第十六章 思い出のコーヒーと初めてのキス
じいちゃんの葬儀は、身内だけの家族葬で執り行われた。喪主は孫の凪くんだった。本来ならじいちゃんの娘さん――凪くんのお母さんが喪主になるのが普通なのだろうけれど、じいちゃんは孫を守るため、実の娘とは完全に縁を切っていた。親との間に辛い過去がある凪くん自身もこの場に母親が現れることは望んでいないとはっきり言っていた。
『自分の葬式代くらいはじいちゃん、ちゃんと用意しておくから。なんも心配はいらねえ。お前には迷惑かけないよ。けど、喪主は頼んだよ』
生前じいちゃんはそう冗談交じりに言っていたそうだ。
「出来ればやるのはずっと先が良かったけどな」
私にそのエピソードを教えた時、凪くんの顔には苦笑が浮かんでいた。ライブが終わってすぐにじいちゃんの家にやってきて、寝ずにじいちゃんとこの部屋で三人で過ごした。いくら若くて芸能人で普段も多忙だから睡眠時間が短いことに慣れていたとしても疲れの色は隠せていないようだった。それでも彼は、あの夜以降、一度も泣いていなかった。大切な家族が亡くなったのだからもっとゆっくり飲み込んで整理したいだろうに、しゃんと背筋を伸ばして喪主として気丈に振舞っていた。ただただ、すごいと尊敬してしまった。
彼と言い合いをする時、私はつい、クソガキだと言ってしまうが凪くんは人前に出る時とても落ち着いている。年上の自分が幼くて恥ずかしいと反省してしまうくらいに大人の顔をしていた。職場で触れ合うような若手の二十代はこんなにしっかりしていない。これが芸能人と一般人の違いなのか、と今になって思ったりもしたが、それと同時にじいちゃんという存在が居たから凪くんはアイドルの三上凪ではなく、ただの生意気な男の子の凪くんでいられたのだなと理解した。それくらい凪くんにとってじいちゃんは必要な存在だったのだ。自分が偽らずに居られる、ホッとする場所。
私にとっても、そうだった。じいちゃんに会うたび、話すたびに癒された。あのボロアパートは社会人になり毎日のように心身をくたくたに疲弊させていた私にとってはオアシスそのものだった。それもやっぱり、じいちゃんが大家さんをしてくれていたからだ。分かっていたことを思い知らされる時というのは、こんな風に、いつだって相手を失った時なのだろう。
葬儀の最中、喪主の凪くんはずっと黒マスクをしていた。参列者の圭さんもそうだった。けれど、棺で静かに眠るじいちゃんの傍に行ってお焼香をし、手を合わせる時だけは、じいちゃんにしっかりとその顔を見せていた。私はその後ろ姿を見ているだけでも泣けてきて、じいちゃんへの気持ちと凪くんへの気持ちとで自分が思っていた以上に涙腺がバカになっていた。倒れていたじいちゃんを最初に発見してくれた中嶋夫妻の奥さんがそんな私に何度も「大丈夫? 寂しいわよね……」と言って私の背をさすって一緒に泣いてくれた。同じく隣に座っていた細川くんもハンカチを渡してくれた。鼻水と涙で散々に汚してしまって「あとで洗濯して返すね、ごめんね……」と何度も謝った。
ご夫婦のお子さんである赤ちゃんだけがこの場にそぐわない明るく高い笑い声を上げていて、ご夫婦はすまなそうにしていたけれど、私にとっては救いだった。お別れは寂しいけれど、悲しいだけの式はきっとじいちゃんも望んでいないはずだ。きっとじいちゃんのその思いを凪くんも一番理解しているから、彼は悲しみを見せることなく、ああして振舞っている。私もじいちゃんが心配しないようにしっかりしなくちゃ。そう思ったら、鼻の奥はまだツンと痛かったが、涙は何とか止まってくれた。棺の中のじいちゃんにきちんとお礼とお別れができた。
意外にも凪くんと圭さんがあのShangri-Laの二人だと騒がれることはなかった。マスクはしていても明らかに一般人ではないオーラはバチバチに出ていたから最終的には正体がバレ、騒ぎになるのではと私のほうが内心ヒヤヒヤしていたけれど、アパートの住人の皆は凪くんに大家さんにいかにお世話になったかを語り、時に涙してはお礼を述べていた。そのたび、凪くんも「こちらこそ、生前、祖父が大変お世話になりました」と丁寧に頭を下げていた。もしかしたら、彼が、彼らがアイドルだと気付いている人もいたのかもしれないが、大切な故人のお葬式にそんなことで騒ぐのは礼儀知らずだと思ったのかもしれない。じいちゃんの人柄のお陰か、アパートの方達は良い人ばかりだから。自分もいつか、じいちゃんのように他人からも愛され、自然と周りに良い人が集まってくるような素敵な人間になれたらと改めて感じた。
じいちゃんが焼かれたその日は、雲一つない綺麗な青空で、本当にじいちゃんそのものを表しているようだった。
丁寧に大切に思いながら、私達はじいちゃんが生きた証を拾い集め、箱に収めた。
「前から小さかったけど……こんなにちっちゃくなっちまって。昔はガキの俺があんたにずっと抱っこされてたよな。……どうだ、じいちゃん。お返しされる気分は」
そうやってわざと憎たらしい言葉をかけて笑いながら両腕で骨箱を抱き、愛おしそうに一度だけ、それを掌でさすった彼の姿を私は、ずっと忘れない。
そうしてやっと、私を含めた住人達全員は大家のいないあのアパートに戻ってきた。思うことは皆同じで、寂しいということと、それから現実問題としてこれからこのアパートの管理は誰がしていくのだろうという話題で落ち着かなかった。
とりあえず、一度部屋に戻って落ち着こうという流れで、私も皆と同じように部屋に戻った。凪くん達とも話がしたかったが、彼らは恐らく休む間もなくこれから仕事で、喪に服す余裕などないだろうなと思っていた。
部屋で喪服のワンピースと黒のストッキングを脱いで、部屋着に着替えた。ワンピースは明日にでもクリーニングに出してストッキングは洗濯機にあとで突っ込めばいい。ひとまず脱いだそのままの形で置いておき、鞄の中に入れっぱなしだったスマホを取り出した。じいちゃんが倒れてからすぐに職場に有給申請して、それから家に凪くんが到着してからは電源を切っていた。案の定、電源を入れた途端、物凄い数の不在着信だった。その全てが職場からで、げんなりとしてしまう。
――まあ、この繁忙期にいきなり当日に有給申請して数日休む私も私だってことくらい分かる。でも、私にとっては家族も同然なので喪に服すのは当然で、且つ、有給取得は労働者の権利なのですが?
「……って、その権利もロクに使えてなかったからほぼブラックなんだよなあ、弊社は……ほぼっていうか真っ黒な気が。労基に訴えてやろうかな……あー、じいちゃんに愚痴りたい……」
自然と零れてしまったぼやきに、思わず固まってしまう。
「……って、もういないんだもんな。じいちゃんは」
葬儀も終えたし、火葬も終えた。じいちゃんの歳の割にはまったく崩れない、しっかりとした堅くて白い骨も拾った。大切に、ありがとう、大好きと思いながら箱に仕舞ったのだ。頭では理解している。でもやっぱりまだどこかふわふわしていて、これが全部夢だったらいいのにと思った。
さすがに会社に連絡しとくか……と仕方なくスマホの着信履歴からかけ直そうとしていたその時、部屋のインターホンが一つ鳴った。突然の訪問者におや? と思い、首を傾げながら玄関へ向かう。
「はい? ……わっ」
「よう。……わって何だよ」
「いや……もうとっくに仕事行っただろうなって思ってたから。売れっ子アイドルだし」
「褒めてんの? それとも茶化してんの? それ」
「茶化すわけないでしょう。一応これでも私、ファンだよ?」
「あ、そうだった。なんつーの、つい、そこんとこ忘れちまって。とりあえず……少しだけだからさ、上がっていい?」
立っていたのは凪くんだった。彼も喪服からは着替えていて、フード付きのパーカーとジーンズというラフな格好だった。部屋に上がっていいか問われて、一瞬、今部屋って綺麗だったっけ……? と過ぎったが、まあ、今更気にしなくてもいいか、と思い直して、どうぞ、と彼を促した。
「何か、今更だけど葬儀って悲しむ余裕もねえな。忙しすぎて」
「それ昔、お葬式があると親がよく言ってたよ。終わった後少ししてからやっと実感してじわじわ寂しくなるって」
「まさにそんな感じなんだろうな……全部仕切ってんのは俺だったのに、何だろうな、何か、忙しく動いてる俺を外から見てる俺がもう一人いるっていうか……悪い。意味分かんないよな」
「ううん。分かるよ。いや、簡単に分かるっていうのも違うと思うんだけど現実感がまったくないのは私も一緒だから」
何か飲む? と私はローテーブルを出し、そこに座って待っているよう促してキッチンに向かう。
「あ、紅茶が良いんだっけ?」
「……いや、今日はコーヒーでいい。ブラックで」
出会った頃、確か彼は『苦いのが無理だ』と言っていた気がした。驚いた私が眉根を寄せて、彼を見る。
「……なんだよ?」
「いや、ブラックコーヒー飲めるのかなって」
「今のは完全にバカにしてるだろ?」
「ごめん、今のはちょっとバカにした」
「いや即答すんのか」
漫才のようなやりとりをして凪くんは、ったく……と呆れたように言いながらも笑ってくれた。笑顔を見れただけで少しホッとする。
「この後、仕事行くし多分寝る時間もねーから、だから眠気覚ましだよ」
「移動車の中とか、ほんのちょっとでも寝れない?」
「来年一月期に俺が連ドラやるの知ってるだろ。二話までは撮ってあんだけどな、あさってには撮影再開するから台本早め早めに台本覚えておかねーとって。大晦日は歌番組もあるし」
推しがShangri-Laとしてだけでなく個人としても、仕事が途切れなくあるのはファンの立場だったら絶対に喜ばしいことだ。それだけメディアへの露出が増えるということだし、推しの活躍をたとえテレビ越しでも毎日のように楽しむことができるのだから。それがファンにとってどれだけ嬉しくてありがたいことなのか私はよく知っている。少し前までは私もそういうファンの一人だったから、推しを想うファンの気持ちは本当に痛いほどよく分かる。芸能界という特殊な世界において、一寸先は闇とも言われるように業界特有であったり、大手事務所限定ルールでトラブルが起きれば長期間に渡って干されたりすることも珍しくない。気が付いたらかつてあんなにキャーキャーと大人気だったアイドルたちが歳を重ね、普通のおじさんとなり、よくありがちな≪あの人は今≫のような番組に久し振りに登場することもザラである。そういう、いつどこで、どう変化するかも分からない最も不安定な職業――それが芸能人。中でもアイドルは年齢で賞味期限が、と男女ともに言われやすいので、とりわけそうだと言える。ただのファンだった時でさえ、そういうシビアな現実はSNSやネットニュースに蔓延っているので知っていた。だからこそ、『推しの活躍は、推しは推せるときに推せ!』 というありがたい金言を多くの先人のオタク達が残してくれているのだ。
【いつまでもあると思うな、親とカネと体力と推し】というやつもまた、その一つである。
でも、今の自分はもう、Shangri-Laの純粋なファンだとは言い切れないところがある。本当の彼らの姿を少なくともアイドルとしての彼らしか知らないファンよりは覗いてしまった。まあそれも一種のアクシデントで、不可抗力とも言うけれど。ひょんなことから知り合ってしまったこの[[rb:男 > ひと]]のアイドルとしての着ぐるみのファスナーが完全に全開で、中身が見えてしまっていたので、中を覗かざるを得なかったというやつだ。初めは最低最悪で、ショックでしかなかったけど、今となってはあの出逢いがあって良かったと思っている。
「こんなこと言っていいのか分かんないけど……」
キッチンでケトルのお湯を注いで、テーブルにコーヒーが入ったカップを二つ置く。一つは自分の分。
「何だよ、遠慮するなんて珍しくない?」
「茶化さないで。真面目に聞いて。その、何ていうか……心配なんだよ、凪くんが。じいちゃんのこと、あったばっかだし……仕事忙しいのはもちろん良いことだと思うし、ファンとしても嬉しいよ? でも、心配で……無理しないでね。凪くんまでいなくなられたら、嫌だなって思うから」
躊躇いはしたが、言わずにいてまたじいちゃんの時のような後悔は絶対にしたくなかった。だから私は真っ直ぐに向かい側に座る彼を見つめて言った。
「……なんだ、そんなことか」
「そんなことって、あのね……本気で言ってるんだからね」
「俺のこと幾つだと思ってんだよ、二十四なんスけど? いつもはクソガキってそっちがガキ扱いしてるくせに」
「それとこれとは話が別! 若くったって、働き過ぎれば誰だって身体壊すんだからね。超人気アイドルって言ったって、それはスーパーマンってことではないんだからね?」
「……何か、姉貴か何かに説教されてるみたいですげえ嫌なんですけど」
凪くんは渋い顔をした。それでも私は「お願いだから覚えておいて!」と念を押した。
「要するに、すっげえ心配なわけだ? 俺のことが」
「だから! さっきからそう言ってるでしょ! なに聞いてたの?」
「何で?」
「え?」
「いや、だからさ、何であんたは俺のことがそんなに心配なのかな~って」
「……ふざけてるよね?」
「心外ですね。僕はいつだって大真面目ですよ? 分からないからちゃんと貴女から聞きたいなって思っただけです。その理由を」
「ほら、完全にふざけてる! 急にアイドルの凪やらないで! 似てないし!」
「は? ふざけんなよコラ、似てないって本物なんだよこちとら」
「人が真面目に心配してんのにそっちがふざけるからでしょ! そういうところがほんっとに性格悪いよ、凪くんは!」
「ただ何でそんなに心配なのかって理由聞くのがそんなにいけないことか? あ?」
「何でって……そんなの、好きだからに決まってんでしょ! ってか、それ以外ないでしょ!? ……あ、」
売り言葉に買い言葉のような勢いで、半ばキレながら死ぬほど恥ずかしい告白をしてしまった。我に返って青ざめる。
――ああ、信じられない。何がって自分が一番信じられない。そりゃあ、いつかは伝えたいと思ってた。でも絶対、今じゃなかった。それだけははっきりと分かる。どう考えてもこれはダメ。ダメなやつだよ、これは……キレながら告白ってある? いや、ないわ。ない。ぜったいに、ない。
できるなら、今すぐ穴を掘って入りたい。そこで春まで冬眠したい……!
脳内でパニックを起こしている私に、凪くんは口の端を持ち上げてニヤリとした。
「はい、言質いただきました~」
「ちょ、待って……ちが、違う! 今のダメ! 忘れて!」
「生憎、記憶力は良いほうなんだ。ライブのセトリ、一公演に30曲、振り付けも歌詞も完璧に覚えられる現役のアイドル様を舐めんな?」
「は、はは……それは、さすが……お見それしました……っじゃなくて! お願い、さすがに今じゃないの! 不謹慎だし、言い方も良くなかったし、絶対今じゃない!」
「今じゃないとかそんなんどーでもいい。いつ言おうが一緒じゃん」
「全然どうでも良くないし、一緒じゃないって! だって今の完全に誘導尋問入ってたよ!? だから無効!」
「別にいいけど。無効がいいなら無効で」
急にあっさり引き出して、少し驚いたがホッと胸を撫で下ろした。それも束の間。
「あんたのが無効なら、俺が言えば良い話だろ? ちなみに俺は返品不可だし、有効しかないんで」
「……は? え? それって、ちょっ、待って!」
私だって、恋愛経験のない女ではないので、脈アリか、そうでないかくらいはそれなりに分かる。でも、アタックする気もなかった相手だし、そもそも【推し】だし、推しに対しての向き合い方はオタクによって様々だと思うけれど、私自身はガチ恋やリアコと呼ばれるタイプの推し方ではなく、あくまでも目の保養というか、鑑賞の対象というか、きっかけは彼の容姿に目を奪われたことだけれど、沼に落ちた理由の一番は純粋に音楽性に惹かれてのことだったので、どちらかというとリスペクトが強く、応援したい、見守りたい、という親のようなものだったはず。
――……それが、どうしたことでしょう?
神様、ありえないこの状況、あなた様、絶対面白がってませんか!?
待ってと早口で何度も言った。だってこちらにも心の準備ってものがある。なのに彼は私の制止を気にすることなく、何でもない事のようにサラッと告げた。
「俺も。俺もあんたのことが好きだ。じいちゃんに言われてたからとかそういうんじゃなくて、何ていうの? 一緒に居て、自分を作んなくて良い相手は今まで、じいちゃんか、圭か、あとマネージャーくらいしかいなかったから、特に女は口軽いし信用できねーと思ってたから。けど何でか、あんたの前だと普段の俺でいられた。気ぃ遣わなくていいっつーか、それこそ家族……みたいな感じで。あんたが、本気でじいちゃんのこと大事に思ってくれて、いい女だなって思うようになった。そうやって気付いたらあんたの……希美のこと、好きになってた。自分でもすげー驚いてる」
いつも不器用で、真面目な話になればなるほど多くを語らない、そういう性格であるはずの凪くんが、私にくれた言葉はこちらが照れてしまうくらい真っ直ぐで、純粋で、自分で言うのもおかしいけれど、嘘がないと分かる。それだけ彼の気持ちが伝わってくる飾らないものだった。『大好きだよ』や『愛してる』なんて愛の言葉の類はアイドルもファンも散々言い慣れているし、聞き慣れている。けれど、私達は互いに照れていた。アイドルとファンではなく、ただの男と女として恋をしてしまったから、初めて互いに本音を隠すことも偽ることもせずにこうして想いを伝え合っているこの状況が、どうしようもなく、くすぐったい。私はやっとの思いで彼から視線を外した。
「……そ、そうですか」
「そうですかって、他に言うことねーの。こっち見ろって。そんで、なんか言えよ返事とか……もっと“らしい”やつ」
ぶつくさ、文句を言われる。理由を言えだの、こっち見ろだの返事しろだの注文が多い。こっちの気も知らないで……高級ブランド掃除機も驚きの吸引力すぎる。その綺麗な瞳に見つめられたら本当にたとえでも何でもなく吸い込まれそうで心臓が信じられないほど速く動いていた。誤魔化すために悪態を吐こうとも思ったけれど、ここで強がるのは良くないと私は姿勢を正し、背筋を伸ばしてもう一度彼と視線を合わせた。
「嬉しい、すごく。……ありがと」
「それだけ?」
「だって……さっきもう言ったよ、私」
「キレながらもある意味、すげえ《《らしくて》》俺的には刺さった。けど、もうちょっと違うのも欲しい」
「それは……男の子が大人の女性から貰うものとしてはさ、その、ねえ? ……欲張りじゃないの」
「まだ照れてんの? 悪いけど俺、裸眼だとほぼ見えないって言ったかんな。大人の女なんてここにはいないけど? 顔真っ赤にしてこっち見てる女しか見えない。ついでにその顔から凪くんだいすきー!ってすげえ出まくってるから」
「っちょ、やめて! 見えてんじゃん! ってか、続けざまに恥ずかしいこと言うのナシ! いつもはそういうの死んでも言わないタイプでしょ!」
「俺はな。でもShangri-Laの凪なら言い慣れてるし」
それ反則じゃん! とツッコミを入れる私に、「使える武器は全部使う。これ鉄則」なんてドヤ顔を見せてくる。そんなところも、らしいな、と思わず笑ってしまう私がいた。
「分かった。分かりました。ちゃんと言います」
「うん」
嬉しそうに、まるで箱の中身が分からないクリスマスプレゼントをワクワクしながら開ける少年のような目をしている。そんな仕事の時とは違う彼の表情に、その笑顔に「この人が大好きで、この人に幸せでいてほしい。私が、この人がもう悲しい思いをせずに済むように守ってあげたい。幸せにしてあげたい」という自分の想いに改めて気付いた。
それなら、私にできることは全部したい――。
「好き。Shangri-Laの凪は推しだけど、私が心から大切なのはあなたです。アイドルじゃなくて、背伸びしてない、意地悪で、口も悪くて失礼で全然媚びない。でも本当は不器用なだけですごく優しい普通の男の子のあなたが一番好き。Shangri-Laの凪もとてつもなく綺麗だけど、私は今、私の目の前にいるあなたが、心の綺麗な、家族や仲間想いの心のあたたかいあなたが、一番好き。大好き、凪くん」
彼が私にそうしてくれたように、自分の正直な想いを私も彼に伝えた。凪くんはしばらく固まって、何も喋ってくれなかったので、もしもし? 聞こえてる? と顔の前で手を振った。パチ、と大きな目を瞬かせたと思えば、急にぐいっとコーヒーの入ったカップを呷った。
「……う゛ぶっ……、に、苦ぇ……っ!」
「だからさっき聞いたでしょ。飲めるのかって」
「思った以上に苦かった……いや、ってかそれ以上に、破壊力が想像を軽く超えてきて焦った……」
「? ああ、コーヒーの苦さが?」
「……まあ、うん、いいや、そういうことにしといて」
「え、何それ。っていうか私ちゃんと言ったのに凪くんだって返事くれてないじゃん」
「したから、今」
「え、今? え、返事? いつ?」
「だから今だって」と凪くんは笑うばかりで私の質問に答えてはくれなかった。
「あ、マネから連絡来た……悪い、そろそろ行くわ」
しばらく二人で笑い合っていたが、凪くんがスマホ画面を見て呟いた。立ち上がって玄関に向かう彼の後ろをついていく。
「仕事、頑張ってね」
「おう」
「でもほんと、無理だけはしないでね」
「ん、それも分かった」
「あと……もう一つだけ、いいかな。どうしても、言いたいことあった」
「何? 言い足りない愛の告白ならいつでも受けるけど? ……なんて。悪い。いいよ。言って。どうしてもってことは何か大事なことなんだろ?」
靴を履いて振り返った長身の彼を私は見上げる。言っていいのかずっと迷っていた。じいちゃんはあの日、彼には言わなくていいと言っていたけれど、私のエゴでしかないかもしれないけれど私は彼にじいちゃんの思いを、願いを伝えたかった。それをちゃんと彼に知っていてほしかった。
「うん……あのね、私、じいちゃんが亡くなる前、最後に会った日、あ、仕事でなかなか会えてなかったからだいぶ前になっちゃうんだけど、じいちゃんが私と話したことがあって……」
うん、と彼が真剣な眼差しで頷き、静かに言葉の続きを待ってくれる。私はまた口を開いて、できるだけあの日じいちゃんから聞いたままの言葉で、彼にじいちゃんの最後の正直な気持ちを、じいちゃんからの凪くんへの大きな愛を伝えた。
「じいちゃんと最後に話した日、じいちゃん、言ってた。『いつの日か、この仕事やってて良かったって凪くんが心から思える日が来たらいいな』って。『今みたいに演じてるあの子じゃなく、じいちゃんや圭や、希美ちゃんの前でいるような、普段の凪のまま仕事を楽しんでほしい』って。私も……私もそう思ってたから、いつか、じいちゃんの気持ちを凪くんに伝えられると良いねって話したんだ」
あの日のじいちゃんの言葉を私も頭の中で反芻しながら、声に出した。
「……そっか」
「うん……本当は凪くんには言わなくていいって言われてたんだけど、どうしてもちゃんと届けたいなって。勝手にごめん」
凪くんはまた、そっかあ、と溜め息混じりにその言葉を発した。
「結局……全部お見通しだったんだよな、じいちゃんには。俺が義務感とか、じいちゃんのため、売れるためって気持ちだけで今の仕事やってたの」
「じいちゃんは凪くんの家族だもん。当たり前だよ」
「だよなあ……だな。そうだよな……そっかあ。くっそ……まだ泣けんのかよ。なっさけな、俺……っ」
「そんなことないよ。全然そんなことない」
独りごちた彼が片手で顔を覆って天を仰いだ。頬を光る涙の滴が伝う。私は彼の大きな身体に両腕を回してぎゅっと抱き締めた。彼の両腕もそれに応えてくれるように私を抱きすくめる。大きな身体にすっぽり包まれているのは私だけど、肩を震わせながら声を殺して泣く彼を大丈夫だよと守っているのは私だった。こういう弱さや脆さをこの人はこれまできっと、なかなか他人に見せることはできなかったのだろう。早く大人にならなければと、必死だったに違いない。じいちゃんはそういう彼をずっと心配していたんだな。
「我慢しなくていいよ、凪くん。もう誰もあなたを責めたり、無理強いしたりしない。そのままでいいんだよ。じいちゃんも、私も、圭さんも、ううん、きっとシャングラーのみんなだって、そのままのあなたが大好きなんだよ」
身体を少し折り曲げるようにして私を抱き締めていた彼が頷いたのが分かる。私は彼が落ち着くまでじっとそのまま動かなかった。
「なんか……その、悪かった。格好悪いとこ見せて」
「いえいえ、お互い様でしょ」
「……そういやそうか。ここですっぴん見たもんな、俺」
「そういうのは忘れてくれていいよ?」
思わず声が低くなった。さっきまで恥ずかしそうに罰が悪そうにしていたくせに、もういつもの自信に満ち溢れたドS顔に戻っている。さすがアイドル。スイッチの切り替えが早い。
「聞こえてんだけど。だから褒めてんのか貶してんのか分かんねーから、それ」
「え!? 嘘、心の声漏れてた!?」
「すげえ漏れてた。ダダ漏れ。緩すぎ」
「ご、ごめん……」
「緩いついでに言うけど、警戒心もゆるゆるだな」
「へ?」
言葉の意図が掴めず眉根を寄せているとゆっくり顔が近づいてきた。
「まっ!? 待って 近い! いきなりご尊顔がこんなに……こんなに至近距離は無理……っ! 展開早すぎてさすがにオバサンにとってはついていけなくてキャパオーバーするからっ! あと一週間、いや一か月くらいは待って!?」
そんなに待てるか、と彼はくすり、笑う息を吐き出した。それから私の髪を耳にかけ、自然な流れで両頬を両手で挟んでくる。圧倒的イケメン仕草と、凄まじい美の圧に金魚のように口がぱくぱく動いて変な声が出そうになる。
「あ、あの……ちょ、ちょっとマジでダメ……っ一瞬、一瞬だけ待ってほしい!」
「うるさ。俺が一瞬待つより、そっちが一瞬黙って?」
ぴしゃりと遮られたのに、その声はとてつもなく甘い。こんな声はShangri-Laの時にしか聴いたことがない。――ずるい。ずるすぎる。完全に武装しまくった状態で使える武器全部使ってるよ、しかも攻撃力が高すぎる。さすがはソシャゲ世代だ。QSや四天堂の初期のコンシューマーゲームが主流だった自分では勝ち目がなさそうだ。いや、そもそも彼の世代は家庭用ゲーム機でも相当解像度高いから。グラフィック良すぎだから。そっか、だから目の前のご尊顔も最高度グラフィックなわけね~はいはい、なるほど!?
頭の中だけでとてつもなく早口で私は喋っていた。それだけパンクしそうだったということだ。――なのに。
「……ストッキング脱ぎっぱなしなの、さすがにアレは良くねーわ。俺じゃなかったら大変なことになってた。紳士な彼氏に感謝してくださいね? あ、でも次やったら、次はどうしてあげましょうねえ……。っふ、ってことで――そのつもりでよろしく」
「なっ!? な……っ!」
絶対キスされると思った。うっかり目まで閉じてしまった。恥ずかしい。さっきも恥ずかしすぎて冬眠したいって思ったけど今も想ってる。やっぱり春と言わず来年の夏まで、いやいっそ冬まで篭ったほうが良い気がする……。
耳を押さえて見上げる私を彼はまた不敵に、そして楽しそうに笑って「真っ赤じゃん」と指をさす。
「~~っ! あのねえ!」
この野郎くらい言ってやりたかったけど、そんな風に可愛い笑顔見せられたら何も言えない。結局、そう叫ぶのが精一杯だった。
「じゃ、もう行くわ。さすがにガチでマネに怒られっから」
「うん。気を付けてね」
「ああ。また来る。連絡するし。そっちもして」
「うん、するね」
ドアを開けて、一歩外へ踏みだした彼。しかし、何かを思い出して「あ、そうだ」と言ってまた一度ドアを閉めて向き直った。
「どうしたの?」
「悪い、忘れ物した。危なかった、ここに置き忘れたまま行くとこだった」
「え、何? 鞄……は持ってるよね? ちょっと待ってて、見てくる」
「希美」
「ん? わっ、ん――っ……」
部屋の奥に戻ろうとした私の名を彼がふいに呼んで、振り返った時、ぐい、と腕を引かれた。突然のことに躓きそうになる。靴も履かずに私の裸足の脚は地面についた。目の前には、先程と同じ綺麗な顔があって、言葉を発する隙も与えられず柔らかな熱で唇を覆われた。それが彼の唇だと理解したのは口の中でほんの少しだけ舌が触れ合った時だった。推しという相手との初めてのキスは思ったほど夢もロマンもなく、いつも飲んでいるインスタントコーヒーの味がした。
「……なあ、どう? 今度は期待通りだった?」
「ふ、不謹慎……!」
「さっき思いきりキス待ち顔してたから、あー、大事なもん忘れてたなーって思って。じいちゃんも多分、今向こうで万歳三唱してるだろ。多分っつーか、絶対だな」
「バカ! してるわけないでしょ! そうやってすぐからかうのやめてくんない?」
「からかってると思ってんの? 俺がしたかったからしてんのに。そうやって若い男の純情を弄ぶわけね? ひでえな~へこむわ~」
「なっ、何でそうなる……! そんなことしてないからね!? 嬉しかったから、すごいドキドキしたから怒ってんの! それに年下の男に弄ばれてるのはどう考えても私だからね?」
「初めてちゃんと好きになった相手を弄べるほど、余裕もないし、器用でもねーから」
ふふん、と余裕ぶって鼻で一蹴してるくせにサラッとイケメンしか許されない愛のパワーワードを吐く。彼はそんなつもりはないと言うけれど、もう充分すぎるほど私は翻弄されていた。「だから、そういうところ!」とツッコんだ声がつい大きくなってしまったのも仕方ないことだと思う。
「……しかもブラックコーヒーの味……」
「色気も爽やかさもないよな。まあでも、さっき飲んだ時より甘かった気がした」
「分かった……もう許して……今日はもう限界っ、倒れそう……」
「ドキドキしすぎて?」
「分かってるならもう早く行ってくれない!?」
「ほんっと、照れるとすぐキレるよな」
ふはは、とまた彼が笑った。いつまでもリードされたままでは年上のお姉様として如何なものか。けれど、背伸びしても彼の唇には届かない。分かっていたことだがこの男、スタイルも顔も良すぎて、腹立つ。
「ちょ、屈んで!」
「へえ、そっちもまあまあ欲張りじゃん?」
「いいから!」
「ん」
わざとらしく、子供にするみたに屈んでくれた。反応を楽しんでるだろうなと分かったけど、気にせず私は自分から彼に口づけた。ただ触れるだけのキス。少しだけ離して、何か告げようとした彼に、お返しのように先刻と同じ言葉を囁いた。
「うるさい……黙って」
もう一度それを重ねた時、彼の目が見開かれたのが分かった。その目が優しく笑みの形に細くなり、彼の想いが伝わってくる。私はようやくゆっくりと瞼を閉じた。
さっきまでとは明らかに違うキス。深くて甘い。
味はやっぱりコーヒーに変わりはなかったけれど、確かに部屋で飲んだそれよりずっとずっと。
それが彼との初めてのキス。
私と彼が、恋人同士になった日の朝のこと。




