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ほほえみデンタルクリニック、異世界で開業しました  作者: ポン吉
第4章『ほほえみデンタル、はじまりの日々』

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05.全部院長に任せよう

ほほえみデンタルクリニックの中は、いつも通りの静けさだった。

受付カウンターの上には、書きかけの書類とペン、開業準備のためのメモが並んでいる。

奥のユニットには、まだ使われていない器具がきちんと並べられ、鏡やライトの角度を調整した痕跡だけが残っていた。


待合のイスを拭いていたすずが、入口の扉のほうへちらりと視線を向ける。

外の気配がわずかに動いたと思った次の瞬間、勢いよく扉が開いた。


「ただいま~」


陽菜と大和の声が重なる。

明るい響きだけはいつも通りだった。


すずは反射的に笑顔で出迎えようとする。


「あ、おかえりな……」


言葉の途中で、口が止まった。

目に飛び込んできた光景が、予想していたものとあまりにも違ったからだ。


二人の足元から膝にかけて、濃い色の泥がまだらについている。

ズボンには水の跡が筋になって残り、上着の裾にも土が跳ねていた。

床には、入ってきたばかりの靴の裏から落ちた泥が点々と並び始めている。


泥だらけ2人の姿を見て絶句するスタッフたち。

それぞれの手に持っていたものが、その場でぴたりと止まる。


最初に声を上げたのは智子だった。


「あんたたち泥だらけじゃない!……全くなにしてたんだか」


言葉はきつく聞こえたが、その視線は二人のケガの有無も確かめていた。


陽菜は片手をひらひらと振りながら、明るい調子を崩さない。


「Fランクの依頼をしに」


大和も、汚れたズボンの裾をつまみ上げて見せる。


「側溝掃除を……」


言葉と見た目がそのまま一致していて、言い訳の余地はどこにもなかった。


あすかは、二人の全身をざっと眺めてから、余計な突っ込みよりも先に口を開く。


「……うん。わかったから早く顔とか洗って来て」


泥がこれ以上院内に広がる前に、動かすべき方向を示す。


「「は~い」」


陽菜と大和が揃って返事をし、受付前を通り過ぎていく。

歩くたび、床に小さな足跡がくっきり残る。

それを目で追っていた智子は、深くため息をついた。


「あ~あ……院内が泥だらけに……」


白い床に伸びた茶色い線が、開業前のきれいな空間にやけに目立つ。


美里はその光景に苦笑しつつも、すぐに現実的な提案を口にした。


「……掃除しましょうか」


掃除用具の場所は、すでに全員が把握している。

こういう事態が起きる可能性を、誰もがどこかで想像していた。


しおりはモップの置き場へ向かいながら、入口と待合の配置を見回す。


「いちいち院内を通過しないと街に出られないのは不便ですよね」


外へ出るには必ず院内を横切る。

その導線が、今は泥の足跡として可視化されていた。


智子は肩をすくめて、少し昔を思い出すように言う。


「本来の場所での開業だったら関係なかったんだけどね……」


靴の履き替えや裏口の導線、スタッフ用の出入口。

かつて当たり前だった工夫は、この異世界ではまだ整っていない。


ゆかはモップを手に取り、水を含ませながら相槌を打つ。


「まぁ……しかたないですよね」


文句を言っても道は増えない。

作られたばかりのこの建物では、今ある出入口を使うしかない。


バケツに水が溜まり、モップの布が湿りを帯びる。

スタッフたちは自然に配置につき、床の泥を順に拭き取っていく。

足元の汚れが消えていくたび、ほんの少しずつ白さが戻ってきた。


掃除をしながら会話をする。

手は動かしながらも、頭の片隅では別の心配事が顔を出している。


つむぎはモップを滑らせながら、前から気になっていたことを思い出した。

床の泥が一段落したところで、智子へ声をかける。


「そういえば智子さん」


智子はモップを止め、顔だけつむぎのほうへ向けた。


「なに?」


つむぎは一拍置いてから、事務方らしい疑問を口にする。


「開業するのはいいとして……レセプト請求ってどうなります?」


日本で働いていた頃は、当たり前のように毎月処理していたことだ。

この国で同じような仕組みがあるのか、そもそも保険制度がどうなっているのか。

考え始めると、どこから手をつければいいのか分からない話題でもある。


智子は小さく息を吐き、モップの柄に顎を乗せるようにして天井を一瞬見上げた。


「………ふぅ……私たちが考えることじゃないよ。そこは院長と副院長に任せましょう。ね、大地先生」


自分たちの役割の線引きを、あえて口にする。

現場でできることと、決めるべき人がやることを、無理に混ぜないための一言だった。


大地はカルテの束を手にしていたが、呼びかけに気付いて視線を上げる。


「そうだね~」


のんびりとした口調の裏で、頭のどこかで同じ問題を思い浮かべている。

だが、それを今ここで掘り下げるつもりはなかった。


つむぎはすぐに返事をして、話を深追いしない。


「は~い」


胸の内では、別の言葉が過っていた。

考えるのを脇へ置いた気配を感じながらも、それをわざわざ口に出すことはしない。


(考えるのを放棄したな)


智子もまた、心の中で小さく溜息をつく。

すっかり忘れてた……どうするんだろう。

頭の隅にだけ、その言葉を浮かべておいた。


(すっかり忘れてた……どうするんだろう)


あすかは壁際の汚れを雑巾で拭きながら、もう一つ気になる点に触れる。


「……新規指導ってあると思います?」


開業すれば、必ずどこかで「最初のチェック」が入る。

日本での経験があるだけに、その光景が簡単に想像できてしまう。


智子は雑巾を絞りながら、さっきと同じ線を引いた。


「それも院長と副院長に任せましょう」


自分たちで想像を広げると、心配ごとだけが増えていく。

それならいっそ、決めるべき人に任せてしまったほうが、今やるべき作業に集中できる。


あすかは肩の力を抜いて、素直に頷いた。


「は~い」


すずは、バケツの水を見下ろしながら、ずっと喉元まで出かかっていた言葉を、思い切って口にする。


「そもそも保険……」


どこから話を切り出すべきか、まだ形になっていない。

そう思った瞬間、智子の声が上から被さった。


「全部院長と副院長に任せるんだよ!」


力強い一言が、保険の二文字をその場で押し戻す。

先ほどまでのレセプトの話と同じ箱に、そのまま放り込むような調子だった。


すずは少しだけ目を丸くしたあと、苦笑いに似た表情で返事をする。


「……は~い」


任せると決めたからには、これ以上その場であれこれと想像しても仕方がない。

今やるべきことは、目の前の汚れをきちんと落とすことだ。


床の泥がほとんど取れた頃、奥のほうから水道の音が止む気配がした。

タオルで顔をぬぐう音と、足音が近づいてくる。


陽菜が入口近くまで戻ってきて、両手を腰に当てる。


「ふう……さっぱりした~」


泥でくすんでいた頬は洗い流され、髪もタオルでざっと拭かれている。

足元こそまだ完全ではないが、先ほどの状態よりは格段にましだった。


智子は、陽菜の服を改めて見た。

さきほどの泥のべったりとした跡は消え、代わりに水で濡れたあとが淡く残っている。


「服は?」


陽菜は指を外のほうへ向け、あっけらかんと答えた。


「外の水道で予洗いして、院長先生の家の洗濯機にいれてま~す。大和がお風呂から上がったら一緒に回してもらいます」


クリニックの裏手にある院長夫婦の家には、風呂も洗濯機も揃っている。

生活に関わることは、基本的にそちらで完結させるようにしていた。


智子はその段取りを聞き、ひとまず納得する。


「……まあ良しとしよう」


院内で洗濯機を回されるよりもずっとましだ。

床の汚れもほぼ片付き、目立っていた足跡も薄くなっている。


陽菜はほっと息をつき、それからふと思い出したように顔を上げた。


「あ、あすかさん。大地先生」


名前を呼ばれた二人が、それぞれの作業の手を止めて顔を向ける。


「ん?なに?」


声の響きが重なり、同じ言葉が同時に返ってくる。


陽菜は、さきほどの依頼先での会話を頭の中で順に並べていく。

寝たきりの人たちのこと、施設の話、教会ではどうにもならないと言われた現実。

そこに、自分たちができることがあるかどうか。


「技工所問題さえクリアすれば訪問先候補を見つけました」


ここで口に出さなければ、流れていってしまうような感覚があった。

だからこそ、タイミングを選ばずにそのまま言葉に乗せる。


大地は、思わず聞き返す。


「え?」


あすかも、続きを促すように問いかけた。


「どうして?」


陽菜の頭の中には、泥だらけになりながら掃除をした側溝と、その家の主の姿が浮かんでいた。

ほほえみデンタルの中で広がった泥の跡は、もうほとんど拭き取られている。

それでも、今日の一日で芽生えた小さな考えだけは、まだ消えずにそこに残っていた。

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