05.全部院長に任せよう
ほほえみデンタルクリニックの中は、いつも通りの静けさだった。
受付カウンターの上には、書きかけの書類とペン、開業準備のためのメモが並んでいる。
奥のユニットには、まだ使われていない器具がきちんと並べられ、鏡やライトの角度を調整した痕跡だけが残っていた。
待合のイスを拭いていたすずが、入口の扉のほうへちらりと視線を向ける。
外の気配がわずかに動いたと思った次の瞬間、勢いよく扉が開いた。
「ただいま~」
陽菜と大和の声が重なる。
明るい響きだけはいつも通りだった。
すずは反射的に笑顔で出迎えようとする。
「あ、おかえりな……」
言葉の途中で、口が止まった。
目に飛び込んできた光景が、予想していたものとあまりにも違ったからだ。
二人の足元から膝にかけて、濃い色の泥がまだらについている。
ズボンには水の跡が筋になって残り、上着の裾にも土が跳ねていた。
床には、入ってきたばかりの靴の裏から落ちた泥が点々と並び始めている。
泥だらけ2人の姿を見て絶句するスタッフたち。
それぞれの手に持っていたものが、その場でぴたりと止まる。
最初に声を上げたのは智子だった。
「あんたたち泥だらけじゃない!……全くなにしてたんだか」
言葉はきつく聞こえたが、その視線は二人のケガの有無も確かめていた。
陽菜は片手をひらひらと振りながら、明るい調子を崩さない。
「Fランクの依頼をしに」
大和も、汚れたズボンの裾をつまみ上げて見せる。
「側溝掃除を……」
言葉と見た目がそのまま一致していて、言い訳の余地はどこにもなかった。
あすかは、二人の全身をざっと眺めてから、余計な突っ込みよりも先に口を開く。
「……うん。わかったから早く顔とか洗って来て」
泥がこれ以上院内に広がる前に、動かすべき方向を示す。
「「は~い」」
陽菜と大和が揃って返事をし、受付前を通り過ぎていく。
歩くたび、床に小さな足跡がくっきり残る。
それを目で追っていた智子は、深くため息をついた。
「あ~あ……院内が泥だらけに……」
白い床に伸びた茶色い線が、開業前のきれいな空間にやけに目立つ。
美里はその光景に苦笑しつつも、すぐに現実的な提案を口にした。
「……掃除しましょうか」
掃除用具の場所は、すでに全員が把握している。
こういう事態が起きる可能性を、誰もがどこかで想像していた。
しおりはモップの置き場へ向かいながら、入口と待合の配置を見回す。
「いちいち院内を通過しないと街に出られないのは不便ですよね」
外へ出るには必ず院内を横切る。
その導線が、今は泥の足跡として可視化されていた。
智子は肩をすくめて、少し昔を思い出すように言う。
「本来の場所での開業だったら関係なかったんだけどね……」
靴の履き替えや裏口の導線、スタッフ用の出入口。
かつて当たり前だった工夫は、この異世界ではまだ整っていない。
ゆかはモップを手に取り、水を含ませながら相槌を打つ。
「まぁ……しかたないですよね」
文句を言っても道は増えない。
作られたばかりのこの建物では、今ある出入口を使うしかない。
バケツに水が溜まり、モップの布が湿りを帯びる。
スタッフたちは自然に配置につき、床の泥を順に拭き取っていく。
足元の汚れが消えていくたび、ほんの少しずつ白さが戻ってきた。
掃除をしながら会話をする。
手は動かしながらも、頭の片隅では別の心配事が顔を出している。
つむぎはモップを滑らせながら、前から気になっていたことを思い出した。
床の泥が一段落したところで、智子へ声をかける。
「そういえば智子さん」
智子はモップを止め、顔だけつむぎのほうへ向けた。
「なに?」
つむぎは一拍置いてから、事務方らしい疑問を口にする。
「開業するのはいいとして……レセプト請求ってどうなります?」
日本で働いていた頃は、当たり前のように毎月処理していたことだ。
この国で同じような仕組みがあるのか、そもそも保険制度がどうなっているのか。
考え始めると、どこから手をつければいいのか分からない話題でもある。
智子は小さく息を吐き、モップの柄に顎を乗せるようにして天井を一瞬見上げた。
「………ふぅ……私たちが考えることじゃないよ。そこは院長と副院長に任せましょう。ね、大地先生」
自分たちの役割の線引きを、あえて口にする。
現場でできることと、決めるべき人がやることを、無理に混ぜないための一言だった。
大地はカルテの束を手にしていたが、呼びかけに気付いて視線を上げる。
「そうだね~」
のんびりとした口調の裏で、頭のどこかで同じ問題を思い浮かべている。
だが、それを今ここで掘り下げるつもりはなかった。
つむぎはすぐに返事をして、話を深追いしない。
「は~い」
胸の内では、別の言葉が過っていた。
考えるのを脇へ置いた気配を感じながらも、それをわざわざ口に出すことはしない。
(考えるのを放棄したな)
智子もまた、心の中で小さく溜息をつく。
すっかり忘れてた……どうするんだろう。
頭の隅にだけ、その言葉を浮かべておいた。
(すっかり忘れてた……どうするんだろう)
あすかは壁際の汚れを雑巾で拭きながら、もう一つ気になる点に触れる。
「……新規指導ってあると思います?」
開業すれば、必ずどこかで「最初のチェック」が入る。
日本での経験があるだけに、その光景が簡単に想像できてしまう。
智子は雑巾を絞りながら、さっきと同じ線を引いた。
「それも院長と副院長に任せましょう」
自分たちで想像を広げると、心配ごとだけが増えていく。
それならいっそ、決めるべき人に任せてしまったほうが、今やるべき作業に集中できる。
あすかは肩の力を抜いて、素直に頷いた。
「は~い」
すずは、バケツの水を見下ろしながら、ずっと喉元まで出かかっていた言葉を、思い切って口にする。
「そもそも保険……」
どこから話を切り出すべきか、まだ形になっていない。
そう思った瞬間、智子の声が上から被さった。
「全部院長と副院長に任せるんだよ!」
力強い一言が、保険の二文字をその場で押し戻す。
先ほどまでのレセプトの話と同じ箱に、そのまま放り込むような調子だった。
すずは少しだけ目を丸くしたあと、苦笑いに似た表情で返事をする。
「……は~い」
任せると決めたからには、これ以上その場であれこれと想像しても仕方がない。
今やるべきことは、目の前の汚れをきちんと落とすことだ。
床の泥がほとんど取れた頃、奥のほうから水道の音が止む気配がした。
タオルで顔をぬぐう音と、足音が近づいてくる。
陽菜が入口近くまで戻ってきて、両手を腰に当てる。
「ふう……さっぱりした~」
泥でくすんでいた頬は洗い流され、髪もタオルでざっと拭かれている。
足元こそまだ完全ではないが、先ほどの状態よりは格段にましだった。
智子は、陽菜の服を改めて見た。
さきほどの泥のべったりとした跡は消え、代わりに水で濡れたあとが淡く残っている。
「服は?」
陽菜は指を外のほうへ向け、あっけらかんと答えた。
「外の水道で予洗いして、院長先生の家の洗濯機にいれてま~す。大和がお風呂から上がったら一緒に回してもらいます」
クリニックの裏手にある院長夫婦の家には、風呂も洗濯機も揃っている。
生活に関わることは、基本的にそちらで完結させるようにしていた。
智子はその段取りを聞き、ひとまず納得する。
「……まあ良しとしよう」
院内で洗濯機を回されるよりもずっとましだ。
床の汚れもほぼ片付き、目立っていた足跡も薄くなっている。
陽菜はほっと息をつき、それからふと思い出したように顔を上げた。
「あ、あすかさん。大地先生」
名前を呼ばれた二人が、それぞれの作業の手を止めて顔を向ける。
「ん?なに?」
声の響きが重なり、同じ言葉が同時に返ってくる。
陽菜は、さきほどの依頼先での会話を頭の中で順に並べていく。
寝たきりの人たちのこと、施設の話、教会ではどうにもならないと言われた現実。
そこに、自分たちができることがあるかどうか。
「技工所問題さえクリアすれば訪問先候補を見つけました」
ここで口に出さなければ、流れていってしまうような感覚があった。
だからこそ、タイミングを選ばずにそのまま言葉に乗せる。
大地は、思わず聞き返す。
「え?」
あすかも、続きを促すように問いかけた。
「どうして?」
陽菜の頭の中には、泥だらけになりながら掃除をした側溝と、その家の主の姿が浮かんでいた。
ほほえみデンタルの中で広がった泥の跡は、もうほとんど拭き取られている。
それでも、今日の一日で芽生えた小さな考えだけは、まだ消えずにそこに残っていた。




