第2話
7月17日、佐藤健一は古びた小屋の中で目を覚ました。
毛布にくるまったまま床で眠ったせいで、体は硬く、肩と背中に鈍い痛みが走る。
それでも、窓から差し込む朝の光と、湖畔の白い小石がキラキラ輝く光景に、ほんの少し心が軽くなった。
昨日の不可解な出来事が頭をよぎる。50歳の誕生日、突然この高原に飛ばされたこと。
東京のアパートから一瞬にして、草原と湖、山脈に囲まれたこの場所へ。
異世界なのか、地球のどこかなのか、答えはまだ見えない。
健一は立ち上がり、小屋の外に出た。空は澄み切り、雲の影が高原の緑の絨毯を滑るように動いている。
湖の水面は朝日を反射し、遠くで水鳥が羽ばたく音が聞こえる。風がそよぐと、花の甘い香りが漂い、草原が波のように揺れる。
南の森の向こうには、果てしない大草原が広がり、その広大さに圧倒される。北の雪を頂いた山脈は荘厳で、近寄りがたい雰囲気を放っている。
「ここで生き延びるには、まず食料と水だ」
健一は呟くと歩き出した。まず湖の周囲を詳しく調べることにした。
小屋から湖までは歩いて数分。湖畔に立つと、水は驚くほど澄んでいた。
昨日は疲れと混乱で試せなかったが、喉の渇きは限界だった。
恐る恐る手を伸ばし、水をすくって飲んでみる。
冷たく、ほのかに甘みのある水が喉を潤した。
「これなら飲める。凄く美味い。ひとまず水は大丈夫だ」
湖をよく見ると、水面下で小さな魚が泳いでいるのが見えた。銀色の体が光を反射し、群れでゆったりと動いている。
「魚か。釣れれば食料になる」
だが、釣り道具はない。小屋に戻り、昨日見た中身を確認する。テーブル、椅子、暖炉、薪、毛布の他に、隅に錆びた鉄のカケラが転がっていた。
道具らしい道具はなく、釣り針や糸を作るのは難しそうだった。それでも、魚の存在は希望だ。
次に、健一は小屋周辺の高原を歩き回った。高原は広大で、全域を歩くには何日もかかりそうだ。
小屋から高原が麓に降り始める場所までは、なだらかな草地を歩いて1時間ほど。そこから南の森に向かうには、急な斜面を下る必要がある。
森の頭越しに見える大草原は、果てが見えないほど広大で、金色と緑が混ざり合って揺れている。
だが、麓の森まで下るのは険しい道のりだ。半日はかかりそうで、道もなく、森を抜けて草原に至るには何日かかるかわからない。
帰りの登りはさらに時間がかかるだろう。体力を考えると、森の探索は現実的ではない。
「森には木の実や動物がいそうだが、今は無理だな」
明確な目標が見つかるまでは小屋を拠点にした方が良い。まずは日帰り出来る範囲だ。
健一は小屋と湖周辺に絞って探索を続けることにした。
湖の周囲には湿地が広がり、色鮮やかな水鳥が羽を休めている。
湿地の端には、低い茂みに赤い実がついた植物が点在していた。
慎重に近づき、実を観察する。野苺に似た小さな実で、つやつやと光っている。
「食べられるかな」
健一は一つ摘んで匂いを嗅いだ。甘酸っぱい香りがする。毒の可能性を考え、まずは少量だけ口に入れてみた。
酸味と甘みが混ざった味が広がり、すぐに吐き出したが、しばらく様子を見ても異常はなかった。
「これ、食べられそうだ」
いくつか実を摘み、ポケットに詰めた。量は少ないが、ひとまず食料の候補が見つかった。
湖畔をさらに歩くと、小さな動物の足跡を見つけた。ウサギか何かだろうか。草の間を走る小さな影を見た気もするが、捕まえる術はない。
鳥のさえずりが聞こえ、遠くでシカのような動物が草を食む姿も見えた。
「生き物はいる。罠でも作れれば」
だが、罠の作り方もわからない。学生時代のキャンプ知識は火起こし程度で、狩猟の経験はない。釣りを道具を借りて何回か程度だ。ひとまず、湖の魚と実が頼りになりそうだ。
小屋に戻った健一は、重い息を吐きながら床に腰を下ろした。
魚を捕まえても火が使えなければ食べられない。夜に暖をとったり明かりにする為にも火は欲しい。
だが、彼の手元にあるのは、錆びた鉄のカケラだけ。その金属片を見つめながら、健一はぼんやりと学生時代に見たサバイバル番組を思い出していた。
「確か、木を削って細かくして、それで、火花を」
覚束ない記憶を頼りに、彼は暖炉に残っていた薪の端を使って木屑を作る。
小屋の周辺から枯れ草や小枝を拾い集め、木屑と一緒に暖炉の中央に集めた。
鉄のカケラを使って、拾った石の角に何度もこすりつけて火花を出そうとする。
十数回、いや数十回目の擦り合わせで、小さな火花がひとつ弾けた。
息をのむ健一。続けざまに何度も擦る。ひたすら繰り返し、ようやく乾いた草の先が赤く染まった。
「ついた!」
かすれた声を漏らしながら、そっと息を吹きかける。急ぎすぎて風を起こせばすぐに消える。慎重に、少しずつ。
やがて、草がパチパチと音を立てて燃え上がった。木屑に火が移り、弱々しい炎が暖炉の中に揺らぎ始める。
小さく、でも確かな炎を見つめながら、健一は拳を握りしめた。
自分の手で、火を灯したのは初めてだった。火の暖かさが小屋に広がり、ほっと一息つけた。
だが、薪の量は限られている。湖周辺に落ちている枝を集めれば補充できそうだが、節約が必要だ。
外は夕暮れが近づき、草原の向こうに沈む太陽が空をオレンジとピンクに染めている。湖には星が映り始め、静かな美しさが広がっていた。
健一は毛布にくるまり、床に座った。今日の探索で、湖に魚、湿地に実、動物の気配があることがわかった。火も起こせた。
だが、帰る方法はまだわからない。この高原に他の人間はいないのか?
なぜここに飛ばされたのか?
頭の中は疑問でいっぱいだ。
ポケットからスマホを取り出し、電源を入れる。圏外の表示は変わらない。バッテリーは68%。節約のため、日記を取る以外は使わないと決めていた。
日記アプリを開き、今日の出来事を記録する。保存が一度だけの可能性を考え、一度で書き残す事を考える。
『湖に魚。周辺には木の実と動物も確認。鳥も沢山。なんとか火は起こせた。明日はもっと食料を探す。小屋に水、木の実で当面は生きられるかも。食料はもっと欲しい。人の形跡は無し。現在地不明。帰る方法はわからない』
文字を打ち終わり、保存ボタンを押すと「保存しました」と出る。ボタンはグレーアウト。
昨日と同じだ。一日一回なのか、それとも別の制限があるのか。明日また試してみよう。スマホをオフにし、ポケットに戻した。
湖に映る星空を見ながら、健一は考える。魚をどうやって捕まえるか。実をどれだけ集められるか。
森は遠いが、湖周辺でもっと食料が見つかるかもしれない。
暖炉の火が小さく揺れ、初めて感じる安心感の中で、健一は目を閉じた。まだ答えのないこの場所で、生き延びるための小さな一歩を踏み出したのだ。
最後まで読んでくれて感謝します!