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第二章:はじまりのはちみつレモン②

 午前に四教科、午後に二教科の授業を乗り越え、放課後になった。この日は国語と数学、社会のテストが授業中に返却された。実結の国語と数学の点数は平均点を僅かに上回っていたが、社会は案の定の点数だった。しかし、山勘と秘技鉛筆転がしを駆使したことが功を奏したのか、学校に親を呼ばれるほどひどい点数ではなかった。

 明日返ってくる予定の英語と理科のテストの点数に気を揉みながら、実結はスクールバッグを手に席を立つ。積極的に親には見せたくはない点数の答案用紙を家に持って帰りたくなくて、今日のところは返ってきたテストは小さく畳んで机の奥に押し込んでおいた。

「実結、委員会行くんでしょ? 途中まで一緒に行こ」

 更衣室で紺色の生地に赤と白のラインが入った学校指定のジャージに着替えて戻ってきたゆまが、教室を出て行こうとしている実結を呼び止めた。ゆまは自分の席までたたっとかけ戻ると、机の脇にかけた自分のスクールバッグとテニスラケットを取ってきた。

「お待たせ。行こっか」

 うん、と実結が頷くと二人は横並びで廊下を歩き出した。

「あーもう、テストのせいで体めっちゃ鈍っちゃったじゃん。来週、市の大会なのにどうしよ」

「部活が休みの間は全然やってなかった感じ?」

「全然。動画サイトでずっと韓国のドラマ観てた」

 めっちゃ泣けるし主演俳優がイケメンすぎてマジで神だから絶対観た方がいい、とゆまは熱弁する。三次元よりは二次元派の実結は今度ね、と苦笑した。

 外のテニスコートに向かうゆまとは昇降口で別れ、実結は図書室へ向かって校舎の一階の廊下を奥へと進んでいく。

 図書館に着いてドアを開けて中へ入ると、ベージュのエプロンをしたふんわりとした印象の三十歳前後の女性に実結は出迎えられた。

「あ、片岡さん。今日の当番よろしくね。そうそう今日、一緒に当番に入るはずだった一年生の女の子が来られなくなっちゃったから、代わりに三年生の男の子が入ってくれるって」

 わかりました、と実結は頷くと木でできた貸出カウンターの中に入る。足元にスクールバッグを置くと実結は椅子に腰を下ろした。

 カウンター脇のワゴンに視線をやり、あるべき棚に返却すべき本がないことを確認すると、実結はぐっと伸びをする。

 ギィ、と蝶番が軋む音と共にドアが開き、ひょろりと上背のある男子生徒が姿を現した。

「……?」

 実結は垂れ目がちな目を瞬かせ、男子生徒の顔を二度見した。

 一重なのに大きく、それでいて爽やかさを感じさせるすっきりとした目元。すっと通った鼻筋に薄い唇。全体的に温和で優しげな印象を受けるのに、どこかミステリアスさを感じさせる表情。

 無造作にまくり上げたワイシャツの袖口からは、ひょろりと長いけれど程よく筋肉のついた腕がのぞいている。少年から大人になり始めた男性のほのかな色香に実結はどきりとした。

 知らない男子生徒のはずだった。見覚えなどあるはずないのに、どこか既視感があるような気がした。

 男子生徒は実結の姿を認めると、ふっと口元を綻ばせて、今日はよろしくと軽く会釈をした。彼は窓際のマガジンラックから何かしらの雑誌を持ってくると、実結の隣へと座る。

 男子生徒の気配を察してか、奥の司書室にいたエプロン姿の女性――司書の芳野が戸口から顔だけを覗かせる。

「二人とも揃ったね。私は奥で片付け物をしているから、カウンターは二人に任せるね」

 何かあったら声を掛けて、と言い置くと芳野は顔を司書室の中へと再び引っ込ませた。

 芳野がいなくなったことで、放課後の図書室に沈黙が降りる。背後の壁にかけられたアナログ時計の秒針が、かちかちと規則的に時を刻む音がやけに大きく響く。時を経た紙とインクの匂いがふんわりと満ちる空間に、開け放たれた窓の外から五月の爽やかな風が吹き込んでくる。中間テストが終わった今、図書室を利用する生徒も少なく、緩やかに夕方の時間が過ぎていく。

 読みかけだったライトノベルの文庫本を自分のバッグの中から取り出して読みながら、ちらちらと隣の男子生徒を見ていると、

「どうかした?」

 柔らかく微笑んだ男子生徒にそう問われ、実結は恥ずかしさとばつの悪さで顔を真っ赤にしながら首を横に振った。

「い、いえ、何でもないです! ただ何を読んでいるのか少し気になっただけで!」

 男子生徒のことが気になって見ていたなどとは口が裂けても言えないため、それらしき理由を実結はでっち上げて早口でまくし立てる。気に障ったならごめんなさい、と実結は読みかけの文庫本を胸に抱きしめながら、深々と頭を下げた。

 男子生徒は薄く形の良い唇の前で、少し骨張った人差し指を立てて、

「静かに。今は僕たち以外に人はいないとはいえ、ここは図書室だからね」

「あっ……ごめんなさい」

 実結が再び謝ると、男子生徒は読んでいた雑誌を持ち上げて、実結に表紙が見えるようにしてくれる。

「これ、ギターの雑誌なんだ。司書の芳野先生に頼んで、毎月入れてもらってて」

「先輩はギターを弾けるんですか?」

 先輩って、と男子生徒は一瞬虚をつかれたような顔をする。まあいいや、と男子生徒は複雑そうな顔でひとりごちると、

「うん、あんまり難しいのは無理だけど、それなりには。曲を作ってみたりもしていて、たまにazul(アズル)っていう名前で動画サイトに投稿したりしているんだけど、なかなか難しいね」

 照れ臭そうだけれどいきいきとした顔で自分の好きなものについて語る男子生徒が実結には何だかとても眩しく見えた。その横顔をぼうっと実結が見つめていると、男子生徒は怪訝そうに、

「……ってどうかした? 実結ちゃん?」

「いえっ、何でもないです!」

 実結は慌てて首を横に振る。直前の男子生徒の言葉に違和感を覚えて、実結は脳内でそれを再生し直す。一拍の後、何で、と実結は驚きでがたんと椅子から立ち上がる。

「どうしてわたしの名前を知って……!」

 実結は今年度の最初の委員会の集まりの日に、風邪で学校を休んでいたため、男子生徒と顔を合わせるのは初めてのはずだった。その上、司書の芳野が各クラスの図書委員に配った当番表のプリントに書かれているのは苗字だけで、下の名前を知る機会などなかったはずだ。しっ、と男子生徒は再び顔の前で人差し指を立てると、

「どうしてって、いつもゆまと仲良くしてくれてるだろう?」

 実結は目を瞬いた。どうしてここでゆまの名前が出てくるのだろうと思いながら実結は男子生徒の顔を見やり、息を呑んだ。

「もしかして……蒼羽(あおば)くん?」

 朝比奈蒼羽(あさひなあおば)は実結の親友であるゆまの一つ年上の兄だ。幼いころはゆまと実結ともよく遊んでくれたが、成長するにつれて蒼羽が引きこもり気味になってしまったこともあって、ここ何年かはあまり顔を合わせてはいなかった。

 よく見れば蒼羽のすっと通った鼻筋や小ぶりな輪郭のラインはゆまによく似ているし、目元や口元は彼ら兄妹の従姉妹である雫と似通っているように思われた。しばらく顔を合わせていなかったとはいえ、どうして気づかなかったのだろう。

 とはいえ、実結が知っている少し前までの蒼羽は、目元は分厚いレンズの眼鏡と長く伸びた前髪で隠れていて、いつも自信なさげに背中を丸めて歩いているような人物だった。学校にはあまり来ておらず、ゆまの家に遊びに行ったときにたまに顔を合わせても、俯いたまま小さな声で軽い挨拶を交わすだけで、もう何年もこうして会話など交わしてはいなかった。

 それに引きかえ、今の蒼羽はどうだろうか。柔らかそうなマッシュヘアにセンター分けした前髪。邪魔な眼鏡がなくなり、前髪が短くなったことで露わになった優しげなのにどこかミステリアスな双眸。俯いていたときにはわからなかった綺麗に整った顔立ち。美少女の部類であるゆまや美人の雫と血縁関係にあることを考えれば、わかりそうなはずなのに、記憶の中の蒼羽の姿とは似ても似つかなかったせいで目の前の男子生徒の正体に気づけなかった。せめて、芳野が一度くらい、蒼羽のことを苗字か名前で呼んでいたなら気付けたかもしれないのに、その機会に恵まれなかったのが運の尽きだった。

「僕が誰だか実結ちゃんが気づいていないような気はしていたんだけど、やっぱりだったね。実結ちゃん、久しぶり。前に顔を合わせたのは、冬休みくらいだったかな?」

「た、たぶん……」

 苦笑混じりの蒼羽の言葉にこくこくと実結は頷く。なんだか恥ずかしくて蒼羽の顔を直視できず、実結は窓の方へと視線を逃す。耳と頬が熱くなるのを感じる。胸の鼓動がどくどくと鳴る。こんなことなら、もう少し髪をちゃんとしてくるんだったと実結は後悔を覚えた。

「朝比奈くん、片岡さん。そろそろ六時だし、閉める準備してくれる? ……ってあら?」

 司書室で作業をしていた芳野が顔を見せ、二人へと声をかける。実結の顔を見ると芳野はおや、と片眉を上げ、

「もしかしなくてもお邪魔だった? ちゃんと後で職員室に鍵さえ返しておいてくれれば、閉館はゆっくりでいいよ」

 ごちそうさま、と目元をにやつかせながら、芳野は司書室へと戻っていった。

「そ、そういうんじゃないですから!」

 動揺した実結の声が芳野の背を追いかけていったが、青春っていいわねえという面白がるような言葉が返ってきただけだった。


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