第5話
7月18日、佐藤健一は小屋の硬い床で目を覚ました。暖炉の火は夜の間に消え、わずかな灰が残るのみ。
窓から差し込む朝の光が、湖畔の白い小石をキラキラと照らしている。外に出ると、高原は今日も素晴らしい景色で健一を迎えた。
昨日、湖に魚がいること、湿地に実があることを確認し、火を起こせたことで、健一の心にはわずかな希望が芽生えていた。
だが、元の世界に戻る方法はまだわからない。既に三日目だ。
会社を無断で休むなんて初めてで落ち着かない。昨日予定の会議は大丈夫だっただろうか。
現実逃避気味に考えながら、健一はポケットからスマホを取り出し、電源を入れた。バッテリーは66%。圏外の表示は変わらない。
使用控えてるとはいえ減りは遅く感じる。昨日までのメモを確認しようとアプリを開くと、画面に新しいメッセージが表示されている。自分の書いたメモではない。心臓がドキリと跳ねた。
『17歳、高校生。あなたの日記、急にスマホに出た! どうやって私のスマホに送ったの?そこはどんな場所?冗談じゃないなら、私に何か出来る?落ち着いて、教えて!』
「なんだ、これ?」
健一は目を疑った。誰かが自分のメモに返事をしている。
17歳の高校生? 女の子の口調のような気もするが、確信はない。
名前も場所もわからない。いや、本当に人間なのか? AIか、それともこの異世界に関わる何か。神、悪魔、仏様のような存在なのか?
頭が混乱する。圏外のはずのスマホに、なぜこんなメッセージが?
健一は小屋の椅子に腰掛け、スマホを握りしめた。この高原には人間の気配がなく、昨日までの探索でも誰も見つけられなかった。
なのに、誰かが自分のメモを読んでいる。そして返事を書いて来た。どうやって?
スマホはオフラインのはずだ。ネットワークがないのに、メッセージが届くなんてありえない。
だが、画面に表示された文字は紛れもない現実だ。
「落ち着け、考えるんだ」
必死に自分に言い聞かせる。まず、相手が誰かを考える。17歳、高校生と名乗っているが、本当かどうかわからない。女の子っぽい口調だが、性別も不明。もしかしたら、この世界に飛ばした何者かが仕掛けた罠かもしれない。
だが、元の世界に戻る手がかりになる可能性がある。
あるいは、同じようにこの高原に飛ばされた誰かかもしれない。
「いや、でも、見晴らしの良い場所で会っていないなら、別の場所にいるのか? 別の世界?」
健一の頭には、元の世界での自分も浮かんだ。東京のアパートで消えた自分は、今どうなっているのか。会社では行方不明扱いか? 友人は? 警察が捜索しているかもしれない。
だが、ここで生き延びるためには、目の前の状況に対処するしかない。このメッセージの相手が助けになる可能性は捨てきれない。
「返事を書くべきか?」
スマホのメモには「200文字まで」の制限があり、保存も一度きりかもしれない。慎重に言葉を選ばなければならない。バッテリーも限られている。
だが、この機会を逃すわけにはいかない。健一は深呼吸し、メモアプリに返事を打ち込んだ。
『私は佐藤健一。湖と草原、山脈に囲まれた高原の小屋にいる。テーブル、椅子、暖炉、毛布、鉄のカケラがあるだけ。持ち物はスマホと財布、ハンカチだけ。現在地不明で帰る為の手がかりもなし。電波も無い。君はどこ? どうやってメモを見た? 助けてくれる?』
保存ボタンを押すと、「保存しました」と表示され、ボタンはグレーに。
昨日、一昨日と同じだ。一日一回しか保存できないのか? 明日また試すしかない。スマホをオフにし、ポケットに戻した。
返事が来るかどうかはわからない。相手が本当に助けになるのか、敵なのかさえ判断できない。だが、わずかな希望が胸に灯った。
返事を書いたものの、他にできることはない。待っているだけでは食料が尽きる。
健一は気を取り直し、探索を続けることにした。湖周辺には昨日、赤い実を見つけたが、量は少なく、腹持ちが悪い。
もっと食料を見つけなければ。湖の魚は釣り道具がない限り捕まえられない。小動物の足跡や鳥の気配はあるが、狩猟の知識もない。
今日は湖の反対側を重点的に調べようと決めた。小屋から湖の反対側までは、なだらかな草地を歩いて15分ほど。
湖畔を歩くと、白い小石が足元でカサカサと音を立て、風がそよぐたびに草が揺れる。
湿地の端には昨日と同じ赤い実がついた茂みがあるが、新たな発見を求めてさらに進んだ。
湖の反対側は、昨日あまり注意を払わなかったエリアだ。そこには、低い灌木が点在し、草地の中に少し背の高い木々がまばらに生えている。
木々の間を歩くと、地面に落ちた実が目に入った。赤い実とは異なる、拳ほどの大きさの黄緑色の果実だ。表面は硬そうだが、割ってみると、中は柔らかく、甘い香りが広がった。
「これは……食べられるかもしれない」
一つを慎重に味わってみる。甘みとほのかな酸味があり、果肉はジューシーで腹持ちが良さそうだ。
毒の可能性を考え、少量だけ食べて様子を見た。30分ほど待っても異常はなく、安心して数個を摘んだ。
「これなら、しばらく食いつなげる」
果実の木は湖の反対側に数本あり、まとまった量を集められた。
ポケットと毛布を使って小屋に運び、テーブルの上に並べる。赤い実より大きく、栄養価も高そうだった。湖の魚を捕まえる方法はまだわからないが、果実があれば数日は持ちそうだ。
小屋に戻ると、暖炉に昨日集めた枝をくべ、火を起こした。昨日覚えたコツで、鉄のカケラを使って火種を作り、草と薪に火をつける。炎が揺れるのを見ながら、健一は再びスマホのメッセージを思い出した。
「17歳、高校生か。本当に人間なのか?」
もし同じようにこの世界に飛ばされた誰かの可能性は?それなら、どこにいる?
スマホを通じて繋がっているなら、ネットワークがなくても通信できる仕組みがあるのか? 頭を巡る疑問に答えはない。
元の世界に戻る方法もわからない。だが、生き延びるためには食料と水、火を確保し続けるしかない。
湖の水は飲める。果実は見つかった。火も起こせるようになった。
次の課題は魚を捕まえる方法か。もっと食料を確保すること。
そして、メッセージの相手が何かを知っているなら、それが手がかりになるかもしれない。
外は夕暮れが近づき、草原の向こうに沈む太陽が空を赤く染めていた。
湖には星が映り始め、静かな美しさが広がる。健一は毛布にくるまり、床に座った。
スマホを取り出し、確認するが、新しいメッセージはない。バッテリーは55%。節約のため、すぐにオフにした。
明日、返事が来るかもしれない。それが希望か、罠か。
不安と期待を胸に健一は目を閉じた。
最後まで読んでくれて感謝します!