⑨
阿吽の最深部、色の干渉すら弱まる静謐の間。
古い書架と観測器具に囲まれ、賢者メガロは一人、椅子に腰掛けていた。
「……目が霞む」
そう呟き、彼は水晶のレンズを外す。
震える指先は、かつて世界を切り分けたそれとは思えないほど、老いていた。
「最近近くの物が見えないんだ」
背後で気配が揺れる。
「なら、こうすれば?」
ユイが回り込み、メガロの顎を軽く持ち上げる。
「下から覗き込むんだ!」
「……やめなさい。忍びとは思えん所作だ」
レイはそのやり取りを黙って見ていた。
だが、メガロの顔を正面から見た瞬間、確信する。
――この人は、衰えている。
「随分、静かに会いに来たな」
メガロはレイに視線を向け、微かに笑った。
「正面に立つ者が、ついに来たか」
「聞きたいことがある」
レイは一歩、踏み出す。
「無色王のこと。ニックのこと。
……全部だ」
メガロは、しばらく沈黙した後、深く息を吐いた。
「誰だってアレは嫌さ」
「……何が?」
「完成だ」
彼は言った。
「迷いも、選択も、痛みもない世界。
正解が一つしかない世界」
メガロは、棚から古い人形を取り出す。
中身の抜けた、布の人形だ。
「世界が壊れそうだったとき、私は考えた」
人形の背を裂き、内部を示す。
「つまりは綿を詰める。綿を詰めるといい感じになる」
ユイの目が細くなる。
「……足りない部分を、無色で埋めた?」
「そうだ。均せば、争いは消えると思った」
レイは拳を握る。
「それで、ニックを使ったのか」
メガロは否定しなかった。
「彼は自ら志願した。
世界を救えるなら、と」
「でも、救えなかった」
「救えなかった。だが――止められはした」
メガロはレイを見つめる。
「無色王は、完全ではない。
人の心が混ざったまま、固まりかけている」
レイは、指先の硬直を思い出す。
「固まったら、終わりだ」
「そう。だから私は、君を選んだ」
ユイが低く問う。
「……私じゃなくて?」
メガロは静かに首を振った。
「影は削ることはできても、
正面から割ることはできない」
そして、レイに告げる。
「壊れてもいい。削れてもいい。
また大きくなればいい」
レイは、はっきりと答えた。
「……それは、逃げだ」
メガロは一瞬、目を閉じた。
「そうだ。だから私は賢者で、
君は――前に立つ者だ」
沈黙が落ちる。
ユイが、ぽつりと言った。
「ニックは、まだ中にいるのね」
「ああ」
「なら、私は影として潜る」
レイはメガロを見下ろした。
「最後に聞く。
あんたは――俺たちの味方か?」
メガロは、霞んだ目で笑った。
「……それを決めるのは、君たちだ」
阿吽の奥で、何かが軋む音がした。
無色王が、確実に目覚めに近づいている。
レイは振り返らない。
正面に立つために、
彼は一歩、前へ進んだ。




