第四章 ぶっきらぼうなお誘い電話
「おはようございます~」
「あ、どうもおはようございます」
アパートの他の住人と顔を合わせる時間で一番多いのが朝の出勤前である。
特にゴミ出しがある日は、結構な確率でこんな風に他の住人たちと顔を合わせる。
そういう時に『次の飲み会はいつにしましょう?』と今後の楽しいお酒の予定の相談をしたり。
このアパートに住むようになって、そんな新しい繋がりもたくさん得られた。
「た、高梨さん。おはようございます」
「あっ、細川くん! おはようございます。今朝は早いね。一限から授業?」
「ええ。今日は久し振りに一限から講義で。もう三年なので大学より企業説明会に行くほうが多いんですけどね」
少し困ったように笑う、縁なしで細めの眼鏡を掛けた彼は201号室の細川大樹くん。
私の部屋二つ左隣の部屋。それが彼の住まい。
「もう三年なんだね。今の学生さんは私たちの頃より就職活動始めるのがどんどん早くなってる気がする。準備万端って感じですごいね」
「そうですかね?」
私は彼が入居した当時――細川くんが大学一年の時から知っている。
彼もまた、大学への進学を機に上京してきた組だ。確か地元は京都と言っていた気がする。
それにしては、今はもう完全に綺麗な標準語。都会へ馴染むスピードが速いのもさすが現代っ子である。
「やっぱり高梨さんも大変でしたか。就職活動」
「そりゃあもう! 大変だったよ、すごく。私は細川くんと違ってダメ学生なので面接落ちまくりだったし」
「そんな……。でも僕、自分の大学の先輩に高梨さんがいるの嬉しいんです。色々聞けるから。当時のこと」
「うーん。それ、ジェネレーションギャップ感じて私のほうは切なくなっちゃうかも」
私は彼の大学のOGでもあるので、細川くんはいつも気を遣って嬉しいと言ってくれる。
それが逆に、今みたいに申し訳なく思うこともあったり。そんな風に他愛ない会話をしながら、集合ごみ捨て場へ持って行く。
「そういえば最近、あんまり飲み会ありませんね」
「あー、そうだね……。でも仕方ないんじゃないかなぁ。お子さんがいるご家庭はなかなか夜遅くまで飲んで喋っては段々難しくなるし。私も残業ばかりだから開催されても参加できないかもしれないし」
「お仕事、そんなに大変なんですか」
「うーん、まあ。パソコンサポートの仕事だから、割と年中無休なんだよね。最近は事務作業というかもうこれ雑用では? みたいなのも増えてて、新人教育用のマニュアル作りとかね。ぶっちゃけマジで猫の手も借りたいよ……」
「へえ、お疲れなんですね……」
「でも平気。前より元気なんだ。趣味があるってやっぱり良いよね!」
「趣味ですか? あ、今季のクール、何か良いアニメありました?」
「最近の楽しみはね~ちょっと違うんだ~。アニメももちろん毎週録画してるけどね。でも、違う方面にも興味が出ちゃって」
「違う方面?」
細川くんが首を傾げる。
彼とは好きなアニメ話で気が合って、アパートの住人たちとの飲み会でもすぐ仲良くなった。
細川くんがオススメしてくれる作品はどれもハズレがなくて、知らない作品を教えてもらってハマることもしょっちゅうだった。
今まで私からアイドルの話なんて一度もしたことがない。
きっと、びっくりするだろうな。
「うん。実は人生で初めて、推しアイドルができまして……」
「えっ! アイドル、ですか?」
「細川くんはいない? ほら、今だったら何だっけ、イブ、イブ……あーダメだ、若い子たちに人気あるグループってたくさんあるから名前が出てこない。ほら、あのオーディション番組から生まれた!」
「ああ、イブニングっ娘ですか」
「そそ、それ!」
「人気あるので名前は知ってますけど、僕は興味ないかな……」
「そっか。私も今まではアイドルってまったく興味なかったから。自分でもびっくり。三次元の推しはかろうじて作家くらいだったから」
「ちなみに希美さ……高梨さんの推しアイドルって誰ですか」
「うんとね、Shangri-Laって知ってる?」
「ああ。テレビで見たことがあります。男性二人組アイドルですよね?」
「そう。気付いたらハマってて。もう、とんでもない沼だった……」
「そうなんですか」
細川くんの顔は表情筋が固まってるような、引きつっているようにも見えた。
これは絶対、イタいおばさんと思われている。私は察した。
居た堪れなくなって、腕時計を確認する。そして大袈裟に声を上げた。
「あ、やばっ! もう行かなきゃ! ごめんね細川くん。話長くなっちゃって!」
「いえ。僕のほうこそすみません、朝のお忙しい時に」
「今度また飲み会できるといいね! じいちゃんにも聞いてみる! じゃあまた!」
「あの、高梨さん!」
「ん?」
走り出そうとした私を細川くんが呼び止めた。私はもう一度、彼のほうを振り返る。
「あの……この間、高梨さんのお部屋に誰か……」
「え? ごめん細川くん、聞こえなかった」
「……いえ! 今度、みんなとの飲み会がなくても飲みに行きませんか? でもやっぱり、二人だけだとやっぱりマズいかな。高梨さんが嫌じゃなければ」
「嫌なわけないよ。もちろん! ぜひ飲も!」
「良かった……。じゃあまた! お仕事頑張ってください」
「ありがと! 細川くんも!」
笑顔で手を振ってくれる可愛い後輩の細川くんに、私は手を振り返して、今度こそ少し速足で駅へと向かった。
私はあのとき細川くんの発した言葉の真意に、まだ何も気付いていなかった。
***
『あんたらの言ってること、ちっとも分かんねーよ! とにかく家まで来いって言ってんだ!』
大声に、耳がキーンとする。
「ですから、もちろん訪問につきましては可能でございます。ただ、出張費がかかりますがよろしいですか?」
『良いわけねーだろ! 俺の家のパソコンの設定したのはあんた達だ! その時に壊れたんだろうが! だったら責任持って無償で直しにくるのがスジだと思うがね!』
「そうですか……恐れ入りますが少々お待ちくださいませ。担当者に聞いてみますので……」
『早くしてくれよ!』
電話の向こうの相手は相当怒っていた。
私達の仕事の客層はほとんどがお年寄りである。それゆえ、昔ながらの偏屈な雷親父みたいなタイプの高齢の方に当たるとこんな風にクレームが来ることも少なくない。
特に今相手をしているこのお客は今年に入ってもう苦情が三度、いや四度目だったか。部署内では有名なクレーマーだ。
「主任、また近藤様なのですが、どうしましょう……?」
「どうするって、あのじいさんに難癖つけられてもう二度も無償で訪問してんだぞこっちは。もう取り合うな。適当にあしらって断っとけ」
「え、いやでも……」
「俺はこれから出張班との打ち合わせで忙しいんだ。悪いな」
「……はい」
上司はこうやって面倒ごとは関わろうとせず、基本、部下に丸投げ。
このカスタマーサービスの部署は先月と今月で二人辞めていった。
せっかく新人教育を時間をかけても、すぐに辞めていってしまうので虚しくなる。
人材の出入りが激しい職場は気を付けろとよく聞くが、まったくもって、その通り。
私の会社は正しくブラック。まごうことなき、真っ黒だ。
「はあ」
私は自席に戻って、溜め息を一つ吐いてから顔を引き締める。このぶんだと今日もきっと長期戦になる。
覚悟を決めて、もう一度、ヘッドセットを頭に着けた。
私は、静かに息を吸う。落ち着いて、穏やかな声で。
……いざ!
「お客様。大変お待たせいたしました」
『まったくだ、いつまで待たせるんだよあんたらは! 俺が年寄りだと思って馬鹿にしているんだろう!』
「いえ、滅相もございません。ただ、担当者ともこちらで交渉いたしましたがやはり出張費は頂くことになります」
『あんたらのミスなのにか?』
「実際に近藤様のご自宅に後日伺って、パソコンを見てみないことには何が原因でトラブルが起こっているか分かりませんので、現時点では弊社のせいとも言いきれないところがございます」
『何!? 俺のせいだって言いてえのか!』
「いえ。ですから伺ってみないことにはまだ何とも……」
『……もういい!』
吐き捨てるような台詞の後、プツリ。一方的に切られた通話。
一気に疲労感に襲われて、やれやれとついまた、大きな溜め息が零れてしまう。
近藤さん――このおじいちゃんは独り暮らしだって同僚から聞いてたけど、確か昔は有名企業の社長だったんだっけ。だから、いつでも上から目線。
働くことこそが美徳、部下は叱って教育してなんぼ。昔はそうだった。
今の社会はきっと彼にとって、さぞ生きにくい時代だろうなと余計な心配までしてしまう。
「本当は……寂しいんだろうな」
人に煙たがられることが多くなって、でも自分のやり方は変えられなくて結局独りになって。
だけどそれでも、誰でも良いから他者と話したくて、繋がりたくて。
クレーマーというその方法には問題があるけれど、繋がる手段を何とか得ようとしているその姿勢は、尊敬する。
どんなに鬱陶しいと思われようが、彼は彼なりにけっして諦めずにこの世界で生きようとしている。
それは、とても偉いし、素直にすごいと思う。
他人の事を自分の事のように気遣える大家さんの姿がふと、頭に浮かんだ。
優しいじいちゃんとは正反対。でも、こういうタイプのお年寄りも社会には絶対に必要だ。
声を上げなければ、そうしなければ自分の暮らしやすい社会は、どんな人にも優しい生活は、いつになっても出来上がらないのだから。
そう思いながら、私はコーヒーを飲み干した。
それから新しく熱いもう一杯を淹れ直すために、給湯室に向かう。
オフィスの時計の針は、二十時をもうとっくに過ぎていた。
「あれ、着信……?」
眠気覚ましの新しいコーヒーが入ったカップを手に、自席に着席する。
デスクの引き出しに入れてあったスマホを、休憩がてら確認しようと開けば、一件の不在着信の通知が。
ロック画面に表示されている名前は【三上のじいちゃん】。
私は指でパスコードを入力し、ロックを解除した。
改めて確認してみる。やっぱり電話をくれたのは、じいちゃんだった。
履歴で時刻を見れば、着信があったのは、ほんのついさっき私が給湯室に行っていた五分ほどの間のこと。
私は一度オフィスを出て、廊下でその電話に折り返すことにした。
「もしもし。じいちゃん? 今、電話くれた? 何かあった?」
『あんた、こんな時間まで仕事してんのか。まだ会社? それとも帰りの電車?』
「え? えっと……じいちゃんの電話だよね?」
『そう。で、どっち? もう帰れんの? まだ無理なの?』
電話の向こうの声は、私のよく知った男のものだった。
いや、仕事をしている時の――テレビに出ている時の彼はこんなにつっけんどんな話し方ではない。
どんな女の子もときめく、完璧な王子様。
そんな彼の本当の姿を知ったらファンは卒倒するだろう。現に私がそうだった。
二面性なんてそんな可愛いレベルではない。まるで別人だ。
仕事で完璧に王子様を演じきっているその様子は、アイドルよりも役者のほうが向いているのではと思ってしまう。
『おい、聞いてんのか』
「あ、すみません。はい、聞いてます。聞いてますよ一応。っていうか、あの、何ですか……? わざわざじいちゃんの携帯まで借りて。何の用ですか……? 私、まだ仕事で忙しいんですけど」
『……フツー、推しのアイドルから電話かかってきたら喜ぶもんなんじゃないの? あんた、本当に俺のファンかよ』
「私はあくまでShangri-Laの凪くんが好きなのであって、クソ生意気なお子様には興味ないので」
『誰がお子様だって?』
「あのねえ。私、本当に仕事してるの。アイドルさんの忙しさに比べたらそりゃ暇に見えるかもしれませんけど。用がないなら、切りますよ」
『俺だって好きでかけたわけじゃねー。ただ、じいちゃんが家で鍋すっから……あんたにも食べさせたいってうるせぇから。まあ、あんたが来ねえなら良かったわ。俺が好きなだけ食えるし。じゃあな』
「あ、ちょ、ちょっと待って!」
打って変わってあっさり通話を終えようとする彼を、私は慌てて呼び止める。
『なんだよ。暇じゃねーんだろ。あんた』
「忙しいよ! ……忙しいけど、あと三十分! いや、一時間だけ待って! 絶対帰るから! じいちゃんに伝えて! ご飯、ご馳走になるって!」
『……あっそ』
「ねえ、ちゃんと伝えてね?」
『さあ、どうだろーな。こんな遅くに鍋なんか食ったら確実に太ると思うけど。あんた、お子様の俺と違ってオバサンだし』
仕返しのように返ってくる言葉に、私はぐぬぬ、と奥歯を噛む。
だが、言う通りでもあって、すぐには抗議できなかった。
三十代。若い頃と違って基礎代謝量がどんどんと低下しているので、気を抜くとすぐ太る。
仕事で帰りが遅いと、夜ごはんの時間は絶対に遅くなるから、体重は増加の道、まっしぐら。
完全に痛いところを突かれた。
自分が若くてスタイルも良いからって、私の神経を絶妙に逆撫でしてくる。本当に腹が立つことこの上ない。
でも、じいちゃんの孫だと思うとつい、言われっぱなしになってしまう。
――いや、本音を言えば、理由はそれだけではないのだけれど。
「いいの! じいちゃんがせっかく誘ってくれたんだもん! 気を付けて食べるから全然、もう全然平気だし!」
『ま、もし困ったら俺の通ってるジム、紹介してやってもいいよ』
「結構です! わざわざお気遣いどーも!」
『いえいえ? いつもじいちゃんが世話になってるからな』
じゃ、さっさと来いよ。
今度こそ通話は切られた。
テレビで聞くよりずっと低く、あまり感情が読み取れない、そっけない声。
けれど意地を張る私を面白がっている声は、笑いを含んでいるせいか、どこかあたたかくも感じて。
私の勝手な勘違いだろうけれど、それでも嬉しいと感じてしまっている自分がいた。
これが、相手が推しゆえの、弱みだ。
恋愛とはまた違うけれど、これも惚れた弱みってやつなのかもしれない。
多くの人間が、Shangri-Laのアイドルとしての三上凪しか知らない。
けれど私は、少なくとも知り合ってからは、ただの青年の三上凪をこうして知ることができた。
子供から大人になりきれていないような幼さがあって、意地悪で、とにかく生意気。
けれど実はきっと、とてもじいちゃん思いの優しいお孫さんで。
そしてその眼差しは時折、とても寂しそうで大人びて見える、そんな彼を知れたから。
アイドルは色んな覚悟を持って、本来の自分を隠すための着ぐるみ――輝くアイドルの重い皮を着こむのだろう。背中のファスナーをけっして開けることなく、テーマパークで子供達に風船を配る可愛いキャラクター達と同じように。
ファンに夢を見せ続けてくれる。まだ二十歳そこそこの男の子たちが、だ。
それはとてつもない努力をしなければできないし、仕事に対していかに誠実に彼らが取り組んでいるかが、彼らが見せてくれる幸せな夢から、ちゃんと分かる。
改めてアイドルという存在に感謝と尊敬の念を抱き、そしてほんの少し、切なくもなった。
彼らは、彼は、今のように人気者になるまでに一体どれほどのものに耐え、諦め、そして捨ててきたのだろう――…。
彼らは私達にこれ以上ないほどの幸せを与えてくれるけれど、アイドルが己を偽らずにいられる場所、ただの男の子として、一緒にいて幸せになれる相手は、ちゃんと居るのだろうか。
ファンとしての推し活の神髄とは、推しの幸せをただ願うこと。
すべてのファンがそう思えるかは私には分からない。だけど、私はかくありたいと思う。
大家さんのじいちゃんのお陰でShangri-Laに出会った。そして、じいちゃんのお陰でお孫さんである本当の彼――私達と何も変わらないただの一人の人間の三上凪が存在していることを知った。そんな当たり前のことをちゃんと知ることができたから。
だから私は、彼の幸せを願えるファンでありたい。そう思っている。
「……やば、急がなきゃ。あと少しだ。うん、頑張ろ。なんたって、今夜は鍋だ~!!」
ハッと我に返って、私はうーんと伸びをした。
首を左右に傾け、もう一度ぐっと伸びる。パキポキと背骨が鳴った。
気合いを入れるため、よしっ、一言だけ零してオフィスへと戻った。