02.朝ごはんから始まるエンジン
湯気の立ち上る味噌汁の香りが、食卓を柔らかく包んでいた。
椀を持つ手の体温が器へ伝わり、指先にほのかな熱が残る。
窓から差し込む朝の光がゆらゆらと湯気を照らし、揺れる輪郭が淡い。
「ん~…智子さんの料理おいしいわ~」
志帆が口元へ椀を近づけ、目を細めた。
湯気が頬をなで、髪先が軽く揺れる。
「本当に。絶品だよ」
真人が満足そうに息を吐き、箸を止めた。
表面の光が汁の上でゆっくり揺れ、その視線に微笑みの影が差す。
「いやですよ~。ただの主婦の料理ですよ」
智子が照れくさそうに肩をすくめ、エプロンの紐を指で引き締め直した。
視線を逸らす仕草が小さく、空気に照れの色が混ざる。
「智子さん!豚汁まだありますか?」
大地が椀を高く掲げ、勢いよく食卓の中央へ体を向けた。
期待のこもった声に、唇が自然と笑いの形を描く。
「ありますよ」
智子がおたまを鍋に沈める。
熱い湯気が勢いよく立ち上がり、食卓への香りがさらに濃くなる。
「田舎のばーちゃんの味を思い出します!うまい!」
大地が目を輝かせ、声を弾ませる。
椀を胸の高さで抱え、肩を上下させながら夢中で味わった。
「誰がババアじゃ!」
智子が勢いよく蓋を置き、金属音が高く響いた。
眉がきゅっと寄り、テーブルの空気が一瞬止まる。
「え?言ってない……」
大地が硬直し、箸を宙で止めた。
首だけが小さく揺れ、視線が右往左往する。
「いやぁ…おいしい料理は活力がわくねぇ…。今日の内覧会頑張ろう!」
真人が背もたれに体を預け、余裕の笑みを浮かべた。
マグカップを軽く持ち上げ、取っ手の金属が淡く光る。
「歯科医院っていうのが通じるかわからんけど…やるだけやったろか!」
志帆が椀を置き、身を前へ乗り出した。
言葉の勢いとともに、空気に小さな波が走る。
「ですね!!」
あすかが勢いよく椅子を引き、テーブルへぐっと近づいた。
背筋をまっすぐ伸ばし、瞳に力が宿る。
真人の眉がかすかに跳ね、箸を持った指先が止まった。
「……ん?なんで??…通じるでしょ?」
ほんの自然な調子で声が落ちる。
しかし、空気はそこでぴたりと固まった。
「…………」
食卓全体が静まり返る。
静寂に押され、湯気だけが天井へ向かってゆっくり伸びた。
「……ちょ…志帆先生!どうなってるんですか?」
智子が椀へ手を添え、眉を寄せた。
声は荒げないものの、焦りが縁へ滲む。
「ごめん。まさか昨日の洗脳でリセットされたみたいや」
志帆が額を指で押さえ、困り顔で息を短く吐いた。
椀の湯気が横に流れ、光の筋がその形を変える。
「リセットって……。え?説明しないとダメっスか?」
大和が半ば立ちかけた姿勢で肩を上げ、視線を泳がせた。
手元の椀が小さく揺れ、汁の表面に波が走る。
「マジ勘弁してほしい」
つむぎが椅子へ深く背を預け、天井へ視線を逃がした。
照明の光が頬に沿って滑り、顔の角度が影をつくる。
「院長には今日、裏待機してもらいます?」
ゆかが紙ナプキンを折り曲げ、角をぴたりと揃えた。
指先に落ちる影がすっと伸びる。
「いや、さすがに医院の顔がいないのはダメやろ」
志帆が声を落とし、椅子の脚が低い音を立てる。
身じろぎが空気の厚みをわずかに変えた。
テーブルの上へ顔が近づき、低い囁きが重なる。
器と器が触れ合う小さな音だけが響き、息が近くで混ざった。
「……院長」
直樹が椀をそっと置き、視線を前へ向けた。
背筋が伸び、声の通り道がまっすぐ開かれる。
「ん?」
真人が顔を上げ、目線を受け取る。
「……今日の内覧会は……」
直樹の声が細く震え、息が浅くなる。
「うん」
真人が軽く頷いた。
「………内覧会は……」
間が落ち、湯気が揺れた。
「内覧会は?」
真人の指がテーブルを軽く叩き、答えを促す。
「……きっと大丈夫ですよ」
直樹の肩が小さく沈み、呼吸がゆっくり整う。
「うん。そうだよな!みんなあれだけ準備したから」
真人の声にわずかな明るさが戻る。
「言わへんのかい!」
志帆が机を軽く叩き、体を前へ乗り出した。
食器が小さく跳ね、湯気が揺れる。
「無理でした」
直樹が視線を落とし、椀の縁を指で触れた。
「まぁええわ。フリーズしたら私がなんとかしたるわ」
志帆が立ち上がり、椅子が床で低く鳴った。
「流石志帆先生!」
「頼りになります!」
「よっ!日本一!」
次々と重なる声に、空気が一気に軽くなる。
「……院長。私たちは打ち合わせあるから、先に院内の内覧会の準備してきてね」
志帆に視線を送られ、真人がゆっくり体を起こす。
「は~い」
椅子が引かれ、足音が床を渡っていく。
湯気がもう一度静かに揺れ、光が輪郭をゆらめかせた。




