第40話 兎獣人は高く跳ぶ
「はッ! 何だよ、また性懲りも無く同じ戦術とは……ガッカリだな!」
三度、轟音を上げながら試合場内を飛び回り始めたピノラに、マナロは吐き捨てるように言い放った。
見るからに同じ戦術。
つい先ほどまで行われていた戦いと、何ら変わらない。
2度の迎撃に遭い、飛び回るピノラの速度はむしろ若干落ちてしまったようにさえ見える。
この後に目の当たりにするであろう光景を想像し、客席からも落胆の声が漏れている。
それでも、俺はピノラに指示を出し続けた。
「いいぞ、ピノラ……! これが最後のチャンスだ! 最高速まで加速するんだぁっ!」
アダマント製の武具を着けた状態で、これほど早く動けることは驚愕に値する。
だが、この高速移動戦術が破られてしまった事実に変わりは無い。
それでも、俺は指示を出し続けた。
「おい……ピノラちゃんの訓練士は、一体何を考えてやがるんだ……!?」
「さっきまでと全く同じじゃねえか……! ま、またマナロに反撃されちまうぞ!?」
「やめろぉ! これ以上、ピノラちゃんに痛い思いをさせるんじゃねぇよ!」
全く進歩のない指示を出したと見た客たちは、俺に対し非難の声を上げ始める。
確かに、通用しなかった戦術を幾度も獣闘士に強要するなど、訓練士として恥ずべき行為だ。
ピノラを故意に痛めつけていると見られても、仕方のない事かもしれない。
それでも、俺はピノラを真っ直ぐに見続けた。
そんな俺の後ろから、声が上がる。
「………………違う!」
非難の渦巻く客席から響く、低い声。
「アレンは、お嬢ちゃんに対してそんな指示を出すようなヤツじゃねえ。あいつは……そんな半端な訓練士じゃねえ!」
客席の皆が振り返る。
叫んでいたのはシュトルさんだった。
大勢の人間の視線を受け止めたシュトルさんは、それでも全く動じる事無く試合場内を睨みながら叫ぶ。
「あいつは、誰よりもお嬢ちゃんを信頼し、大切に思い……それでも尚、戦いの場へ送り出せるヤツなんだっ! そんなアレンが、お嬢ちゃんにそんなクソッタレな指示を出すワケ無えだろおっ!」
灰色の瞳が光る。
初老とは思えぬ程の鋭い眼光を放つシュトルさんに、周囲で非難をしていた観客たちは気圧されるように押し黙った。
伝説の訓練士、シュトル=アルマローネの声に、固唾を飲む。
そんな中でも、ピノラは壁を蹴り、ますます速度を上げていた。
「今だ、ピノラぁぁぁっ!!!!」
「うわああああああああああっ!!」
大絶叫とともに、ピノラが壁を蹴る。
響き渡る轟音。
動く、マナロの両耳。
マナロは瞬時にその音を捉え、迎撃のために振り向いた。
その速度は、3度目の今回は今までの迎撃よりもはるかに早い。
「さぁ、来な! こいつでフィナーレにしようじゃないか、ピノラぁぁ!!!」
素早く身体の向きを変え、低い姿勢をとるマナロ。
爪はしっかりと地面に食い込んでおり、次の一瞬でどの方向にも飛べるよう準備も整っている。
完璧な迎撃体制だ。
だが
「な、にッ…………!?」
余裕たっぷりに正面を見据えていたマナロは、驚愕のあまり目を見開いた。
振り返った先には、壁を蹴って飛んだピノラの影があった。
だがその軌道が、明らかにおかしい。
高すぎるのだ。
放物線を描きながら上空を飛んでいくピノラは、マナロのはるか上を通過するような勢いで高く飛び上がった。
「そんな高く飛んで……どうするつもりだ……!?」
テンプルキックを狙った時よりも、はるかに高い軌道。
マナロが全力で飛んでも届かない程の高さだ。
確かにこれほど高い場所にいれば、反撃に遭う事は無い。
だがそれは同時に、ピノラ自身も攻撃を当てられない事を意味する。
タイミングをずらす為のハイジャンプか、それとも次の攻撃の布石か…………
マナロはそう思いながら、上空を見上げていた事だろう。
そしてピノラは、覚悟を決めた瞳でマナロを見下ろした。
「く、ああああああああああああああっっっ!!!!」
力いっぱいのピノラの叫びが響く。
次の瞬間────────ピノラが上空で身体を捻る。
すると、見上げていたマナロの顔に何か落ちてきた。
「うッ……!?」
それはマナロの顔に当たったものの、怯ませるほどの威力すら無い。
しかしそれは、彼女をこの上なく不自由にさせるものだった。
「な、何が…………!?」
白銀の体毛が生える手の甲で、思わず拭う。
そしてすぐにその正体に気付いた。
全身の毛が逆立つ。
「血、だと……!!??」
落下してきたのは、紛れもない血液。
見れば、ピノラの左上腕の皮膚が破れ、そこから夥しい量の血が滴り落ちいていた。
マナロの上を通過する直前、ピノラは自身の歯で、武具の隙間にあった上腕に齧り付き、皮膚を噛み切っていたのだ。
いつも可愛らしいピノラが、まるで肉食獣人のように目を剥き、歯を食いしばっている。
自分の腕を噛み切るなど、並大抵の覚悟では出来ない。
だがピノラは、やってみせた。
ピノラの血液は、彼女が通過した場所に沿って落下してゆく。
マナロの顔に付着したほか、迎撃のために立っていた場所の周囲の地面にも赤い染みを作る。
壁を蹴って折り返してきたピノラは、尚も血液を撒き散らす。
痛みを堪えながら飛び交うピノラの目には、涙が溢れている。
速度も最高速から数段落ちてしまった。
しかし、闘技場の中央で身構えるマナロは、先ほどまでとは打って変わって、見るからに狼狽していた。
眉間に皺を寄せ、身を固くするマナロを見て……訓練士であるプレシオーネは不審に思い叫ぶ。
「ど、どうしたんだマナロッ!? 兎獣人の速度が落ちている! 今なら叩き落とせるだろう!?」
訓練士席から怒号を発するプレシオーネだが……マナロはまるで怯えているかのように肩をすくませて叫んだ。
「わ、解らない……ッ! 血のニオイが強すぎて、ど、どこにいるか解らないんだよぉぉっ!」
マナロは顔を青ざめさせて答えた。
そう、ピノラが自身の腕を噛み切ったのは、出血を周囲に撒き散らすことでニオイで索敵をするマナロの嗅覚を封じる為だ。
たった数滴の血液から発せられる血液の匂いなど、高が知れている。
しかし獣人族トップクラスの嗅覚を持つと言われる狼獣人族のマナロにとって、周囲に落ちた血液の匂いは決して無視することができない障害となる。
闘技場内の地面のほか、マナロ自身にも付着した血液は強烈な鉄の匂いを発し、狼獣人最大の武器であり、迎撃の要でもある嗅覚を撹乱する。
ようやくその目的に気付いたプレシオーネは、中央で右往左往するマナロに指示を叫んだ。
「お、落ち着けッ! お前にはまだ優れた聴覚があるだろうがっ……!」
その言葉通り、マナロは左手で鼻を押さえつつ、ピノラの血液で汚れた耳を動かし始めた。
血を撒き散らしながら飛び跳ねるピノラが壁を蹴るたびに、びくりと身体を強張らせつつも耳を傾ける。
今までと同じように、ピノラが攻撃のために強く壁を蹴る音を探っているようだ。
だが、ピノラの取った行動はそれすらも凌駕していった。
「行くよぉぉぉっ! マナロさぁんっっ!!!!」
左腕の痛みを堪えながら、ピノラが叫ぶ。
これから攻撃を仕掛けると言わんばかりのピノラの宣言に、いつの間にか汗だくになっていたマナロはにやりと笑う。
「はッ……! バカなヤツめ! 攻撃前に宣言するなんて、『反撃してくれ』と言ってるようなものじゃ────────」
声のした方向に素早く身体を向けようとしたマナロだったが……
その直後、闘技場内の『3箇所』から同時に轟音が鳴り響いた。
「えっ…………!? えぇっ!!?」
思わず身を強張らせたマナロは、尻尾の毛まで逆立てる。
「お、『音』が3つも…………!? 何故…………!?」
ピノラの突撃を察知するため、聴覚に頼りきっていたマナロは、突如聞こえた複数の衝突音に耳を疑った。
この音は、間違いなく壁に何かが当たった音だ。
鈍い音と鋭い音の混ざったような音は、ピノラの武具に使用されているアダマントと、闘技場の壁がぶつかり合った時に発するものに他ならない。
それが3つ同時に聞こえる事など、予想外だ。
マナロはピノラの姿を捉えられていない。
3つの音を聞いてしまった彼女の頭には、3人に増えたピノラが一斉に飛びかかろうとしている光景が浮かんできた。
一撃で獅子獣人や熊獣人をも沈めるほどの威力を持った蹴りが、同時に3発も……。
「ひ…………っ!?」
1発でも喰らえば致命傷になりかねない蹴りが迫っている恐怖を感じ、マナロは短い悲鳴をあげつつ、3つの音のうちひとつがした方向を凝視する。
そこで、彼女が目にしたのは…………
なんと、闘技場に壁に叩きつけられ、今まさに地面に落ちようとしていた、アダマント製の鉄手甲だった。
「あ、あれは……!? ま、まさか防具だけ……!!?」
慌ててもう一方向も見ると、同じように黒光りしている武具が地面に横たわっていた。
ピノラは自身の血でマナロの嗅覚を封じたあと、両腕に装備していた武具を外していた。
そしてそれを空中で放り投げ、闘技場内の対角にある壁に叩きつけたのだ。
自分自身が壁に着地するのとほぼ同時に落下したアダマント製の武具は、大きな音を立てて地面に転がっていった。
その音は、あたかもピノラが三方向へ着地したかのように聞こえる。
それはマナロの聴覚による索敵を無効化するには、十分なものだった。
嗅覚を封じられ、聴覚を惑わされ────────
マナロは残された視覚で、音のした場所を見る。
だがそこには、すでにピノラの姿は無い。
「ど、どこだぁぁっ!? どこに行ったあああああああぁぁぁっ!!?」
直前まで完全に迎撃できると慢心していたマナロは、ピノラを見失い叫ぶ。
大慌てで、ぐるりと周囲を見回す。
1回転するほど見たはずだが、それでもピノラの姿は見えない。
水平方向には居ない。
いや、よく見れば観客たちの様子がおかしい。
皆、一様に上を見上げている。
「マナロっ! 上だ! 上にいるぞおおおおおおおおっ!!」
プレシオーネの叫びを聞いて全身の毛を逆立てたマナロは、慌てて上空を見上げた。
だが彼女の最後にとったその行為が、勝負を決する事となった。
言葉すら発する間もなく顔を上げたマナロの目には、何も見えなかった。
闘技場を容赦なく照りつける火蜥蜴の月の陽光が、索敵のために見開いていたマナロの網膜を焼いたのだ。
不用意に上空を見てしまったことで、マナロは最後の頼りであった視覚さえも失う事になってしまった。
「っ……!? み、見えないいいいっ!?」
光を遮るよう、割れた爪のついた右手を翳すマナロだったが……手遅れだ。
陽光の中央から迫り来る影。
マナロから見て、まるで光の中から出てきたような光景とともに、ピノラが上空から落下してきたのだった。
「たあああああああああああああああああああああああっっ!!!!」
陽光を背にし、落下による加速を得たピノラは、自らの手で視界を遮ってしまったマナロの顎先を正確に蹴り抜いた。
真上から踏みつけるように落下すると、そのままマナロの頭を闘技場の地面へと叩きつける。
上空に飛び上がったことで壁を蹴った際の速度を失ってしまっていたピノラだったが、彼女の体重にアダマントの重みが加わった重力加速による一撃は、着地と同時に巨大な砂埃を巻き上げた。
濛々と舞う砂塵。
闘技場にいる観客たちは、誰も一言も発する事なく中央を見つめている。
次第に視界が晴れる…………
そこにあったのは
地面に仰向けに倒れ、完全に気を失っているマナロと
その傍らに立ち、左腕を押さえながら微笑んでいる兎獣人……ピノラの姿だった。




