08.院長、やっと気づく
内覧会が終わった翌朝、琴吹家の食卓には人数分の朝食が並んでいた。
席にはすでに何人かが座り、まだ眠気の残る顔で箸を持っている。
その一角に、真人も腰を下ろしていた。
「……おはよう……みんな」
真人がいつもより少し小さな声であいさつをした。
視線だけがゆっくりと卓をなぞる。
「おはようございます。院長……よく眠れましたか?」
向かい側からそろった声が返る。
いくつもの視線が同時に真人に集まった。
「うん……昨日は疲れたからね………」
言い方に力はなく、言葉も途中で途切れがちだった。
どこか歯切れの悪い真人だった。
「真人さん……ほら、ご飯食べ」
志帆が手元の茶碗を軽く押しやる。
食卓の上には湯気の立つ皿と湯飲みが整っていた。
「……いただきます」
真人は両手を合わせてから、いつものように箸を取った。
動きそのものは普段と変わらない。
「………院長……大丈夫ですか?」
智子が様子をうかがうように声をかける。
真人の顔色を観察するように、目が一度だけ上下した。
「あ……うん……」
真人は短く答えた。
真人は静かに食事をとっている。
会話に割り込むことも、冗談を挟むこともなく、卓上の料理だけを順番に口へ運んでいた。
「真人さん……」
志帆が控えめに名を呼ぶ。
それ以上は続けず、箸の動きだけを追った。
「おはようございま~す」
廊下のほうから大地の声が響き、足音が近づいてくる。
扉が開き、寝癖の残る頭が顔を出した。
「おはよう……」
真人は短く返事をする。
表情の変化はほとんどない。
「……おはようっス」
続いて大和も部屋に入ってきた。
声の調子はいつも通りだが、視線は真人の様子を確かめている。
「おはよう大和くん…」
真人は名前を呼んだあと、また茶碗へ目を戻した。
「……智子さん、院長どうしたんっスか?」
大和が席につきながら、小さめの声で尋ねる。
視線は智子のほうへ向けられていた。
「朝起きた時からずっとこの調子なんだよ」
智子が同じく声を落として答える。
小声で話していると大和と智子。
会話の内容だけが、周囲の耳に届かないように抑えられていた。
廊下からは、別の足音も聞こえてきた。
次々と起きてくるスタッフが、順番に部屋へ入ってくる。
椅子が引かれ、食器の触れ合う音が食卓のあちこちで重なった。
「みんな……そろったね……」
真人が箸を置き、ゆっくり顔を上げる。
卓を囲む人数を数えるように目を動かした。
「はい」
全員の返事が揃う。
朝のあいさつはすでに済み、全員が席に着いていた。
「……あのさ……もしかしてだけど」
真人が前置きのような一言を落とす。
その場の視線が再び真人に向き直った。
「はい」
返事は短いが、耳は全員が真人のほうへ向いていた。
「ここって、日本じゃない?」
食卓の上に視線を落としていた何人かが、同時に顔を上げる。
真人の口からようやく出てきた言葉は、その場の全員がすでに知っている事実だった。
「…………はい」
返事はすぐに返ってこなかった。
それでも、否定は一つもなかった。
「やっぱり……昨日の犬の子とか鬼の子とかいろいろ来てたでしょ!?なんか違うな~って思ってたんだよね!!いつから?!」
真人の言葉が少し早くなる。
内覧会で出会った姿を、順番に思い出しているのが言い回しから伝わる。
「3日前から」
全員の口から同じ答えが出た。
声の高さもほとんど揃っていた。
「内覧会前日じゃん!え?なんで?」
真人の問いは素朴な疑問そのものだった。
箸を持った手が止まり、問いだけが卓の上に残る。
「知りません」
返ってきたのは、そっけないほど簡単な答えだった。
誰も説明できず、誰も事情を把握してはいない。
「そっかぁ……」
真人は短く息を吐き、視線を落とした。
それ以上追及しても、答えが出ないことはすぐに分かった。
「どうすんの?内覧会終わったけど」
志帆が、話の方向を先へ進める。
現状の確認よりも、この先の動きを決めるほうが先だという調子だった。
「う~ん……来ちゃったもの仕方ないよね。この世界で歯科治療していこうか」
真人は少し考えてから言葉をつなげる。
戻れないなら、ここでやることを続けるしかないという結論だった。
「……せやね」
志帆がそれを受け入れる。
異論を挟む理由はどこにもなかった。
「え?院長。それだけですか?」
あすかが思わず口を挟む。
もっと混乱したり、悩んだりするのではないかと予想していた分、その簡潔さに戸惑いがにじんでいた。
「ん?だって来ちゃったんだし、2週間後開業するってお披露目しちゃったし。やるしかないでしょ」
真人は当然のことのように言う。
内覧会で住民に約束した内容を、なかったことにするつもりはなかった。
「それはそう」
美里が静かに同意する。
昨日までの準備と説明を思い返せば、その一言に反対する理由は見当たらない。
「とりあえず、何ができるか話し合わないとね。……まぁ、とりあえず今日は内覧会お疲れ様でした。…ってことでゆっくり体を休めてね」
真人は朝から重い話ばかりを続けるつもりはないようだった。
開業に向けて考えるべきことは多いが、まずは一度休むことを優先させる。
「は~い」
いくつもの返事が重なった。
椅子の背にもたれかかる者、湯飲みに手を伸ばす者、それぞれの動きが少し緩んだ。
「医療ギルド行く?」
志帆が話題を変える。
内覧会のあと、次に動くべき場所を確認するような口ぶりだ。
「サムさんのところ?行く行く」
真人はすぐに答えた。
昨日まで世話になった相手の顔が、自然と頭に浮かぶ。
「私も色々と情報収集したいのでご一緒します」
直樹が手を挙げる。
受付や案内で見えなかった部分を、今のうちに聞いておきたいのだろうということが、その言い方から伝わる。
「そうだね~……技工所とかも探さないとね」
真人は、診療を続けるうえで必要な相手のことを思い浮かべる。
詰め物や被せ物を作る相手がいなければ、治療できる範囲も限られてしまう。
「……院長。それだけじゃないですよ」
智子がそこで口を挟んだ。
視線は真人のほうに向けられたままだ。
「え?」
真人が素直に聞き返す。
今考えていたこと以外の問題が、まだ残っているという知らせだった。
「通貨とか材料とかいろいろ……どうやって手に入れるか問題があります」
ゆかが具体的な点を並べる。
診療を続けるには、器具や材料だけでなく、その支払いに使う物も必要になる。
「あ、そっかぁ……」
真人は口を半開きにしたまま間をあけた。
現地の仕組みをまだ何ひとつ知らないことを、ここで改めて突きつけられた形になる。
「本格開業前に問題山積みだ!……でも、みんなで協力すれば乗り越えられるよ」
真人は最後にそうまとめた。
一人で抱え込むのではなく、この場にいる全員で取り組む前提で話を締めくくる。
食卓を囲む顔ぶれは変わらず、これから向き合う現実だけが新しく並び始めていた。




