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車旅しかしてこなかった夫婦が、はじめてクルーズ船に乗って気づいたこと  作者: あめとおと
本編

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第1話 予約番号の向こう側


 コーヒー豆を挽く音が好きだ。


 ガリガリ、と少し不揃いな音が店の朝を作る。まだ開店前の喫茶店は静かで、窓から入る光だけがゆっくりと床を移動していた。


「由衣さん、今日も早いねえ」


 マスターが奥から顔を出す。


「目が覚めちゃって」


 いつもの返事をして、私はドリッパーにお湯を落とした。ふわりと膨らむ粉を見ていると、なぜか少し安心する。


 毎日だいたい同じ時間。

 同じ作業。

 同じ香り。


 嫌いじゃない。むしろ好きだ。


 けれど最近、ときどき思う。


 ――このままずっと、こんなふうに過ぎていくのかな。


 特別な不満があるわけじゃない。夫とも仲は悪くないし、生活に困っているわけでもない。ただ、気づけば一年が驚くほど早く終わっている。


「そういえばさ」


 マスターが新聞を畳みながら言った。


「旅行とか行かないの?」


「旅行?」


「常連さんがクルーズ行ったって自慢しててさ。世界一周だって」


 思わず笑ってしまう。


「世界一周は無理ですよ。うちはドライブ専門なんで」


「ああ、車中泊ってやつ?」


「そうです。気ままに走って、眠くなったら泊まるやつ」


 それが、私たちの旅行だった。


 目的地はだいたい決めるけれど、途中で変わることも多い。気になった看板で曲がり、温泉を見つけて寄り道し、道の駅で野菜を買う。


 運転は夫と半々。

 助手席で地図を見る時間も、ハンドルを握る時間も、どちらも好きだった。


 だから――。


「クルーズかあ」


 想像してみる。


 決められた時間。

 決められた食事。

 決められた航路。


 なんだか落ち着かない気がした。



 その日の夜。


 夕飯を食べ終え、私はソファでスマホを眺めていた。旅行動画のおすすめが流れてくる。


 青い海。

 白い船。

 デッキで笑う人たち。


「……すごいな」


 つぶやいたとき、隣でテレビを見ていた夫がリモコンの音量を少し下げた。


「なにが?」


「クルーズ船。お金持ちの世界って感じ」


「へえ」


 興味があるのかないのか分からない返事。


 それが拓真らしい。


 しばらく沈黙が続く。テレビのバラエティ番組の笑い声だけが部屋に響く。


 昔は、もっと話していた気がする。


 次どこへ行こうとか。

 どの道が景色いいとか。


 いつからだろう。

 会話が「必要なこと」だけになったのは。


「風呂入ってくる」


 拓真が立ち上がる。


「うん」


 私は画面をスクロールしたまま頷いた。


 船が夕焼けの海を進んでいく映像が流れる。


 綺麗だな、と思う。


 でも、自分がそこにいる姿はうまく想像できなかった。



 数日後。


 仕事から帰ると、テーブルの上に一枚の封筒が置いてあった。


 白くて、少し厚みのある紙。


「なにこれ?」


 帰宅していた拓真がキッチンから顔を出す。


「開けてみたら?」


 妙に落ち着いた声だった。


 宛名は私たちの名前。


 旅行会社のロゴ。


 嫌な予感と、少しの期待が混ざる。


 封を切る。


 中には、パンフレットと――。


「……え?」


 思わず声が出た。


 大きな船の写真。

 青い海。

 金色の文字。


 クルーズ予約確認書


「たくま?」


「うん」


「これ……なに?」


「旅行」


「いや、見れば分かるけど」


 心臓が少し速くなる。


「クルーズ?」


「そう」


「誰が?」


「俺」


 あまりにも普通に言うので、言葉が追いつかない。


「なんで?」


 少し間があった。


 拓真は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぎながら言った。


「たまにはさ」


 それだけだった。


 理由になっているようで、なっていない。


「……私たち、こういうの行くタイプじゃないよね?」


「だからじゃない?」


「え?」


「行ったことないし」


 コップを差し出される。


 受け取りながら、予約書をもう一度見る。


 出航日。

 日数。

 知らない港の名前。


 本当に、決まっている。


「キャンセル……できるよね?」


「できると思う」


 即答だった。


 押しつけじゃない。

 選ぶのは私、という顔。


 沈黙が落ちる。


 行く理由はない。

 困ってもいない。

 今の生活で十分だ。


 それなのに――。


 胸の奥で、小さく何かが揺れた。


 車じゃ行けない場所。

 ハンドルを握らない旅。

 自分で進まなくても、景色が変わる時間。


「……ねえ」


「うん」


「服、どうするの」


 気づけば、そんなことを聞いていた。


 拓真が少し笑った。


「そこ?」


「だって分かんないじゃん」


「まあ、なんとかなるだろ」


 その言い方が、昔のドライブ前と同じで。


 私は思わず笑ってしまった。


 予約番号の並ぶ紙を見つめる。


 まだ実感はない。


 でも、確かに思った。


 ――私たち、船に乗るんだ。


 行き先を自分で決めない旅へ。


 少しだけ、知らない時間へ。




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