第78話 エインズワース伯爵領にて ①
☆
オウルアイズ旧領を出発して三日。
私たちの馬車は、今回私が陛下から賜った旧東グラシメント王領……現「エインズワース伯爵領」に入っていた。
「『領境のリーネ川を渡ると、豊穣の大地だった』」
窓の外に広がる広大な畑を見ながら呟いた私に、首を傾げるアンナ。
「お嬢さま。なんですか、それ?」
「タイトルは忘れたけど、昔読んだ本に書いてあったのよ。まさにその通りの光景だと思わない?」
「確かに、『豊穣』って感じですね!」
アンナが納得したように頷く。
すると、それまで静かに考え事をしていたソフィアが顔を上げた。
「ユスナール・カーバタの『豊穣の大地』、冒頭の一節ですね。三十年ほど前に書かれた小説です。王都での暮らしに疲れた主人公が、逃げるようにやって来た田舎で人々と交流し、やがて王都へ帰ってゆくというストーリーですが、グラシメント地方の歴史や文化、人々の暮らしなどが事細かに描かれていて、非常に勉強になる本です」
「そうそう。そんな話だったわ」
私の言葉に、ソフィアが目を細める。
「お嬢さまは博識でいらっしゃいますね。あの本は、高い文学性から一部の貴族に評価されるようになったものの、元は婚約者がいる者同士の『禁断の恋』がテーマの大衆小説なのですが」
「うぐっ」
言葉に詰まる私。
確かに言われてみれば、回帰前、興味本位で王都の貸本屋で借りて読んだ記憶がある。
「そ、そんな内容だっけ?」
「はい。とても叙情的で美しい文章で綴られていますが」
表情を変えず頷くソフィア。
「じょ、情景描写がとても素敵だった記憶しかないわね」
「……成人されてからもう一度読まれると、また違った印象を持たれるかもしれませんね」
ソフィアのフォローがつらい。
「そ、そうね」
言いつつ目を逸らし、再び窓の外を眺める私。
「––––あ、街が見えてきた」
領都であるプリグラシムの街に着いたのは、それから間もなくのことだった。
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「ようこそプリグラシムへ。エインズワース伯爵閣下、長旅お疲れ様でした!」
オウルフォレストの街であったような仰々しい歓迎はなく、市門を守る衛兵数名の元気な挨拶に迎えられ、私たちの馬車は街に入る。
「なんだか、こぢんまりした街ですね」
窓の外の街並みを見ながらそんな感想を漏らしたアンナに、私は「そうね」と返す。
彼女の言う通り、プリグラシムの街はオウルフォレストと比べても一回りほど小さく、のんびりした空気が流れていた。
「でも、嫌いじゃないかな」
呟く私。
するとソフィアが口を開いた。
「これまで王家の直轄領でしたし、治安が安定し、災害がなければそれでよかったのでしょう。過去五年の収支報告書も見ましたが、治水と魔物討伐に予算が割かれていて、商工業関係の投資はあまりされてこなかったようです。また基幹産業が農業であることから、広大な農地の維持のため小規模の集落が点在しているのも『エインズワース領』の特徴ですね」
「なるほど。とても分かりやすいわ。さすがね、ソフィア」
私がそう言ってにっこり笑うと、彼女はわずかに視線を外し、「いえ……」と呟いた。
一見無愛想に見えるその仕草が、実は彼女の照れ隠しであることを、私はもう知っている。
その様子を見てニマニマしていると、彼女は「こほん」と小さく咳払いした。
「とはいえ、実際に見るのと帳簿や報告書に記載されている内容には、大きな開きがあります。今回の視察では難しいでしょうが、近いうちに領内の各集落の視察を実施させて頂きたいのですが、構いませんでしょうか?」
「もちろんよ。私も、これから一緒に生きていく皆の生活をきちんと見ておきたいと思ってたの」
そう返した私に、ソフィアがわずかに目を見開いた。
「お嬢さまも同行されるのですか?」
「当然よ。領主が行かないと視察の意味がないでしょ?」
「––––そうですね。本来、そうあるべきです」
そう言って視線を落とし、ぎゅっとこぶしを握るソフィア。
「?」
私が首を傾げると、今度はアンナがなぜか得意げな顔をする。
「ソフィアさん。私たち、恵まれてると思いませんか?」
その言葉に彼女は一言、
「はい」
とだけ答え、どこか嬉しそうな顔をしたのだった。
☆
「お待ちしておりました。エインズワース伯爵閣下」
それほど大きくなく、だけど瀟洒な佇まいのお屋敷に到着した私たちを出迎えたのは、見覚えのある中年の紳士だった。
「長旅、お疲れ様でした」
「お出迎えありがとうございます。ミオダイン子爵。王都でご挨拶頂いて以来ですね」
礼儀正しく立礼する子爵に、カーテシーで礼を返す私。
子爵は、東グラシメント王領を治めるために陛下が派遣した名代だ。
私の叙爵のあと、「引き継ぎもあるから」とわざわざうちの屋敷まで挨拶しに来てくれた。
まあ、ちゃんとした人だと思う。
彼自身は領地を持たない法衣貴族で、五年任期の五年目ということで、私が来なくてもあと数ヶ月で王都に戻ることになっていたらしい。
「オウルアイズ侯爵閣下も、ご無沙汰しております」
続いて後ろの馬車から降りてきたお父さまにも同様に挨拶をした子爵は、「お疲れでしょうから」と、すぐに部屋に案内してくれたのだった。
☆
ミオダイン子爵とそのご家族との夕食後。
私たちは談話室で軽くこれからの話をしていた。
「それでは、本当に一ヶ月で引き継ぎ作業を完了させる、ということでよろしいのでしょうか?」
「ええ。お子さまのためにも、早い方が良いでしょう?」
「これは……。お気遣い頂きありがとうございます。仰る通り、早く王都に戻ればその分しっかり学園入学に備えることができます。––––ですが、引き継ぐ資料は、それなりの量になるのですが……」
心配そうな顔をする子爵に、私は傍らで背筋を伸ばして座る、うちの自慢の行政官を振り返った。
「ソフィア。あなたの意見はどう?」
「王都で確認できる資料には全て目を通して来ました。一ヶ月後、お嬢さまがこちらに戻られるまでには引き継ぎを完了しておきます」
きっぱりと言いきるソフィア。
「––––ということらしいですわ。ミオダイン卿」
苦笑する私に、一瞬目を丸くしてソフィアを見た陛下の名代は、私と同じように苦笑いした。
「さすが噂に聞くウェストフォード子爵令嬢ですね。……分かりました。それでは私も気合いを入れて引き継ぎを頑張りましょう!」
こうして私たちは、引き継ぎのスケジュールを決めたのだった。