偽装婚約で家族を救う!?彼女の苦渋の選択が運命を変える!
私は佐倉リカ、二十四歳。家族経営の佐倉建設の社長令嬢として生まれ、大学を卒業してからは家業を支えるために働いてきた。
でも、私がどれだけ頑張っても、経済の荒波に飲まれた会社を救うことはできなかった。
「……私に、どうしろって言うんですか?」
そう言った私に、父が提案したのは“偽装婚約”だった。
大蔵竜――若手実業家として名を馳せる冷徹な男との契約的な結婚。それが、私たち佐倉家を救う唯一の方法だという。
大蔵家が用意する資金で会社の借金を一時的に解消し、再建の足掛かりを作る。それが父の計画だった。
だが、その代償として私は大蔵竜の「婚約者」という立場を演じなければならない。
「……そんな相手と、私が?」
写真で見た鋭い目つきと冷たい雰囲気。彼の名前を聞くだけで、背筋が凍るような気がする。だけど、父の沈黙がその重みを物語っていた。
――選択肢なんて、初めからないのだ。
「わかりました。私がやります」
部屋に戻り、デスクに置かれた書類に目を通す。偽装婚約に関する契約書だ。
まるでビジネス取引のように詳細に書かれた条件を見ていると、「婚約」という言葉がどれだけ形式的なものか、思い知らされる。
それでも、サインをしなければならない。この一枚の紙に家族の未来がかかっている。
そう思うと、重いプレッシャーが肩にのしかかった。
(私がやらなきゃ、誰も助けられない……)
幼い頃から家族の期待を背負ってきた。長女としての責任、佐倉家の名を守る役目――それが私の人生だった。自分のために生きたことなんて、一度もない。
「家族のため」。そう言い聞かせながら、私は契約書にサインをした。
翌日、偽装婚約の契約を正式に結ぶため、大蔵グループのオフィスビルを訪れた。
目の前にそびえ立つ高層ビルは、朝の光を反射して眩しく輝いている。大理石で覆われたエントランスは、まるで別世界に足を踏み入れるような威圧感だった。
「……これが私の人生なのかな?」
心の中で何度も自問しながらも、私はビルの中に足を踏み入れる。
案内された応接室には、写真で見た通りの冷徹な雰囲気をまとった男――大蔵竜がいた。
「佐倉リカさんだね。時間に正確なのは評価しよう」
彼はそう言って私を一瞥する。鋭い視線に少し怯みながらも、私は頭を下げた。
「本日、契約書の取り交わしに伺いました。よろしくお願いします」
「挨拶は形式的で構わない。契約書を確認してサインしろ。それだけだ」
冷たい口調に戸惑いを覚えながらも、私は契約書に目を通す。ひとつひとつの条件からは、彼の慎重で徹底した性格がうかがえた。
「これで、会社が救われるんですよね……?」
おそるおそるそう尋ねると、竜は短く答える。
「そうだ。ただし、契約を忠実に守ればの話だ」
ペンを持つ手が少し震える。それでも、私は契約書にサインをした。
この瞬間から、私は大蔵竜の「婚約者」となったのだ――たとえ偽りであっても。
契約が正式に結ばれると、竜はすぐに席を立つ。その一挙一動に隙がなく、常に何かを計算しているように見えた。
「今週中に準備を済ませてくれ。お前には大蔵家での生活に早く慣れてもらう必要がある」
「……わかりました」
迷いや情を感じさせない指示に、私はただ従うしかない。これから大蔵家で過ごすという現実が、重くのしかかってくる。
自室に戻り、契約書の写しをデスクに置くと、一気に疲労が押し寄せた。
大きな荷物を持つことは許されず、必要最低限のものだけをまとめる。家族のために――その思いだけが私の背中を押していた。
けれど、家族からの温かい言葉が何もなかったことに、ほんの少しだけ虚しさを感じる。
(これは私が選んだこと……後悔しても仕方がない)
そう自分に言い聞かせながら、大蔵家へ向かう準備を進めた。
やがて、大蔵家の車が迎えに来る。緊張を抑えながら後部座席に乗り込むと、夜の街を抜けて車は走っていった。窓の外に流れる光景は、次第に現実味を失っていく。
(私はこれから、この契約の中で生きていくのか……)
やがて運転手が静かに声をかける。
「佐倉様、到着しました」
車から降りると、そこには広大な庭と、その奥にそびえ立つ豪邸が見えた。大理石の玄関が圧倒的な存在感を放っている。
扉が開くと冷たい空気とともに、きらめくシャンデリアのある広大なホールが目に飛び込んできた。高い天井、続いていく廊下――今まで知っていた世界とはまるで違う。
「……広い……」
自然と漏れた呟きが、豪邸の静寂の中でやけに大きく響く。執事の男性が私をリビングへ案内してくれた。
リビングには高価な家具が整然と並び、まるでホールのような広さをもつ。しかしそこに人の温もりは感じられない。
「……私、本当にここでやっていけるのかな」
広すぎる空間に囲まれ、自分がどれほど小さい存在なのかを痛感する。これからの日々がどんなものになるのか、不安だけが胸を締め付けた。
そうして大蔵家での生活が始まってから、一ヶ月が経った。
毎朝のダイニングでの食事は相変わらず静かで、必要最低限の会話しかない。竜の冷たい態度にも慣れたけれど、どこか物足りなさを感じ始めていた。
ある日の朝食時、テーブルの向こうでスーツに身を包んだ竜をちらりと見る。スマートフォンを見つめる横顔には、いつものように隙がない。
「今日も忙しいんですか?」
「予定通りだ。午後から取引先の会合がある。それに、お前も同行する必要がある」
「……わかりました」
契約上の婚約者として、ただ役割をこなす。そう自分に言い聞かせながらも、私の中には少しずつ疑問が芽生えていた。
その日の午後、少し息抜きをしようと近くの公園へ向かった。広い空間と木漏れ日に癒されながら歩いていると、心がわずかに軽くなる気がする。
ベンチに腰を下ろし、空を見上げてぼんやりとしていると、不意に声をかけられた。
「すみません、ここ空いてますか?」
顔を上げると、金髪の青年が人懐っこい笑顔を浮かべて立っていた。彼は私の隣に座ると、優しい口調で話しかけてくる。
「なんだか、疲れてるみたいですね。大丈夫ですか?」
「あ……はい、少し考え事をしていただけで」
「そうなんだ。こんな時は深呼吸して、空でも見上げるのが一番ですよ」
彼の明るい声に促されて、私はゆっくりと息を吸い、空を見上げた。すると澄んだ青空が視界に広がり、ささくれ立っていた心がほんの少しだけ穏やかになる。
「……ありがとうございます。少し楽になった気がします」
「それなら良かった。俺、北村大輝って言います。こう見えて、けっこう聞き上手なんですよ」
「あ、私は佐倉リカです。初めまして」
名前を交換し、軽い世間話をするうちに、彼の明るい性格に救われるような気がした。竜と過ごす日々の緊張感とはまるで違う、自然な温かさがある。
「またどこかで会えたら、気軽に声かけてくださいね。それじゃ、俺はこれで」
そう言い残して大輝は走り去っていった。その背中を見送りながら、私の心にはほんの少しだけ温かさが残った。
その夜、仕事を終えた竜がリビングに戻ってきた。いつも通り無駄のない動きでソファに腰を下ろすと、静かな視線を私に向ける。
「明日の予定だが、午前中は会議だ。午後は……お前の希望を聞いてもいい」
「え?」
彼が私に予定を相談してくるなんて初めてだった。表情はいつもと同じように冷静だが、その奥に微かに柔らかさが見える気がする。
「……それなら、少し散歩でもしたいです。庭でもいいので」
「わかった。朝の会議が終わったら、声をかける」
短いやりとりの中にも、これまで感じたことのない微妙な変化があった。
大蔵家での生活が始まってから三ヶ月。初めはぎこちなかった共同生活も、今では日常の一部になりつつある。それでも竜との関係は依然として“契約”の枠を超えるものではなかった。
庭のベンチに座り、朝日を浴びながら竜の出勤を見送るのも、いつしか習慣になっていた。
「……これで良いのかな」
自分自身に問いかけても、答えは出てこない。竜の冷徹な態度の裏にある優しさや責任感を感じることが増え、私の心は少しずつ揺れ始めていた。
ある日、竜が私をオフィスに連れて行き、重要な取引の場に同席させた。
緊張感漂う打ち合わせ室で、竜は冷静に相手を説得していく。その姿に圧倒されるものがあった。
「大蔵さんの提案は魅力的ですね。ぜひ検討させていただきます」
「ありがとうございます。引き続きよろしくお願いいたします」
相手が深く頭を下げるのを見届けたあと、竜も軽く頭を下げる。そのプロフェッショナルな振る舞いに、思わず見惚れてしまった。
冷徹な外見の裏にある真摯さ――それが、私の心を強く引き寄せる。
「竜さん、お疲れ様でした。すごく格好良かったです」
「……お前がそう思うなら、それでいい」
短い答えだったが、その耳がほんの少し赤くなっているように見えた。
その日の夕方、私は仕事の後の緊張をほぐそうとまた公園へ足を運んだ。澄んだ空気を吸い込みながらベンチに腰を下ろしていると、背後から声がかかる。
「やあ、リカさん。また会いましたね」
振り返ると、北村大輝が立っていた。前に会ったときと同じ、柔らかな笑顔がまぶしい。
「偶然ですね」
「偶然っていうか、運命じゃないですか? なんてね」
彼の軽口に思わず笑みがこぼれる。竜とは正反対の軽やかな雰囲気が、私の心をほぐしてくれる。
「でも、本当に元気そうで良かった。新しい環境には慣れた?」
「……はい、少しずつですけど」
「そっか。それなら安心だ。竜は口下手だからな」
――竜? 思わず聞き返そうとした瞬間、彼は「あ、いけね、時間だ」と言って走り去ってしまった。
大輝は竜のことを知っている? いったいどんな関係なのだろう……。
その夜、私は竜にそれとなく問いかける。
「竜さん、北村大輝さんってご存じですか?」
「……ああ」
それ以上は語らない彼。深い事情があるのだろうと感じつつ、私はそれ以上問い詰めるべきではないと判断して話題を切り上げた。
(竜さんのこと、もっと知りたい。そう思うのは私だけなのかな……)
翌日、竜と庭を散歩していると、彼がふと立ち止まった。普段なら無駄のない動きで先を行くのに、今日は珍しく私をじっと見つめる。
「リカ……俺は、今の生活に感謝している」
「え……?」
彼の言葉の意味を問いただす間もなく、竜は再び歩き出してしまった。その背中を追いかけながら、私の胸は高鳴るばかりだった。
その夜、玄関のチャイムが鳴る。執事が扉を開けると、そこには北村大輝が立っていた。真剣な表情で、竜を呼び出す。
「こんばんは。竜、ちょっと話がある」
大輝の言葉に、竜は静かに頷く。二人の間に漂う緊張感に、私は思わず言葉を失った。
「もう、俺たちのことを隠す必要はないだろう。リカさんにも話しておくべきだと思う」
「……分かった。お前がそう言うなら」
竜は深く息を吐き、私の方へ向き直る。いつもの冷徹な瞳の奥に、見たことのない感情が揺れていた。
「リカ……大輝と俺は兄弟だ」
「え……兄弟?」
「そう。俺たちは血の繋がった兄弟なんだ」
大輝が私に視線を向ける。そして淡々と続けた。
「昔、家族の事情で俺は養子に出された。それからずっと、別々の人生を歩いてきた」
私の胸がざわつく。竜と大輝には、そんな深い因縁があったのだ。
「父が事業の危機に直面したとき、大輝を養子に出すことでしか状況を乗り越えられなかった。それが、俺たち家族の選択だった」
竜の声には、後悔と苦しみが滲んでいる。それは彼が背負い続けてきた罪悪感そのものなのだろう。
「でも、俺はその決断を恨んでないよ」
大輝は明るい口調で続ける。
「むしろ感謝してる。養子に出されたことで、自分の力で生きる道を見つけられたしね。こうしてまた竜と繋がれるなら、それだけで十分」
大輝の声の中には、深い愛情が感じられた。その愛情が竜の心にも届いているように見える。
「竜、お前は昔から自分を責めすぎだ。俺のことより、今はお前自身の気持ちを伝えなきゃいけない相手がいるだろう?」
「……大輝、余計なことを言うな」
二人のやり取りを聞きながら、竜の中にある何かが揺れているのを感じる。彼が隠し続けてきた本心――私は、それを知りたいと思わずにいられなかった。
大輝が帰った後、竜は珍しく私を夜の庭へ誘った。心地よい夜風と満天の星が広がる中、彼の隣に立つと、緊張で胸が高鳴る。
「リカ……話がある」
「……はい」
竜の表情はどこか強張っている。彼が何を言おうとしているのか、私はただ黙って言葉を待った。
「俺はずっと、お前に本当のことを言えずにいた。最初にお前の写真を見たときから……俺は、お前に惹かれていたんだ」
「……!」
思いもよらない告白に、驚きで息を飲む。
「俺は不器用で、どう接していいか分からなかった。だから、契約なんて形を取ってしまった。
でも、時間が経つにつれて、ただお前といることが心地良くなっていった」
彼の声には、かつて聞いたことのないほどの真剣さがにじんでいる。その一言一言が胸に染みた。
「竜さん……」
「お前のことが好きだ。心からそう思ってる。だから……これからは、偽りじゃなくて、本物の関係になりたい」
その言葉に胸が熱くなる。ずっと知りたかった彼の本心。私の気持ちも、その瞬間にはっきり分かった。
「私も……竜さんのことが好きです」
「……リカ」
彼が初めて、柔らかな響きで私の名前を呼ぶ。その声には、今までにない温かさがあった。
「最初はただの契約だったけれど、時間が経つにつれて、あなたのことをもっと知りたいと思うようになったんです。
今では、あなたと一緒に未来を歩みたいって思っています」
そう伝えると、竜の瞳がこれまでで一番輝いて見えた。
「ありがとう。これからは……ずっとお前を守っていく」
数日後、竜が開いてくれた小さなパーティーには、大輝も参加していた。兄弟としての絆を取り戻した二人は、穏やかな表情で言葉を交わす。
「良かったな、竜。ようやく素直になったじゃないか」
「お前のおかげだ。感謝している」
そんな二人のやり取りを見ていると、家族という存在の温かさを改めて感じずにはいられない。
「これからも、よろしくお願いします」
私がそう言うと、竜は静かに頷いた。
「ああ、俺もよろしく頼む」
偽りの関係だったはずが、今では本物の愛へと変わった。
私たちは新しい家族の形を築きながら、共に未来を歩んでいく――どんな試練があっても、この絆ならきっと乗り越えられると信じて。