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ほほえみデンタルクリニック、異世界で開業しました  作者: ポン吉
第4章『ほほえみデンタル、はじまりの日々』

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09.ほほえみデンタル開業

情報を共有してから幾日かが過ぎた。

ほほえみデンタルの中は、静かさよりも紙の擦れる音や、器具の触れ合う細かな音のほうが目立つようになっていた。

時間が進むにつれて、空気の密度も少しずつ変わっていく。


開業までの準備があわただしくなる。

受付カウンターには、説明用のパンフレットや案内文の試し刷りが何種類も並べられ、どれを採用するかの印が赤ペンで書き込まれていた。

待合には、資料を広げて話し合いをするスペースが自然とできていて、机の上にはメモとペン、飲みかけの紙コップがいくつも残っている。


ユニット周りでは、機械の点検が繰り返されていた。

ライトを点けたり消したりし、椅子の高さを変えて座り心地を確かめ、動作音に異常がないか一つずつ耳を澄ませる。

口腔内カメラやスケーラーのコードが足元で絡まないようにまとめられ、診療の流れを頭の中で何度もなぞる。


受付では、初診の患者の流れを確認する声が飛び交っていた。

問診票を渡すタイミング、保険証に相当するものをどう扱うか、この国では聞くべき内容がどこまでなのか。

紙の上で矢印を引き、受付から診療室までの動線を書き足しては消し、また書き足していく。


「資料取りの説明は、最初にまとめてしたほうがいいですかね」

「それとも、診療が終わってからのほうがいいですか?」


そんなやり取りが、あちこちから聞こえていた。

レントゲンを撮る必要がある場合や、口腔内写真を残す場合、どのタイミングで患者に説明するのか。

日本であれば当たり前のように流れていく作業でも、この国では一つひとつ言葉を選ばなければならなかった。


定期的に来院してもらうための説明方法も、何度も話し合われた。

「このあとも通ってください」とただ告げるだけでは、この街の人たちにどれほど伝わるのか。

むし歯や歯周病という概念がどこまで浸透しているのかも分からないまま、言葉の順番や説明の例えを変えながら、案を出し合っていく。


口腔ケアを知らない異世界の住民に対してどうしたらわかってもらうか、院内でミーティングをして過ごしている。

ホワイトボードには「むし歯」「歯ぐき」「口の中の病気」といった言葉が議題として書かれ、その下にいくつもの案が箇条書きで並べられていた。

「食べること」「話すこと」「笑うこと」という、日常に近い言葉へ置き換えて説明する案も出ては検討され、不要なものから順に消されていく。


時々医療ギルドのサムも様子を見に来る。新しい医療分野が楽しみで仕方がないという様子で、扉を開けるたびに目を輝かせて院内を見回していた。

ユニットの構造や器具の使い方を興味深そうに眺め、説明を求められれば素直に頷き、時には「わからないことは素直に聞きに来る」と言い残してギルドへ戻っていく。


最初の予約者である商業ギルドの副ギルドマスターのアンナさんも、たまに見に来てくれる。

忙しい合間を縫うように扉を開け、待合をひと回りしてから「順調?」と短く声をかけてくる。

その問いかけは、進捗の確認でもあり、無言の励ましでもあった。


ミーティングに熱が入りすぎて寝食を忘れて倒れているスタッフを見かけてからは、ご飯をおすそ分けしてくれる。

ある日アンナが訪れたとき、机に突っ伏して眠っているスタッフや、椅子にもたれかかって目を閉じている姿がいくつもあり、飲みかけのカップだけがその場に取り残されていた。

それ以来、仕事の合間や帰り際に立ち寄るときには、紙袋やバスケットを片手に持って現れ、簡単に食べられるものを「余りものだから」と言って差し出してくれるようになった。


「すみません……」


志帆は申し訳なさそうに頭を下げる。


「本当に……びっくりしたよ。どんなの感じかな?って覗いてみたらみんな倒れているんだもの」


アンナの言葉には、驚きと呆れとが混じっていた。

そのときの光景が、まだはっきりと記憶に残っているのだろう。


「つい……打ち合わせが白熱してしまって」


真人は苦笑いを浮かべながら答える。

ミーティングの内容はどれも必要なものばかりで、区切りをつけるタイミングを見失っていた。


「頼むよ?」


アンナの一言には、責める響きよりも、心配の色が濃かった。


「はい……」


志帆はもう一度頭を下げる。

その横で、サムも腕を組んでこちらを見ていた。


「新しい分野なんだから……開業前に全員ポックリ行くとかやめてくれよ?」


冗談めかした口調ではあったが、言っている内容は決して軽くない。


「はい……気を付けます」


真人は素直に頷いた。


「開業に向けて問題はないかな?」


サムの視線が、院内を一通りなぞる。

器具の配置や資料の山、ホワイトボードに残された文字。


「……不安はありますが何とか頑張ります」


真人は一拍置いてから答えた。

準備が整っていくほど、足りないものも見えてくる。


「たしか……5日後だったな?」


サムは日付を確認するように言う。


「はい。……もう大丈夫です。すり合わせとかも全部終わらせたので」


志帆はホワイトボードに視線を向けながら答えた。

書かれていた項目の多くには、既に横線が引かれている。


「楽しみにしてるからね」


アンナは短くそう告げると、持ってきてくれた食べ物の入った袋をテーブルの上に置いた。


「ま、開業するまでは定期的に様子見に行かせてもらうよ……ギルド職員総出で」


サムは軽い調子でそう言ってから、扉のほうへ向き直る。


「すみません」


真人はその背中に向かって頭を下げた。

支えられていることを、改めて意識する。


開業日当日。

ほほえみデンタルの中には、いつもとは違う種類の緊張があった。

机の上に置かれていた資料の山は整理され、必要なものだけが整然と並べられている。

床はいつも以上に磨き上げられ、ユニットのライトも無駄なく角度が整えられていた。


入口近くには、スタッフたちが自然と輪を作って立っていた。

誰かが声をかけるのを待つようにして、全員の視線が同じ一点を見ている。


「いろいろあったけど、無事今日を迎えることができました」


真人が一歩前に出て、静かに言葉を置く。

そこまでの道のりを一気に振り返ることはできないが、今こうして全員がここにいるという事実だけは確かだった。


「まぁ、心配かけてしまったけど……」


志帆は肩の力を少し抜きながら続ける。

倒れかけた日もあれば、議論が進まず足踏みした時間もあった。


「衛生士は全員揃ってますよ」


智子が前に出て、はっきりと告げる。

その一言で、看板を支える柱の一本がしっかり立ったような感覚が広がる。


「受付も、事務も全員揃っています」


直樹もすぐに言葉を重ねる。

診療を回すための手が、きちんとここに揃っている。


「院長。今日をとりあえず乗り切りましょう」


大地は少し笑みを浮かべて、真人のほうを見る。

先のことを一度脇に置き、目の前の一日だけに焦点を合わせるための言葉だった。


真人は周りを見回し、深く息を吸い込む。

ここまでの準備と、支えてくれた人たちの顔が一瞬頭をよぎる。


「ほほえみデンタルクリニック開業!!」


その宣言と同時に、院内の空気がわずかに変わる。

静けさの中に、新しく動き出す気配が確かに混じっていた。

次章

第5章 『ほほえみデンタル、落ち着かない初日』は、

3月26日 (木)17時より投稿を開始します。


どうぞ、お楽しみに。

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