いたね」
拓真が言う。
「うん」
短い返事。
それ以上言うと、何かこぼれそうだった。
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廊下にはスーツケースが整然と並んでいる。
もう旅は終わる。
誰も急いでいないのに、時間だけが進んでいく。
エレベーターで乗り合わせた人たちが、小さく笑い合う。
「楽しかったですね」
「またどこかで」
名前も知らない人たち。
でも、同じ時間を過ごした仲間みたいだった。
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下船口へ向かう列。
スタッフが一人ひとりに声をかけている。
「Thank you. Have a nice day」
順番が近づく。
数日前、緊張して乗り込んだ場所。
今は少し名残惜しい。
カードキーを返す。
それだけで、この部屋とのつながりが終わる。
「ありがとうございました」
自然に言葉が出た。
スタッフが笑顔でうなずく。
「Welcome back anytime」
“また戻ってきてください”。
その言葉が、胸に残った。
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タラップを降りる。
地面はしっかりしている。
揺れない。
なのに体が少しだけ海を覚えている。
「まだ揺れてる感じする」
「俺も」
ふたりで笑う。
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港を離れ、駅へ向かう道。
車の音。
信号の音。
人の話し声。
世界が少し騒がしく感じる。
「現実だね」
「現実だな」
でも、不思議と嫌じゃなかった。
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帰りの電車。
窓の外を景色が流れていく。
海ではなく、街。
速すぎる景色。
私はふとスマホを開き、写真フォルダを見た。
海。
食事。
夕焼け。
拓真の後ろ姿。
「いっぱい撮ったね」
「そんな撮ったか?」
「ほら」
画面を見せる。
少し照れた顔。
「消すなよ」
「消さないよ」
当たり前みたいに答える。
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家に着く。
玄関の匂い。
見慣れた靴。
静かな部屋。
「ただいま」
誰もいないのに、声に出していた。
スーツケースを開く。
中から潮の匂いが少しだけした。
服を取り出しながら、思う。
旅は終わった。
でも、何かが残っている。
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数日後。
いつもの喫茶店。
コーヒーを運びながら、窓の外を見る。
車が走り、人が歩く。
変わらない日常。
でも以前より、少しゆっくり見える。
「旅行どうでした?」
常連さんに聞かれる。
「よかったですよ」
自然に笑う。
「どこ行ったんです?」
少し考えて答える。
「……海の上です」
自分で言って、少し笑った。
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仕事帰り。
駐車場で車に乗り込む。
助手席に座ると、拓真が言った。
「週末さ」
「うん?」
「ちょっと走るか」
「ドライブ?」
「ああ」
エンジンがかかる。
聞き慣れた音。
「どこまで?」
「決めてない」
いつもの答え。
でも今は少し違う。
「急がないやつな」
私はうなずく。
「うん。急がない旅」
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車がゆっくり走り出す。
夕焼けの道。
流れていく景色。
私はふと思う。
あの船は、特別な場所だった。
でも。
旅はきっと、どこでもできる。
同じ景色を、同じ速さで見る人が隣にいれば。
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窓の外に空が広がる。
海の色に少し似ていた。
私は静かに笑う。
またいつか、乗るかもしれない。
でも今は――。
この道を進む旅で、十分だった。
(完)




