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第二十章 希望

あんなに嫌だった仕事が今は至福の時だった。仕事をしている時だけが自由だ。スマホも

どうしても電源が入れられずそのまま。だから、上司からも同僚からも連絡が取れないと小言を言われた。

苦情対応の常連である近藤さんからの電話に以前よりずっと丁寧に接することができたのは、じいちゃんのお陰だ。

自分からすすんで残業も申し出た。あんなに大好きだったあのアパートに帰りたくなかった。

でも、さすがに連日の泊まりは困ると上司に言われ、仕方なく四日目の夜に帰宅した。労働基準法なんて気にしたところでもう遅いのに、上司は本当に空気が読めない。

「お帰り、希美」

鍵を開けようと鞄を探っていたら、ドアが開いて名を呼ばれた。希美、というその呼び声

にわずかに一瞬、凪くんに抱き締められた日のことを思い出す。

ああ、ダメだ。私はまだ、吹っ切れていない。

あの意地悪だけど優しい彼にはもう会えないのだ。此処に立っているのは勝手に合鍵を作って他人の部屋に入っていた気持ち悪い男だけ。でも、もう怒る気も失せた。盗撮も盗聴もされていたのだから、むしろ鍵を作っていないほうがおかしい。そんな納得をする私も相当イカレてしまったが。


「やっと帰って来てくれた。えらい、えらい」

「……会社に来られるのだけは勘弁だったから。それだけ。会いたくなんてなかった」

「つれないこと言うなよ。あ、そうか。なるほど。照れてるんだ」


部屋に入ると影が落ちた。抱き締められている。

男が片手で鍵を掛けたのが分かった。どうせ、先のストーリーなんて読めている。ストックホルム症候群のような歪んだ愛のカタチを二次元のオタク界隈では好む者も多い。読み物として私とて嫌いではなかった。

けれど、いざ自分が主人公になってみると、いかに狂っているか気付かされた。

「あいつとはここでキスしただろ?なら、俺ともキスしよう。ちゃんと上書きさせて」

耳に落ちる囁きと、背中に触れている掌のぬるい感触。

幸せだった思い出が黒く塗りつぶされていく。

じわり、じわりと墨汁でも落とされたかのように侵蝕していく。その黒に。


私は本当に男運がない。でも、じいちゃんとShangri-Laの二人に、何よりも、彼に出逢えたことは私の人生の宝物だ。


あの日々が誰よりも幸せだったことは他の誰でもなく、私が一番知っているから。

それだけでもう、充分だった。


「おい!居るんだろ希美……! 返事しろ! ここ開けてくれ!」


今度こそちゃんと諦めて、いや納得して、迫ってくる男の唇をぼうっと見つめすべて受け

入れようとしていたその時。ドアに押し付けられていた背中に振動を感じた。

どんどんと強く叩く音。聴こえてきたのは、本当はずっと会いたかった人の声――。


「……いい機会だし、あいつに直接言ったら? 俺と付き合ってて今もここでイチャイチャしてるってさ。教えてあげなよ」

予想もしていなかったことに私は呼吸の仕方を忘れていた。目の前の歪んだ唇が囁いてやっと我に返ることができた。

絶対に嫌だ、と声には出さずにしかし、ふるふるとかぶりを振った。

「凪くん……お願いだからもう帰って」

「帰らねえ。帰るわけねーだろ馬鹿野郎! なあ。お前、何かあったんだろ? 大丈夫だ! マネに聞いて俺はもう全部知ってるんだよ!」

「違う! 違う違う違う! 何も、何もないの! 本当にただ、目が覚めたの! そう言ったでしょ……あなたはアイドルで、私はファン。それ以上でも以下でもないって分かったの。私には生きていく世界の違う人と恋人になるなんて荷が重い。出来ないって気付いた。それだけ。だからもう、放っておいて……」

「希美……俺さ、じいちゃんが言ってくれたから、あんたが、じいちゃんが俺に言いたくて言えずにいた事を俺に伝えてくれたから年が明けてからはずっと俺は、自分を作らずにこのままの、素の自分で仕事してんだ。あんた、見てなかっただろテレビ。推しの応援するのがファンってもんだろ? ファンの皆は最初、かなり戸惑ってたけど、自分が思っていたよりずっと、ありのままの本当の俺を受け入れてもらえた。あんたの言う通りだった。

じいちゃんや、あんたが『そのままの俺が好きだ』って言ってくれたじゃん。あれな、俺、本当に嬉しかったんだ。

……なあ、ちゃんと聴こえてるか?こんなこともう二度と言わねーんだからな、ちゃんと返事、しろよ? 希美」


ドア越しに聴こえるその声に、真っ直ぐな言葉に胸が熱くなる。返事をしたい。

大好きなその名前を呼びたい。助けて、あなたといたい――と。

私は咄嵯に振り返る。短く息を吸った。それを吐き出す前に背後の男が本当にそれでいいのか?と問う。

「本当にいいの? その選択が奴を不幸にしても。あなたは賢い女性だと思っていたけど。恋愛なんて一時の高熱みたいなもの。しかも相手は芸能人だ。彼だけじゃない、あなたも幸せになんかなれないよ。何より、あなたの大好きな推しさん達――Shangri-Laは、大勢のファンが離れてしまうだろうね」


言葉になりかけていたものが口の中でまだ形を崩し、散り散りになるのが分かった。

……そうだ。何よりも優先すべきは、私じゃない。


「……帰って、凪くん……私はもう、ちゃんと付き合ってる人が……いるの……」

「――ああ。希美さんは俺の思った通り、頭の良い、優しすぎるくらい優しい女だね。大家のお人好しのじいさんにそっくりだ。やっぱり気が合う者同士っていうのは似るんだな。でも……大丈夫だよ。辛いのは今だけだ。奴の事なんて俺がちゃんと、すぐに忘れさせてあげるよ」

呪いのような言葉。私はドアに両手をついたまま、一枚隔てた向こうにいる彼をせめて最

後に感じようとしていた。

「なあ。マネージャーに何を言われたかとか、あんたの身に今何が起こってるかなんて、ぶっちゃけさ、そんなことはどうでもいいんだよ、俺」

凪くんの言葉を聞いて、後ろの男が吹き出した。

「ぷっははは! 今の聞いた?ひでえ奴だな!どうでもいいって! いやー、さすがアイドル様は言うことが違うね! さすがモテ男!」

明らかに見下しているその大きな声を、彼はそれ以上に叫んで、遮った。

「黙ってろよ!テメーに言ってねぇ! 余計なこと言いやがったらぶっ飛ばすからな……。アイドルを辞める事になったって、お前のことはボコボコにしてやる……覚悟しろよ、ゲス野郎」

聞いたことも無いような低音。驚いた私以上に背後の男が息をのんで、怯んだのが気配で

分かる。

「希美、いいか。あんたが今どう思ってんのか、そんなのは、言ってくれねーと分かんねえよ。俺はあんたの言う通りガキだし、分かんねぇことをあれこれ考える時間は勿体ねえ。だから、俺にとってはどうでもいい。でも、もし今お前が一人で辛いって思ってて、それが俺を守るためにしてることなら、俺のために耐える必要はねーんだ。俺があんたと居たかった。あんたも俺と居たかった。お互いが大切だ。それで充分だろ。

だから俺もごめんなんて絶対言わねえから。あんたも絶対に謝るな。その代わりさ、ちゃんと言ってくれよ。

今、本当はどうしたいか。俺も謝らない代わりに言うから。

……ただ俺を信じてくれ。何があっても絶対に大丈夫だから。……な? 信じてくれよ。希美。それだけでいいから」


切実だけど、どこまでも優しい声。胸が痛くて、苦しい。でもそれ以上にあたたかい。

彼の言葉は、私の頬を伝うそれと、同じ温度だ。


「さすがの俺でも引く! いやーすげえよ、ホント! さすがアイドル! ドラマみたいだな、あはははっ!」

「な……な、ぎく……」

私の声は悪者の大袈裟な笑い声にすっかりかき消されてしまう。

でも彼には、ちゃんと届いていた。


「ああ、ちゃんと聴こえてる。……大丈夫だ、大丈夫だから。俺を信じろ」


彼はもう一度、そう繰り返した。それはがんじがらめにして押さえつけていた感情を解き

放ってくれる魔法のようだった。


「凪くん、私もいっしょに……いたい……だから、助けて……っ!」


叫んだすぐ後「下がってろ」と彼が言った。ドアが蹴破られる。

現れたのは凪くんと、圭さんだった。

「あーあー、派手にやっちゃって。それこそ週刊誌にでも撮られたら、僕らは大変だよ。凪」

「とか言って、がっつり手伝ってんだろうが。お前のほうが蹴り強かったし」

「いいから、済ませるならさっさと済ませなさいよ!大体、私はこうなるのが分かってたから伝えたくなかったのよ!」

「まあまあ、茜、本当は二人の事を心配だったって僕は知ってるよ?君は優しいもんね、昔っから。そういう君が僕はずっと好きだなぁ」

「うっさい!黙ってさっさと処理!」

圭さんがその紳士な口調には似合わない強い力で男を勢いよく殴ったので呆気にとられてしまう。


「はいはい。じゃあ、こっち来てくださいね変態さん。まだ伸びちゃダメですよ?聞きましたよ、君の親、全部罪を揉み消してくれるって?すごいね。でも大丈夫。僕の父親は実は警察の偉い人なんです。オフレコだけどね。だから君の望み通り、君は捕まってちゃんと裁かれますよ」

男を起こし肩を支えて歩きながら圭さんは出ていく。優しく語りかけながら、そのあとで何度もバキという殴る音とうめき声が聴こえてきて、思わず凪くんを見上げてしまう。

「ああ見えて、あいつはキレると俺より怖ぇんだ。喧嘩は負け知らず。ガキの頃はグレてバイク乗り回して。自分より強い奴倒しまくってた超武闘派。族にもスカウトされたりな。驚くだろ?」

「う、うん。一番ギャップがすごい……」

もう何にも信じられなくなるレベル……。私はすっかり宇宙猫の顔だ。

凪くんが名前を呼んでくれたから、何とか現実に戻って来られた。

「ん」

腕を広げている彼が笑った。私はその中へ飛び込んだ。

「ありがとな」

「……え?」

「信じてくれて」

「私のほうこそ諦めないでくれて……助けてくれてありがとう」

大きな背に腕を回して強くしがみつく。

髪を優しく撫でてくれる掌に瞼を閉じて身を委ねた。


「あんただからだ。あんただから俺は諦めずにいられたってだけ。どんなにそれを望んだっ

て、俺にそんなものはなかったけど、じいちゃんが俺を育ててくれて、希望はあるんだって

信じさせてくれた。それで、じいちゃんのお陰であんたに出逢った。あんたは、俺にとっての、“希望”だから」

これ以上ない告白だった。こんなに幸せでいいのかと思ってしまうくらい。

でも私は恥ずかしくてつい、悪態を吐いた。

「じいちゃんのお陰だね、お互い」


笑いながら抱き締め合っていたけど、坂崎さんに怒られてようやく身体を離した。

こうしてその夜、細川は無事逮捕され、男の部屋は空き部屋となった。あともうひとつ。

家主不在のボロアパートの新しい大家が決まった。その大家がなんと、じいちゃんの実の孫、そう――三上 凪だ。

「芸能人が自宅とは別に別宅で別荘持つアレと同じだろ」と簡単に言ってのけたので、

開いた口が塞がらなかった。だが、こうなるのは必然だった気もしている。

彼がじいちゃんの大切なものを手放せるわけないのだ。

驚きはしたが、すとんと腑に落ちた。その決断を本当に嬉しく思った。

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