10.内覧会の一日を終えて
受付の照明は落としていないが、昼間のようなざわめきはもうなかった。
玄関のガラス越しに見える通りの人影もまばらで、出入り口の扉は静かに閉じている。
あすかは受付カウンターの端に片手をつき、もう片方の手で首筋を押さえながら、少し前かがみになった。
喉からかすれた声がこぼれる。
「つ……疲れた…」
サムたちが医院を後にしてしばらくすると、「医療ギルドのギルドマスターが来たらしい」という噂が街のあちこちに広がった。
その話を聞きつけた住民たちが、興味に背中を押されるようにして、何人かずつ様子を見にやってきた。
出入口から玄関ホール、受付の前にかけて、人の列が何度かゆるやかに途切れ、またつながっていく。
足音や衣擦れの音が交差し、説明を受ける声と質問の声が入り混じる時間が続いていた。
人数としては、内覧会初日を通しても30人にも満たなかった。
それでも、この街には口腔ケアという概念がもともと存在しない。
誰もが「そういうものがある」と知らないところからのスタートで、一人一人にわかりやすく伝えるため、スタッフたちは言葉を選びながら、時間をかけて丁寧に説明をしていった。
診療室の入口付近には立ち止まって話を聞く人、受付の前で質問を重ねる人、帰り際に振り返って建物を見上げる人――
そうした動きが少しずつ減り、ようやく院内に静けさが戻りつつあった。
志帆は受付近くのカウンターに立ち、両手を軽くついて背筋を伸ばした。
喉の奥に残る乾きと、足元に溜まった重さを一度吐き出すように息をつき、小さくつぶやく。
「これ……明日も持つかな?」
大地は壁際の棚の前に立ち、今日使った説明用の紙を揃えながらこちらを振り返った。
肩の力を抜いた笑みを浮かべ、少しだけ大きな声で返す。
「もうこれ以上パノラマ、CTの説明をわかりやすくなんてできませ~ん」
智子は通路側から歩いてきて、受付の前で立ち止まった。
手を後ろで組み、あたりを見回してから、落ち着いた声を落とす。
「いやぁ……2日しか内覧会予定してないですけど……もう1日増やします?」
志帆は首をひねり、白衣の裾を指で軽くつまんだ。
少しだけ視線を床に落とし、天井を仰ぐように言葉を続ける。
「せやなぁ……。もともとの医療基準が日本やったしなぁ…」
直樹は出入り口近くの片づけを終え、手に持っていた道具を壁際に置いた。
振り返りながら、淡々とした調子で付け加える。
「……説明に苦労することはないですからね……」
真人は受付から少し離れたところに立ち、ロビー全体を見渡していた。
先ほどまで人が立っていた場所に視線を滑らせ、ゆっくり瞬きをしてから声を出す。
「……今日来た役所の人たち、真剣に聞いてくれてたね~。……でも、なんで知らないんだろ?」
志帆は真人の方へ顔を向け、口元をわずかに緩めた。
白衣の胸元を指で押さえながら、さりげない調子で返す。
「交換留学生だから」
真人は一拍置いてから、素直に頷いた。
目線を少し上へ向け、無邪気な響きのまま言葉をこぼす。
「そっかぁ~」
大地はそのやり取りを横から聞きながら、両手を軽く広げた。
肩を落とし気味にしつつ、少し呆れたような声を出す。
「いや、無理があるでしょその説明」
志帆は大地の方へ半歩だけ向き直り、特に気にした様子もなく短く返した。
目元にはわずかな疲れがにじんでいる。
「納得したで」
美里は受付横の棚から用紙を取り出していた手を止め、小さく息を吐いた。
視線をわずかに下げたまま、抑えた声で続ける。
「突っ込む気にもなりません」
玄関のほうから戻ってきたつむぎは、のど元を片手で押さえ、少し顔をしかめていた。
呼び込みで出し続けた声が残っているのか、話すたびに喉が揺れる。
「声はりすぎて喉痛い…」
ゆかはその隣で壁にもたれかかり、ぐったりと肩を落とした。
視線は天井近くを漂い、力の抜けた声がこぼれる。
「明日は誰か別の人して~」
しおりは片づけの手を緩め、二人の方へ顔を向けた。
明るい口調のまま、軽く手を挙げる。
「いいよ~」
受付カウンターの少し後ろ側にいたすずは、しばらくその場の様子を見ていた。
両手を胸の前で握りしめ、ためらいがちな動きで一歩前へ出る。
足元を確かめるように視線を落としてから、少し高めの声を出した。
「わ、私も頑張ります」
つむぎとゆかは同時にすずの方へ顔を向け、目を見開いた。
驚きが声にそのまま乗る。
「え!?…すずちゃん。無理しなくていいよ。できないならかわりにやるから」
すずは肩を震わせながらも、握った手に力を込め直した。
視線をしっかりと前に向け、言葉を途切らせないように続ける。
「私もこのスタッフの一員です!頑張ります!」
真人はその言葉を聞いた瞬間、胸の前で握っていた手をぎゅっと強くした。
目元に光をにじませながら、ゆっくりと息を吸い込み、絞り出すように声を出す。
「………みんな……明日もよろしくね!!」
志帆は真人の様子を横目で見て、白衣の裾を軽くつまんだ。
肩を少しだけ落とし、ぼそりと呟く。
「泣き出した……」
陽菜は近くの机のところで用紙を揃えていたが、その言葉を聞きながら自分の手元を見つめた。
指先で紙の角をなぞり、わずかに悔いの混じる声を漏らす。
「こんなことならもっとわかりやすいパンフレット作っておけばよかった……」
直樹は受付奥の机の前に立ち、積んでおいた封筒や紙の束に手を伸ばした。
淡々とした表情のまま、はっきりと事実だけを告げる。
「………作りましたよ」
真人は勢いよく振り返り、目を見開いた。
驚きがそのまま短い声になって飛び出す。
「え?!」
志帆も同じように直樹の方へ詰め寄り、半歩前へ踏み出して問いを重ねた。
「いつ!?」
直樹は机の上から整えた紙の束を手に取り、少し持ち上げて見せた。
声の調子は崩さず、状況だけを簡潔に伝える。
「お昼休憩中に……。あとは複合プリンターでカラー印刷してラミネートしたら完了です」
智子はその説明を聞き、目元にわずかな感心の色を浮かべた。
口元を緩め、穏やかな声で一言添える。
「流石シゴデキ男……」
直樹は視線を少し横に外し、照れ隠しのように小さく肩をすくめた。
「こういうの得意なんで……」
真人は両手を大きく広げ、天井を仰ぐようにして声を上げた。
その表情には、半ば本気の疑問が乗っている。
「本当になんでうちなんかに……」
志帆は真人の言葉に間髪入れず、あっさりとした句を差し込んだ。
視線はそのまま直樹へ向いている。
「もっとあったやろ」
直樹は軽く首を振り、肩の力を抜いた声で返す。
「好きでやってるんで気にしないでください」
美里は机の上に広げられた紙を丁寧に揃え、複合プリンターの方へ視線を移した。
次の作業を確認するように、落ち着いた声で尋ねる。
「何部か印刷してラミネートしますか」
大地はその場に立ったまま両腕を伸ばし、背中を軽く反らせた。
伸びをする動きの中で、明日に向けての期待をこぼす。
「これで明日の説明が楽になるといいな……」
真人はスタッフたちの顔を順番に見渡し、腰に手を当てた。
足元の位置を整え、声の調子を少しだけ高くして宣言する。
「よ~し。おいしいものを食べて明日も乗り切るぞ~」
その声に呼応するように、院内にいる全員が胸を張った。
一斉に息を吸い込み、声を揃えて応える。
「お~~~~!!」
次章
第3章 『ほほえみデンタル、』は、
2月12日 17時より投稿を開始します。
どうぞ、お楽しみに。




