第八章 不可抗力の抱擁と心臓のエラー
じいちゃんが落ち着いてから、私は何事もなかったかのように「今日は本当にありがとう」と笑い、その部屋を出た。
「わっ!びっくりしたぁ……!」
「待ってろって言ったくせにどんだけ待たせんだよ。ったく、マジでありえねえな。じいちゃんも、あんたも」
「さすがにもう帰ってるかと思ってた」
「送れって言われたから待ってたんだ。仕方なく」
「で、ですよねー。でも部屋ホントにすぐそこだし、全然大丈夫だよ。ありがとね、凪くん」
「ああ。俺も心底大丈夫だと思ってるけど。じいちゃんが言うんだから仕方ないだろ。だから別に、あんたのためじゃない」
物凄く、ぶすっとしている。眉間にも皺が、くっきり。
腕組みをした両腕の、その指先だけ苛立っているようにとんとん、と小刻みにリズムを打っている。
けれど、如何せん顔が良すぎるから、怒っていてもそれについ見惚れてしまう。
その結果やっぱり「おい聞いてんのか」と余計に相手を怒らせてしまった。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「初めて会った時からそんな感じの顔だったけどな。すっげー間抜け面」
「は? さすがに失礼じゃない? まあそうだよね。初めて会った時からずっと失礼だったもんね、君……。
っていうか、さ。あの、さっきの、聞いてた?」
「何が」
「いや、何がって……」
質問に質問で返すのは、やめてほしい。
このアパートは誰が見てもボロくて、ドアを閉めていたって隙間風は吹くし、壁も薄い。
こんなにドアの近くに立っていて、聴こえていないわけがない。
あくまでこれは私の勝手な勘だけれど、ドアに耳をつけて聞くくらいはしている気がする。
じいちゃんが私と何を話すのかどうしても気になっちゃうくらい、凪くんはじいちゃんを心配していて、そして心から大切にしているから。
「まあ……聞こえてないならそれはそれで良いんだけどね? じゃ、じゃあ私、もう自分の部屋に戻るね!」
「喉、渇いた」
「……は?」
「だから。喉、渇いたって言ってんだけど」
「いや、うん。それはもちろん、ちゃんと聴こえましたけど?」
まさか、私の部屋に上げろと言っているのだろうか。
いや、でもさすがにそれは! 他意はないことは、もちろん分かってますよ!? 分かってますけども!
私だっていくら推しだからって、顔とか諸々スペックが良すぎるからって、九歳も年下の男の子に手を出すほど飢えていない。いやいや、そんな間違いなんて起こるわけがないのは私が一番分かっていますけどね!?
推しと恋愛なんて、それもたくさんのファンの女の子たちが疑似恋愛をしているような人気アイドルとなんて。
恋愛どころか、私みたいなのが片想いするだけでも立場を弁えていないというか、とんでもなく烏滸がましい話。
【推しはあくまで推しだから良いもの】憧れで、簡単に触れられないから良いものであって。
それが実際に手が届いてしまうというのは絶対にダメだ。推しという概念が、素晴らしき文化が一瞬にして崩れ去る。
「あ、あの、それはやっぱりいちファンとして、さすがにダメだと思う……っ。も、もちろん、夢みたいな話で! できることならぜひってお招きしたいんだけど! でっ、でもやっぱり、どんなに素のあなたが意地悪で腹黒で初対面の印象サイアクでも、ほら! 私にとってはやっぱり【Shangri-Laの三上 凪】は推しなわけで! その、だからやっぱり推しとファンは一定の距離感でっ、私の手の届かないところで幸せになってもらいたくて、私は幸せのお裾分けをちょこっと、ほんのちょこっと頂けたら充分っていうか……って、あ、あれ!? ちょ、凪くん!」
言葉を選びつつ、丁重にお断りしたつもりだったが、ふと我に返ると、さっきまで目の前にいたはずの凪くんがいない。
キョロキョロと慌てて辺りを見回すと、彼はすでに歩き出していて、どこかに向かっていた。
「どうでもいいけどさー! さっきから何を一人でベラベラ喋ってんだ? 喉渇いたっつってんじゃん。さっさとついてこい。ったく……歳取るとマジで話って長くなるんだな」
「は!? ちょ、待って! 私を部屋まで送ってくれるって話だったよね!?」
走って相変わらず失礼な事ばかり言う背中を追いかける。
呆れている凪くんの前に立ちはだかって、彼の歩みを制した。
「待ってってば! ねえ!」
「さっき、あんた、自分で帰れるって言ったじゃん」
「え、ええ。帰れますよ!? すぐそこだし!?」
「二階だもんな、歩いて十秒もかかんないよな?」
「そ、そうですが!? だから? で? どこに行くの?」
「はー、ホントさあ……。毎度毎度キンキンうるっせえな、あんた。ま、いいや。とりあえず、ジュース奢って」
「はあ!? ジュースくらい、アイドル様なら自分のお金で買えるでしょ! 何で私が!? っていうか、推しだからって何でもワガママが通ると思うのやめてくれる!?」
「はっ、アラサー女の逆ギレ、こっわ~」
「ぐうう~~! その口縫うぞ、黙れクソガキ……!」
――何が憧れだ。何が推しだ。
目の前にいるのは、やっぱり変わらず憎たらしい、たたのガキじゃないか。
私はまともに取り合おうとしたさっきまでの自分を悔いた。
アホらしい。何を考えているんだ私は。年上の女性に対して、こんなに失礼な相手に。
「いい!? 缶ジュース一本だからね! 一番安いの!」
「ケチケチすんなよな、社会人のお姉さんが」
「なーにがお姉さんですか。散々、人のことオバサンって言っておいて……。今さら甘えようたって、絶対騙されませんからね! 特にその顔には!」
私は、彼を置いて歩く速度を上げていく。
追いつかれないように前を歩きながら、一度だけ振り返って、彼に向ってビシッと指をさす。
宣戦布告をしてやった。
「心外だなあ。僕、好きな子には意地悪言っちゃうタイプだって知りませんでした? それに僕は、女性は優劣をつけることなく、皆美しく、可愛らしいと思ってるんです。もちろん、あなたのことも。信じてください、希美さん」
さっきまで距離があったはずなのに、彼が軽く走っただけであっという間に追いつかれる。
今度は、凪くんが私の進路を阻止するように、長身のすらっとしたその体が私の前に立ちはだかる。
身を屈めた彼の顔が、これ以上ないほどに私の顔に近づいた。聴き慣れた愛する推し様の紳士的で甘い声が囁いて私の名前を呼ぶから、作為的だと分かっていても赤面してしまう。
「わーわー! 何も聴こえない!何も見えない! やめろやめろぉー! ここぞとばかりに仕事の顔で話さないでよ! それは反則でしょ!?」
「残念だったな。俺が俺である限り、あんたは一生俺に勝てないんだよ」
『俺が俺である限り』とは、なんと凄まじいパワーワード。
でも実際その通りだから何の反撃もできず、私は敗北を認めざるを得ない。
「うっ……そんなことないって否定したいのにぃ……っ! 本当のことだから言い返せないの余計に腹立つ……」
「ハッ、ご愁傷様でーす」
「くー……! ほんっと、腹立つ! あのね、ジュース奢れって言うけど、この辺に自販機なんて公園まで行かないとないんだからね!?」
また相手を追い越しては振り返り、また追い越され。
そんなことを繰り返しながら、私はふと、まるで青春映画みたいだ――なんて。
他人が聞いたらイタイ女だと思われそうなことを思っていた。腹が立つのに、こんな風に子供の喧嘩のやりとりが楽しいだなんて。
社会人になって、こういう恥ずかしさと一緒に存在するときめきのようなものは二度と味わえないと思っていた。
たぶん、自分が思っている以上に浮かれていたんだと思う。
「あっおい、後ろ。後ろあぶねえって」
「へ?……わっ!」
チリン、チリン、と鈴を鳴らされて、前を向き直った瞬間、すごい速さで自転車が通り過ぎていった。
すれ違いざまに舌打ちをされたが、そんなことよりも私が慌てて避けたため、よろめいて転びそうになってしまった。
「ったく、っぶねぇな……! だから危ないっつっただろ。あんたがうっかりしてるタイプなのは分かるけどマジで気をつけろよ。怪我するだろ」
「……あ、ごめ……すみません……」
倒れる寸前で、彼がすかさず腕を引き、かたむく身体を起こしてくれた。
不可抗力だけれど、引き寄せられた私は凪くんの胸の中にいるような体勢になってしまう。
彼のパーカー、着ている衣服から自分とは違う匂いがした。
香水。男物だろう、レモンとか、そういう甘くなくて爽やかな感じの香り。
――ああ、これが、彼の匂いなんだなあ。
いや、背中に腕が回されているわけではないので、許してほしい。
断じて抱擁とか、ドラマや漫画でよくある甘いハプニングではないから。
誰に言い訳をしているつもりか、私はハッと正気を取り戻す。
けれど顔を上げると至近距離に彼の顔があって、動けなくなった。
彼の瞳の中に自分が映っている。ただそれだけ。それだけなのに心臓が勝手にまた誤作動を起こす。
人間は疲れだけでなく、予想外のハプニングでも簡単にバグ――エラーを起こすから、とても厄介だ。こうなってしまうと旧型のパソコンよりポンコツである。
「ご、ごめ……ほんとごめん。もう大丈夫、なので……ごめんなさい」
「俺に文句言うよりまず、自分の事ちゃんとしたら?」
「仰る通りです……本当すみません」
首を竦めて私は謝る。恥ずかしすぎる。
何度目かの謝罪を告げると「いや、さすがに謝りすぎだわ。あんたのそういうとこイメージのままだし、別に気にしてねーよ」と彼は小さく笑った。
「イメージのまま? 今のが? どういう意味?」
「危なっかしいっつーか……いや違うな。『どんくせえな』って」
「ねえ……もうちょっと言い方あるじゃん?」
「ないね。事実だし」
「っぐぅ……! ほんとに可愛くない!オブラートに包んでよ!」
心臓の音がバレないか気になってそわそわしてしまっていたから、彼がいつもの空気に変えてくれて助かった。
でもきっと、私の胸に起こったこのバグは、エラー信号は、しばらく消えてくれない。
そんな気がした。