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ほほえみデンタルクリニック、異世界で開業しました  作者: ポン吉
第1章『ほほえみデンタル、異世界へ』

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07.琴吹家はあった

診療室にはまだテレビの光が残っていた。

さっきまでステータス画面を映していたモニターは電源が落とされ、黒いガラス面だけがチェアのライトを映している。

散らばった器具や紙片はひととおり片付けられ、床の上には人の足跡だけが筋のように伸びていた。

スタッフたちはテレビの前から少し離れた場所に集まり、受付のほうと裏口のほうを落ち着かない様子で交互に見ていた。

異世界の城も住民も、その姿は扉の向こうにあるのに、足はなかなかそちらへ向こうとしない。


沈黙を切るように、つむぎが両手を胸の前で握りしめた。


「どこで寝泊まりするの!?」


張り詰めた空気の中に、はっきりした問いが落ちた。

それまで頭の片隅に追いやられていた現実が、急に形を持って目の前に現れたようだった。


大和はチェアの並ぶ方へ体を向け、数を確かめるように視線を移した。


「チェアは6台しかないよ!」


診療室に並ぶユニットは、いつもなら仕事の相棒のような存在だが、今は寝床の数としてしか目に入らなかった。


智子はそのうちの一台の肘掛けに触れ、寝転ぶ姿を想像したのか、すぐに首を横に振った。


「チェアだと寝返りうてないわよ」


背もたれの形やアームの位置を見れば、それが休むための場所ではないことは一目でわかる。

夜通しここに体を預ける姿を思い浮かべて、口元が苦くゆがんだ。


直樹は受付方向を一度振り返り、待合室のソファーや備品の位置を頭の中で並べ替えてから、ゆっくりと首を振った。


「きっとそこじゃない気がします」


ソファーをかき集めても足りない。

そもそも、明日以降の診療を考えるなら、院内そのものを寝床にする選択肢は長くは続かない。

そんな考えが、言葉にならないまま視線の動きに滲んでいた。


真人はスタッフたちの顔を一人ひとり見ていき、立ち尽くす全員の肩に責任の重さが乗っているのを感じながら、ゆっくりと口を開いた。


「……うちで寝泊まりすればいいんじゃない?」


ぽつりと落ちた提案に、視線が一斉に真人へ集まる。

志帆は隣に立ちながら、その言葉の意味を確かめるように真人の横顔を見た。


「真人さん……だから、帰る家が…」


異世界に来たとき、真っ先に失われたと感じたもの。

それが「帰る家」だと、さっきまで全員が思っていた。


真人は少しだけ肩をすくめ、志帆のほうへ振り向いた。


「家ならあるよ」


短い言葉に、診療室全体の空気が一瞬止まった。

聞き間違いではないかと疑うように、何人かが互いの顔を見合わせる。


全員の視線が揃い、同じ言葉が口をついて出た。


「はい?」


戸惑いと確認が混ざった声だった。

真人はその反応を当然のものとして受け止めながら、言葉を継いだ。


「さっき、裏口出てみたら、家あったよ」


その一言で、裏口の向こう側にあるものの輪郭がはっきりした。

診療室と倉庫をつなぐ扉の先、いつもなら自宅へ続いていたはずの通路。

そこに変わらず琴吹家があるという事実が、真人の口から淡々と告げられた。


全員は反射的に裏口のほうへ顔を向けた。


「裏口から帰れるのか!?」


驚きと期待とが混ざり合った声が重なり、次の瞬間には、全員が一斉に裏口へ向かって歩き出していた。

誰かが床に残っていた紙片を踏まないように足を引き、別の誰かが照明のスイッチを気にして振り返る。

しかし動きそのものは止まらず、列を作るように、診療室から裏手へと続く通路へと移っていった。


倉庫を抜け、いつも荷物の出し入れに使っていた裏口へ近づく。

ドアの前で足を止めた真人が取っ手に手をかけると、ほかのスタッフたちは自然と半歩ずつ下がり、扉の向こうをのぞき込めるように体の位置を調整した。

扉が開くと同時に、外の空気がわずかに流れ込む。


その先には、見慣れた住宅の玄関と壁が、何事もなかったように立っていた。

異世界の城や石造りの建物とは違う、日本で暮らしていたときと同じ造りの家。

表札の位置も、塀の高さも、外壁の色も、琴吹家のままだった。


真人は裏口のところに立ち、通路越しに家を指し示した。


「ほらね。琴吹家はあるよ」


確かにそこにある。

それは疑いようのない事実だったが、スタッフたちの胸に浮かんだものは素直な安堵だけではなかった。


大和は家と真人を見比べ、ゆっくりと頭を振った。


「違う…そうじゃない…」


あすかは入口から一歩だけ前に出て、琴吹家を改めて見た。


「院長の家はあっても…」


直樹は視線を家から外し、医院の敷地内へ戻るようにゆっくりと向きを変えた。


「我々は自分の家に帰れないんですね……」


それぞれの生活が続いていたはずの場所へは、もう繋がっていない。

その事実だけが静かに重く落ちてきた。


すずは拳を握り、足元のコンクリートの表面を見つめた。


「そんな……」


言葉の先は、外の景色に飲まれて消えていった。


つむぎは顔を上げ、真人のほうへ向き直った。

視線は琴吹家と真人との間を往復し、そのまままっすぐに問いをぶつける。


「院長先生、私たちが寝泊まりするだけの部屋あるんですか?」


大和はその言葉を聞き、わずかに眉を上げた。


「切り替え早いな」


だが、その切り替えの速さこそが、今必要な現実的な視点なのだと、誰も否定はしなかった。


真人は裏口から一歩外へ出て、振り返るようにスタッフたちを見た。

家の配置を頭の中でなぞりながら、数を数えるように指を折る。


「一人一部屋はないけど、和室が1、客間が2あるから何とか…」


しおりは思わず首を傾げ、琴吹家の間取りを想像しきれないまま口を開いた。


「なぜそんなに部屋が」


志帆は真人のほうへ歩き出し、肩をすくめながら答えた。


「親が来たとき用にとかいろいろ……」


しおりはその説明に納得したように、軽く声を漏らした。


「あ~…」


美里は家の外観を眺めながら、別の点を気にかけた。


「部屋はなんとかなるとして、布団は?」


真人は口元に小さな笑みを浮かべ、胸を張るように立ち位置を整えた。


「ふふふ…問題ない」


陽菜はその余裕のある口調に引っかかりを覚え、眉を寄せた。


「なぜ?」


真人は琴吹家の庭の方向へ視線を向け、手のひらで広さを示すように空を切った。


「うちの庭広いだろ?だから、うちのクリニックが軌道に乗って安定したらいつかみんなとBBQをやりたいと思って。で、酔っぱらって『帰るのむり~』ってなってもいいように…」


直樹は一瞬だけ沈黙し、そのあとで冷静に現実を指摘した。


「みんな徒歩圏内なのに?」


真人は視線を落とし、少しだけ肩を落とした。


「……そうなの。寂しいよね」


志帆はその横で腕を組み、視線だけを前に向けた。


「言っておきますが、私は止めました」


智子は志帆の言葉に目を向け、静かに問いかける。


「なぜ許したんです?」


志帆は肩をすくめ、視線をそらすことなく答えた。


「上目遣いがかわいくって」


智子はため息に似た息を漏らし、短くまとめた。


「だめだこのバカ夫婦」


直樹はそんなやり取りを聞きながら、状況を現実的に受け止めるように言葉を選んだ。


「いろいろとツッコミたいですが、寝泊まりできるなら安心ですね」


大和は家のほうを見て、すぐに顔をみんなのほうへ戻した。


「んじゃ、大地先生、直樹さんとの俺ら男組は同じ部屋ってことで」


真人はその言葉に少し遅れて反応し、自分を指さした。


「え?俺は?」


大和は当然のことのように真人を見た。


「院長は部屋あるでしょ」


真人は一拍おいてから、ゆっくりと納得するように頷いた。


「そうでした」


あすかは家と自分たちの姿を見比べ、ふと現実的な問題を思い出した。


「……着替え……」


その言葉に、場の空気が再び少しだけ重くなる。

日常だったものが、ここではすべて一つずつ確認しなければならない問題になる。


直樹は眉を下げ、静かにまとめるように言った。


「まだ問題があった…」


琴吹家がある。

寝泊まりする場所も、どうにか確保できそうだ。

それでも、元の生活へ続いていたはずの道は、もうどこにもつながっていない。

スタッフたちは裏口と家の間に立ち尽くし、それぞれの足の裏で、これからしばらく踏みしめていくことになる地面の感触を確かめていた。

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