第二章 消えない記憶
私は、つくづく男を見る目がない。
初めて異性と付き合ったのは大学一年。初カレ年齢としてはかなり遅いほうだったと思う。
単純に恋愛というものに興味がなかった。漫画や小説、そういったものに夢中な私にとって、それは無縁だったのだ。でも他人に興味がないということではない。人並みに初恋だってあった。
ただ、いつも、最初から『自分なんて』と諦めていた。
『え、希美ちゃんって今まで彼氏いたことないの?』
マジで? 信じられないと言うように目を丸くした先輩。
その表情のほうが、私には驚きだった。
大学の入学初日に新入生募集の呼び込みをしていたサークルに捕まった。
≪チャレンジサークル≫という謎のサークル。
活動内容はとにかく、挑戦したいものにどんなものでもチャレンジしてみるという、ふわっとしたもの。怪しさ満点だったのに誘われるまま入ってしまったのは、チャレンジというテイがあるので、サークルと称して【趣味を楽しむだけでも可】という裏の謳い文句があったこと。
あとは……勧誘してきた先輩が、高校時代の初恋のクラスメイトに少し雰囲気が似ていたから。
『マジです……すみません。根暗なので、そういうことにまったく縁がなくて。だから、今すごく不思議な感じです』
『びっくりだな、希美ちゃんみたいな可愛い子は絶対に彼氏持ちだと思ってた』
『そ、そんな!私なんて……』
『ん? 何て?』
『ぃ、いえ!』
カラオケの音量が大きすぎて、私の声が聴きとりにくかったのかもしれない。
私の隣でドリンクバー一杯目のお酒を飲んでいた彼はグラスを口に運びながら、私のほうに身を寄せる。
耳元で響く声。何でもないことのはずなのに、ドキドキした。
『でも……今も彼氏持ちじゃないって知れたのは、俺としてはラッキーかも』
『え?』
あ、これやばいやつだ。
分かっていたのに、私だけに向けられる視線と微笑み、そして、その声にうっかり酔った。
恋というものの魔力に、幼い私は酔ってしまった。
先輩は何もかもが初めての私にとても紳士的で優しかった。
デートの時も、初めてのキスも。私は夢見心地だった。
でも、所詮、夢は夢。それはあっという間に醒めた。
先輩が優しかったのは最初の三か月だけ。
キスより先の、大人の恋人同士がごく普通にすること。
それが経験のない私には、うまく対応できなかった。
少し待ってほしいと拒んだことをきっかけに、先輩の態度は急変し、デートの時も苛立つことが増えていった。申し訳ない気持ちがあった私は、好きな人に少しでも喜んでもらいたくて、先輩の家に掃除や洗濯、ご飯を作りに行ったりして、自分のできることでどうにか挽回しようとした。
『いつもありがとな、希美。ホント助かってる。希美はこうやって俺の世話してくれてるのに、デートもなかなかできなくてごめんな』
『ううん、そんな全然。先輩、最近はゼミで忙しいでしょう。私のことは気にしないで。それに、これは私がしたくてやってることなので』
『本当にありがと。好きだよ』
『うん。私も』
ちゅっ、と触れた唇が、偽りの愛情であることに、私は気付かなかった。
子供みたいなそれは、私を安心させるための先輩の優しさなのだ。そう、信じていた。
『先輩、今日は早く帰れたんですね、今ご飯つく……っ!?……え?』
『あ。ねえ、どうすんの。来ちゃったよ、例の子。』
『あー……くそダッルいわ。お前、普通気付くだろ? 忙しいなんて嘘だから。飯とか掃除とかやってくれりゃ、まあ助かるし、お手伝いさんみたいな? そういう奴としてテキトーに使ってやろうかって思った時も確かにあったけどさあ。さすがにもう無理。うぜえ。だから今、この状況も、あえて作ったんだよ。分かりやすいかと思って。』
『悪趣味だよね~サイテー、ふふ』
今でも、仕事で疲れた時には夢に見ることがある。
その日もいつもみたいに彼の部屋に行ったら、先客がいた。
二人は密着して大人のキスを交わしている最中で、フリーズしてしまった。
でも彼が吐いた、鋭く冷たいその言葉で、私はすべてを理解した。
ああ、そうか。こうやっていつも、彼は、私以外の女の人と――……。
不思議なことに、ずっと自分にまとわりついていた焦燥感から解放された心地だった。
傷ついているのに、腑に落ちている自分もいた。本当はどこかで多分きっと、この真実に気付いていた。
彼にとって“お客様”でしかなかったのは、私のほう。
つまるところ、遊びの女にもなれなかったのだ。
彼と、名前も顔も知らない女の人の、くすくすと馬鹿にする笑い声。ぐにゃりと歪んだ顔。
『たまには、お前みたいな女も新鮮でいいかもって手ぇ出してみたけど、慣れないことはするもんじゃないよな。やっぱ、面倒なだけだったわ。お子ちゃまは』
『ちょっと、やめなって。本当の事言ったら可哀想でしょ? 大体、自分から手ぇ出したくせにホントひっどい男』
胸を抉られて、血が噴き出ているのかと思うほど心臓がドクドクと鳴っていた。
耳鳴りがして頭が痛くなってくる。熱い。頭に血がのぼっていた。けれど、体は急速冷凍されたように指先まで冷えていて。
ただ、震えが止まらなかった。
二人の嘲笑を背に、私は逃げ出した。それから先の記憶はあやふや。
でも、あの日の出来事だけは、いつまでも私を蝕んだまま。けっして消えてなくなってはくれない。今もずっと。
そのトラウマのせいで、私は恋をするのが前よりもっと怖くなった。
いつかもし、自分がもう一度誰かを好きになった時、あの日と同じようにその相手にまた、裏切られてしまったら。
若い頃の傷は、まだ耐えられる。でも今の年齢で同じようにそれを負う勇気はもうない。
だから、傷つくことが分かりきっているのならと、もう現実の恋をする気はなかった。
現実ではなく、憧れや応援という意味での恋で良い。自分の目に見えている部分だけを愛する。またの名を、ファンであり、また、推し活。
それはこの世で最も安心安全の、信頼できる、幸せな恋。それが良かった。
なのに、まさか……推しにまで、絶望の底に突き落とされることになるなんて。
『やっぱ、面倒なだけだったわ。お子ちゃまは』
目の前には、先輩の馬鹿にした笑み。ああ、私はまたあの夢を見ているのか。
推しの素顔がよほどショックだったんだな、そう思いながら私は彼を見つめ返す。
『先輩……』
『は? 何だよ、オバサン』
『え、お、ば……さん……?』
おかしい。そう思った次の瞬間、私は何故かライブ会場にいた。
さすが夢だ。瞬間移動という名のシーン切り替えが、早すぎる。
野外ではないので、恐らく会場はドームか武道館かその辺だろう。
ステージに立つ、身長差のある凸凹な男性二人が歌い踊り、ギターをかき鳴らし美しい音楽を響かせている。
『圭ー!』
『凪くーん!』
『Shangri-La、最高~!』
曲が終わり照明が落ちると大きな拍手が鳴って、あちらこちらで彼らの名を呼ぶ黄色い声援が飛んでいた。
ふいにバチッとスポットライトが点く。
それは長身で黒髪の美しい彼に当てられていて、それを導くように、彼はゆっくりと歩き出し、ステージの階段を降りて、アリーナの中に入ってゆく。
ファン達は当然戸惑い、興奮してざわつき始める。
不思議なことに彼に触ろうとする人は一人もおらず、まるでモーゼの十戒の有名なあの【海が二つに割れる】を再現するかのようだ。彼の歩く道に存在したはずの観客たちが一気に離れていく。
左右に分かれ、それぞれ潮が引くかのようにその間に大きな一本道ができる。彼がその道を迷いなく歩いてくる。
妙に違和感を覚えるのは、彼が普段は掛けていない眼鏡をしているからだった。
まっすぐ前を見据え、一歩ずつゆっくりと歩いた先に居るのは――私。
いつの間にか私にも白いライトが当たっていた。
汗が噴き出るほど暑い。うるさい鼓動が叩くように体中で響いている。
ああ、どうしよう。怖い。逃げたい。一刻も早くここから逃げたい。
――……怖い? 逃げる? どうして?
推しが自分の目の前まで歩いてきてくれるなんて普通のオタクなら『前世でどんな徳を積んだんだろう!』と 言って大喜びするものじゃないか。
なのにどうして、私はあんなにも美しいと心から惹かれた彼を、恐れているんだろう。
――……違う、恐れてなんかいない。私は、ただ……。
『ただ……? どうしたんですか? あなたは僕のことが好きなんですよね?』
『好き……というか、はい。応援していました。Shangri-Laの二人を見ていると元気が出たしお仕事も頑張れたんです』
『良かった。僕も嬉しいです。だってあなたは、僕を美しいと思ってくれたから』
『…………』
その言葉通り、綺麗に微笑む彼。
私はそれに確かな悪寒を覚えた。――これは、何?
『こうしてちゃんと、あなたの好きな凪くんでいられているはずなんですが。僕、いつもと違う?』
『え……?』
『浮かない顔をしているから。もしかして僕はあなたを傷つけてしまったんじゃ』
『そ、そうじゃないです! 凪くんは! ……あなたは何も悪くない。うん……悪くないの。悪いのは私――』
『……そうだよな?』
言いかけた私を遮って、急に凪くんは唇を歪める。
低い声が耳に響いて、ずきんと胸が痛んだ。え、と私の唇から消え入りそうな吐息が漏れる。
『勝手に事務所が俺らみたいなアイドルを売り出すために作り上げたイメージを信じて、勝手に信じたくせして本当の姿を目にして裏切られたと思うんだ。酷いよな。あんたは俺達の、俺の本当の姿をちゃんと見ようともしないくせに』
『そんな……それはっ』
『アイドルという職業は夢を売るのだから当たり前だって、そう言いたいんだろう? ファンなんて自分のことしか考えてない』
『違う、それは違うよ。そんなことない!』
『何が違うんだよ、あんただって同じだろ。ショックを受けてるからこんな夢を見るんだよ』
耳元で、嘲るような声が落ちる。
馬鹿にされているのにその声はどこか悲しそうで、また胸がじくり、痛みの声を上げた。
彼の言う通りだ。すべて彼の言葉の通りでしかなくて、今の私では彼にかけられる言葉は一つもなかった。
『ごめんなさい、凪くん……』
やっと出てきたのは、何に対して謝ってるのか分からない無責任な謝罪だけだ。
彼は私から少しだけ身体を離して、ふ、と小さく吐息を零した。先刻の声音と同じくらい、悲しい笑みだった。
『もういいよ、じゃあな、オバサン』
ガッカリだと言うような突き放す冷え切った鋭い眼差しに、私は動けなくなった。
どうしたらいか分からないのに、待ってと腕を伸ばす。
けれど、彼の大きな背は遠くへ、ずっと遠くへと離れていってしまう。
最低な人間だと誰かに言われた気がした。
それが彼の声だったのか私のものなのかも分からないまま、私は、もう届かない彼の名を呼び続けた。
――凪くん! 凪くん待って! ねぇ、待って! お願い、待って、凪くん……!
「……――ぎくん!」
自分の声で目が覚めた。枕元の置き時計は、十時を示している。休みだからと寝すぎてしまった。
うっかりしていたら、もうすぐ昼になってしまう。
「さいっあく……」
思わず呟いて、両手で髪を混ぜてかいた。
それは声に出てしまうほど、本当に最悪な目覚めで、これからも私の気が休まることはないのだと宣告されたような、そんな日曜日の始まりだった。