07.留守のあいだに
ほほえみデンタルの中は、院長たちが戻る直前まで、落ち着いた時間が流れていた。
診療はまだ始まっておらず、開業準備の途中という空気だけが残っている。
受付カウンターの上には、整理途中の書類が整然と積まれ、ペン立ての中身も向きを揃えられていた。
ユニット周りは一通り確認が済んだあとで、ライトの位置や椅子の高さも、誰かが触った痕跡のまま止まっている。
床はすでに乾き、さきほどまでの掃除の気配はほとんど消えていた。
それでも、院内にいる全員が、何もなかったとは思っていない。
留守のあいだに起きた出来事が、まだ言葉にならないまま、場に残っている。
入口の扉が開き、足音とともに声が響いた。
「戻りました」
続いて、少し明るさの混じった声が重なる。
「ただいま~」
最後に、疲れを隠さない声が続いた。
「戻ったよ~……みんなゆっくり休めた?」
院内にいたスタッフたちの視線が、一斉に入口へ向かう。
短い外出だったが、戻ってきた三人と、留守を預かった側の間には、確かな時間差があった。
智子は一歩前に出て、落ち着いた調子で応じる。
「おかえりなさい。まぁ有意義な休日を過ごせましたよ」
一言の中に、色々あったことが含まれている。
だが、ここではそれ以上掘り下げない。
志帆は靴を揃えながら院内を見回し、すぐに一箇所で視線を止めた。
「それはよかった。……で、大和は何で正座していてしおりは怒っているんだい?」
視線の先には、床に正座したまま動かない大和と、その前に腕を組んで立つしおりの姿がある。
説明を求めるまでもなく、何かあったことは一目で分かる光景だった。
あすかは少し間を置いてから、端的に答える。
「……まぁ色々あったんです」
詳細を省いた言い方は、逆に状況の多さを伝えている。
「ふ~ん」
志帆はそれ以上追及せず、軽く流した。
後で聞けばいい話だと判断したようだった。
真人は空気を切り替えるように、別の方向へ視線を向ける。
「大地君特に変わりはない?」
大地は少し考えるように眉を寄せる。
「う~ん……特に大きな変化は…あ……」
言葉が途中で止まる。
その一瞬の間に、真人の反応が変わった。
「何?!」
声の調子が一段上がる。
ゆかが落ち着いた声で補足に入った。
「ほほえみデンタルがレベル2になっていて、ギフトが送られてきました」
聞き慣れない単語が、会話の中に落ちる。
「ギフト?」
志帆の声には、疑問がそのまま乗っていた。
すずが簡潔に答える。
「舌圧測定器です」
「舌……???」
志帆の思考が一瞬止まる。
智子は、説明を補うように続けた。
「舌圧測定器ですよ。ほか、口腔機能を検査する」
説明が終わる前に、志帆が強めに返す。
「それくらい知っとるわ!」
勢いだけでなく、多少の照れも混じっていた。
「失礼しました」
智子はすぐに引いた。
真人は首を傾げ、確認するように言う。
「………え?それだけ?」
期待していた内容との落差が、声に出ている。
「はい」
すずの返答は短く、揺らがない。
大地は肩をすくめる。
「う~ん……まぁそういう反応になりますよね」
必要な機器ではある。
だが、劇的な変化を感じさせるものでもない。
直樹が、ふと根本的な疑問を口にする。
「というかなぜレベルが上がったんですか?」
美里が即答する。
「内覧会が成功したからみたいですよ」
一拍置いて、志帆が聞き返す。
「は?」
同じ言葉が、もう一度繰り返される。
「内覧会が成功したからみたいですよ」
聞き間違いではなかった。
真人は腕を組み、天井を見上げる。
「……開業したらレベル上がるのかな?」
志帆は眉をひそめる。
「……いやいやいや……確かに欲しかったけど!」
欲しかった。
だが、今ではない。
しおりが小さく頷く。
「ですよね~……」
その流れで、志帆は思い出したように視線を戻す。
「あ、お説教終わったんや?」
「はい」
しおりの返事は簡潔だった。
真人はしおりの後ろで倒れている大和をちらりと覗き見て、心の中で合掌する。
直樹は場をまとめるように言う。
「まぁ、何かしらレベルが上がったら特典がくるってことですね」
「そうかもですね」
大地も同意する。
志帆は腕を組んだまま、首をかしげた。
「解決してるのかしてないのか……」
進んでいるようで、まだ途中。
そんな感覚が残る。
そのとき、あすかが小さく手を挙げた。
「あ、もう一ついいですか?」
真人は即座に反応する。
「次はなに!?」
院内の視線が、自然とあすかへ集まった。




