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第1話

 健一は高台の端に立ち、足元から広がる景色を見下ろしていた。

 眼下には緑の森がうねるように広がり、その先には、どこまでも続く大草原が陽の光を浴びて輝いていた。地平線はかすんで揺れ、果てがどこにあるのか、まるで想像もつかない。

 風が頬をかすめ、草の匂いを運んでくる。男は思わず息をのんだ。こんなに広い世界を、自分はまだ一度も見たことがない、そう胸の奥でつぶやきながら、ただ立ち尽くしていた。



 7月16日、50歳の誕生日。佐藤健一は、東京の狭いアパートで朝を迎えた。

 課長として会社ではそれなりの地位を築き、部下にも慕われていたが、プライベートは質素だった。妻とは数年前に離婚し、子供はいない。

 今日は友人と軽く飲みに行く約束をしていたが、特別な予定はそれだけ。

 残念ながら月曜日なので軽くの飲むだけの約束だった。

 キッチンでコーヒーを淹れながら、窓の外の曇った空を眺めた。


「50歳か。さて、これからどうするかな」


 そう呟き、カップを手に持つ。すると、突然視界が歪んだ。

 頭がクラクラし、世界が溶けるような感覚に襲われた。カップが床に落ちる音を聞く間もなく、意識が遠のいた。


 目を開けると、目の前には見知らぬ風景が広がっていた。

 仰向けに倒れていた状態から上半身を起こし、周囲を見回す。

 柔らかな草が視界に広がり、風がそよぐたびに花の甘い香りが漂う。

 健一は立ち上がり、辺りを見回した。そこは草原だった。緑の絨毯のような平坦な地形が広がり、風がそっと吹き抜けるたびに、草の穂が波のように揺れ動いた。

 視線の先、少し離れた場所から大地が急激に落ち込み、険しい崖となって麓まで続いている。眼下に見える広大な景色に圧倒され、しばし茫然とする。

 なんとか気を取り直し、此処が何処なのか調べるつもりで周囲を確認する。

 後ろを振り返ると、遠くに湖があった。湖面が空の色を映してきらめいている。さらにその向こうには、白い雪を頂いた巨大な山脈が、空を切り裂くようにそびえ立っていた。    

 健一は自然の壮大さに圧倒されながら、その景色にしばらく見とれていた。

 この場所は高原にあたる地形のようだ。とんでもなく眺めの良い場所だった。


「ここは、どこだ?」


 健一は呆然と呟いた。ついさっきまで東京の自宅にいたはずだ。

 なのに、目の前には絵画のような風景が広がっている。

 胸が締め付けられるような不安が押し寄せた。

 ポケットに手を入れると、スマホがあった。取り出し、電源を入れる。画面が点灯し、ホーム画面が表示されるが、電波を示すアイコンには「圏外」の文字。


「まさか」


 カメラを起動し、目の前の湖と草原を撮影した。画面には、確かにこの風景が映っている。夢ではない。現実だ。 

 バッテリーはまだ70%。いつまで持つかわからない。スマホの使用は最小限に抑えようと決め、ひとまずポケットに戻した。

 今の格好は愛用のスウェットで、手にスマホ。ポケットに財布とハンカチ。他に荷物は無い。

 記憶の最後は自室で、裸足だった筈だけど靴を履いている。


 健一は深呼吸して状況を整理した。まず、周囲を把握する必要がある。

 湖の近くまで歩く。水面が太陽の光を反射してキラキラと輝く。湖畔には白い小石が敷き詰められ、足元で軽い音を立てた。

 遠くで水鳥が羽を休める姿が見えるが、人間の気配はまったくない。

 風がそよぐたびに草原が波のように揺れ、森の葉擦れの音が聞こえてくる。静かだが、生き物の息づかいを感じる風景だ。


「誰かいるかもしれない。動こう」


 健一は湖の周りを歩き始めた。草の感触は柔らかく、まるで絨毯の上を歩いているようだった。

 遠くに人工的なものが見えた。目を凝らすと、湖の近く、小さな林の中に小さな小屋が佇んでいる。

 古びた木造の小屋で、屋根には苔が生え、壁は風雨にさらされて色褪せている。それでも、人が住めそうな雰囲気はある。

 小屋に近づくと、木製の扉が錆びた蝶番で軋む音を立てた。中に入ると、簡素な内装が目に入る。木のテーブル、椅子、暖炉、薪、隅に畳まれた毛布。

 窓は小さく、埃っぽいガラス越しに外の光が差し込む。誰かが住んでいた形跡はあるが、今は誰もいない。


「ここなら、雨風をしのげるか」


 健一は安堵の息をついた。だが、空腹と疲労が押し寄せてくる。ポケットにはスマホ、ハンカチ、財布だけ。食料はない。湖の水は飲めそうだが、火を起こす方法がわからない。暖炉には薪が積まれているが、火の起こし方は学生時代のキャンプ以来だ。試しに薪を触ってみるが、火起こしの道具も無しに出来るとは思えない。


 外はすっかり暗くなり、窓から見える湖には満天の星が映っている。まるで宇宙に浮かんでいるような光景に、健一は一瞬現実を忘れた。

 毛布にくるまり、床に座り込む。この不可解な一日を記録しておこうと、ポケットからスマホを取り出し、電源を入れた。やはり圏外。夢ではない。現実だ。バッテリーはまだ70%。いつまで持つかわからないが、記録だけでも残そうと、メモアプリを開こうとした。

 ふと見慣れないアイコンに気がつく。本のアイコンの下には日記と表示されている。こんなアプリを入れた記憶は無い。

 アプリを起動してみると、空っぽの記事一覧画面と入力欄が表示された。

 シンプルなレイアウトで直感的に操作出来そうだ。

 試しにテストと文字を入力すると、普通に表示される。右上に3/200の表示と保存ボタンがある。


「もしかして200文字以内って事か?少なく無いか?」


 そう思う健一だが、とりあえず文面を考えていく。


『7月16日、50歳の誕生日。突然、知らない場所に居る。気がついたら草原と湖、山脈に囲まれた高原。何故?戻れるのか?古い小屋を見つけた。今日はここで夜を過ごす。ここはどこだ? 日本にはとても見えない。外国か、まさか異世界?誰もいない。どうすればいい?』


 とりあえず保存しようとボタンを押すと吹き出しがでて保存しましたと出た。

 そしてボタンがグレーアウトになった。もう一度押すと、吹き出しが出て保存できません。と出る。

 一日一回なのか、週一回なのか。時間制なのか。それとも二度と保存できないのか。現時点では判断できない。

 最初から入っているメモアプリに書き直そうかと思ったが、このまま様子を見てみようと思った。

 明日になれば使えるかもしれないが、バッテリーの残量を考えると、スマホの使用は最小限に抑えなければならない。

 健一はスマホをオフにし、ポケットに戻した。


 毛布にくるまりながら、健一は考える。


「ここは何処なんだ?明日からどうしたらいい?」


 ひとまず生き延びる方法を見つけなければならない。そして帰る方法を探すのだ。

 明日、湖の水を試し、森や草原に食料になりそうなものがないか探してみよう。窓から見える星空を見ながら、健一は目を閉じた。

誕生日のはずだったこの日は、人生で最も不可解な一日になってしまった。

最後まで読んでくれて感謝します!

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