第27話 開幕
見上げた空は青色が濃く、降り注ぐ陽光は肌を焼く。
はるか遠くに見える山脈の頂きから伸びる雲は、大きな白い塊となって背を高くしている。
この時期、石の街サンティカでは道路に陽炎が立つほどに気温が上昇する。
だがそのぐんぐんと上がる気温と共に、人々の熱気もまた最高潮に達しようとしていた。
ついに、この日がやってきた。
魔草花の月が終わり、今日は火蜥蜴の月、第3週。
闘技会の開催日である。
本日から月末まで、サンティカをはじめ周辺の街々も長い祭日扱いとなるため、サンティカの中央にある闘技場には3ヶ月前に開催された時と同じく大勢の人間が詰めかけている。
それ程までに闘技会は人々の娯楽として広く市民たちに受け入れられているのだ。
闘技場の入場口のほか周辺の道にまで多くの屋台が出ており、年4回開催される闘技会の経済効果というものは計り知れない。
茹だるような熱気だと言うのに、3万人を収容できる闘技場の観戦券は既に完売との事だ。
そんな華やかな音楽と人々の喜悦の声が響く闘技場の地下────────
地表の熱気から隔絶されたような、周辺よりもずっと静かな選手控室で、俺とピノラは向かい合っていた。
「…………よし、これで良い」
「トレーナーっ、ありがとうっ!」
銀色の武具に身を包んだピノラと、協会認定訓練士の証でもある薄手の外套を纏った俺は、互いの顔を見合った。
ヴェセットにあるシュトルさんの家を出てから、5日。
生活サイクルの修正と、リラックスのためのストレッチに費やしたおかげで、今朝の目覚めはバッチリだった。
爛々と目を輝かせるピノラに、笑顔で問いかける。
「ピノラ、きつくないか?」
「うんっ! だいじょうぶ!」
俺はピノラの腕に装着された鉄手甲の留め具から手を離す。
ピノラがこいつを初めて装備してからまだ1ヶ月ちょっとしか経過していないはずだが、留め具の革は表面が少し擦り切れ始めている。
前腕部の装甲も、肘当てにも、いくつも傷が付いている。
これは、今日この日までピノラが努力を積み重ねてきた証だ。
寂しい思いをしながらも、俺とともに夢を掴むために耐えてくれていた証なのだ。
努力が全て報われる訳では無いという事は、知っている。
それでも、願わずにはいられない。
この傷ひとつひとつに宿るピノラの決意が、実りますように。
そして今日からこの傷が、ピノラを栄光へと導いてくれますように。
「よし…………ピノラ、準備はいいか」
「うんっ! いつもと同じ闘技会なのに、いつもと違うかんじがするっ!」
パキンという甲高い音を響かせてバックルを留めると、俺はベンチに腰掛けるピノラに対し、片膝を着いて屈みながら問いかけた。
待ちきれないかのように跳ねるピノラの鮮やかに赤く光る瞳は、興奮で瞳孔が大きくなっているのか、いつもより大きく見える。
「ピノラ……いつもなら、俺はこの部屋に来るといつもピノラが怪我をしないか心配ばかりしていた」
立てていた膝を押し、立ち上がる。
それに合わせて、ピノラも同時に腰を上げた。
勢い良く立ったピノラだが、鉄手甲や鉄靴からは擦れるような音はしない。
ピノラの手足に、完全に密着しているようだ。
ヴェセットの鍛冶屋は、素晴らしい仕事をしてくれたようだ。
俺は金属に包まれたピノラの手を取り、握り締めた。
「けど、今日はピノラが全力を出せる事を祈ってる……遠慮なんかしなくていい、全てをぶつけて来い!」
「はいっ!!」
頷くピノラの瞳が、天窓から差し込む陽光を反射して輝く。
宝石のように赤いその瞳に、今日は炎が宿っているようにさえ見える。
これから共に歩む為に戦う事を決意してくれたこの目を、俺はいつだって信じている。
ふと、急にピノラが唇を結んだ。
「どうした?」
「んー……あ、あの、えぇと…………えっとね……」
ピノラの手が、俺の手を握り返してくる。
真っ直ぐに俺の顔を見つめていたが、今はやや俯き上目遣いで見上げてくる。
可愛らしい仕草に見惚れていると、ピノラは遠慮がちな声で呟いた。
「ト、トレーナー……ぎゅって、して欲しい……」
「あぁ、そういう事か。よし ──────」
俺はピノラの背に手を回すと、強めの力で彼女を抱きしめた。
彼女の装備している胸甲は、軽量化のために肩甲骨の周辺は金属板で覆われていない。
背中を抱えながら、もう片方の手でピノラの後頭部を抱き寄せる。
俺の鎖骨あたりに顔を埋めたピノラは、小さく声を上げた。
「ふぁ………………」
「…………頑張れ、ピノラ。でも無茶はするなよ。試合に勝ったら、もっといっぱい抱っこしような」
「……うんっ! えへへ…………!」
抱き合ったまますんすんと俺の衣服の匂いを嗅いでいたピノラだったが、扉の外から入場時間を知らせるベルの音が聞こえると、そっと顔を離した。
ピノラは頬をほんのりと紅潮させていたが、満面の笑みを浮かべると両手で握り拳を作ると、元気いっぱいの声で叫ぶ。
「それじゃ、行ってきまーーーーすっ!!」
手を振るピノラは、控室の扉を勢いよく押して出て行った。
彼女の体温と香りの残る手のひらを見つめながら、俺はその手をギュッと握る。
いつもの闘技会と、同じ控室。
だが今回は、いつもの闘技会とは違う何かを感じている。
試合前に訓練士としてやるべき事は、全てやった。
あと俺に出来る事と言えば、ピノラを信じる事。
そして……
「さぁ、俺も行くか!」
訓練士のために用意された観戦席で、ピノラの応援をする事だ。
俺はピノラの出て行った扉を開け、観戦席に繋がる階段を駆け上がった。
◆ ◆ ◆
火蜥蜴の月は、酷暑の季節。
石造りの闘技場は、陽光による熱で陽炎が立ち登るほどに暑くなる。
観客席の最上段から、最前席に立てられた巨大な四角錐状の方尖柱の先端まで繋がれた大きな天幕により客席には日陰ができているものの、強い日差しは容赦なく気温を上げていく。
年4回開催される闘技会の中で最も暑く、麦酒がよく売れる大会である。
そんな過酷な暑さでも、3万を超える観衆が客席をほぼ埋め尽くしているあたり、サンティカの人々にとってこの闘技会がいかに注目されているのかが解るというものだ。
客席から見下ろす中央の広場では、直前まで開会前のセレモニーが行われていたようだ。
華やかな衣装に身を包んだ獣人族の女性たちが、手を振りながら袖へと退場して行くのが見える。
そんな闘技場の中央、広い円形のフィールドに、ひとりの男性が立つ。
次第に客席からの話声が静まるのを見計らって、声を張り上げた。
『ご来場の皆様ッ、大変長らくお待たせ致しましたッ! サンティカ市民の皆様は朝から…………いいえ、前回闘技会の閉幕からずうぅぅっと待ち続けていた事でしょうッ!』
俺はそれを、出場する獣闘士の訓練士用として設けられた最前列の席で聞く。
よく響く声。
闘技会の協会に所属する、大会進行役の男だ。
この巨大な闘技場であっても、中央で叫ぶ彼の声はよく聞こえる。
これはあの男が喉を鍛えているのもあるだろうが、闘技場の構造自体が周囲に音を伝える造りになっているためだ。
もともとこの闘技場は古代のサンティカで統治者が娯楽として催し物を行い、その際に政治的なアピールをするために建設されたものだと言われている。
進行役の男が立っているあの場所から声を張れば、この闘技場内の客席の隅々にまで声が届くように音の反響を考慮した設計となっている。
何百年の前に建てられたこの闘技場に、そのような技術が使われていることに驚きを禁じ得ない。
『今季の闘技会も、このサンティカに所属する16人の戦士が集いました! ここにッ、第108回闘技会、サンティカ杯を開催致しますッッ!!』
開会宣言と同時に、空席の見えない客席からは地割れのような歓声が湧き上がる。
訓練士用の席にある手すりを握りしめ、俺は反対側にある巨大な鉄の扉を凝視した。
『只今より、1回戦第1試合を行います!! 月光の門より出たるは……灼熱の炎天下こそ我が本領! 堅牢な鱗を誇る蜥蜴獣人ッ! “妖艶の女蜥蜴”ルチェット選手!!」
中央の広場に繋がる大きな2枚の鉄扉のうち、片方が開け放たれる。
そこから出てきたのは、全身に黄土色の鱗を生やしたひとりの獣人。
このサンティカの闘技会では常連の蜥蜴獣人族、ルチェット選手だ。
女性らしい小顔にやや大きめの目が光っており、顔の一部や手のひらを除き、身体の大部分を厚みのある鱗が覆っている。
それは彼女の腰から伸びる太い尻尾にも及んでおり、頑丈そうな表面はぬらりと陽光を反射している。
その鱗に任せた防御力に定評のある選手であり、そのため装備はごく軽量。
一見して生身のようにさえ見えるものの、彼女の鱗の前では生半可な攻撃は通用しない。
腹部を覆う革鎧のほか、関節部を保護する部分鎧を装着しているだけだが……その全身から漂う堅牢さは見るものを圧倒する。
右手に持つ武器は刃引きされた曲刀で、ルチェットはこれを武器としてのほか、盾としても使う。
炎天下の暑さもまるで意に介しいていないかのように目を細めると、細長い舌を出してにたりと笑った。
その様子を見て、俺はごくりと喉を鳴らして唾を飲む。
よりによって1回戦の相手が、彼女とは。
彼女は、強敵だ。
俺たちが初戦敗退した3ヶ月前の闘技会でも、確か準決勝まで進んだほどの実力者である。
『そして、陽光の門より出たるは……ッ! 今季も登場! 挫けぬ笑顔の兎獣人ッ! “不屈の白兎” ピノラ選手ううううッ!!」
閉ざされていた、もう片方の扉が開け放たれる。
一際大きくなった歓声の中、ピノラが飛び出てきた。
彼女はゆっくりと歩いて登場したルチェット選手と違い、両足で元気よく跳ねている。
闘技会におけるピノラの人気は凄まじいもので、その姿を見ただけで客席からは口笛のようなものまで聞こえてくるほどだ。
「うおおおっ! ピノラちゃんだ! 最近、街中で見かけなかったから心配してたんだよ……!」
「あぁ、今季の闘技会にも出てきてくれて、良かったなぁ! あの子がいないと、闘技会が始まった気がしねぇよ!」
「あれ……? お、おい……ピノラちゃん、新しい武具にしたのか? と、というか……武器を持ってねぇぞ!?」
「えぇ!? ほ、本当だ! いつもの長剣はどうしたんだ!? ま、まさか忘れてきちまったのかぁ!?」
観客席から様々な声が飛び出し、最前列にある俺の訓練士用の席まで聞こえてくる。
「どうなってるんだ?」と問い詰めるような視線が、最前列にいる俺の背中に突き刺さっているのを感じる。
だがそんな歓声と響めきが入り混じる闘技場の場内でも、ピノラは静かに佇んでいた。
いつもなら客席からの声援に応えて、両手を振ることの多いピノラなのだが……今日はいつもと違う。
両手を握りしめ、白い両耳をぴんと立てながら、正面にいるルチェットを真っ直ぐに見据えている。
いつもなら笑顔が覗く場面なのだが、表情が固いな……いつになく緊張しているのだろうか。
先に闘技場の中央に到着したピノラに対し、ルチェットがゆっくりと歩み寄る。
「こんにちは、ウサギちゃん。今季も休まず出場とは、ご苦労なこったねぇ」
余裕を感じさせる笑顔で語りかけるルチェットは、細い舌を見せつけるかのように口を開いた。
ルチェットとピノラは、過去の2年間で一度対戦をしている。
結果は惨敗で、ピノラが主戦法としていた反復横跳びによる撹乱作戦をものともせず、曲刀で迎撃されてしまった事がある。
蜥蜴獣人は獣人の中でも特に動体視力と機動力に優れた種族で、ピノラの素早い横移動も全て読まれていたような試合だったのを覚えている。
瞬発力が強みの兎獣人にとっては、まさに天敵とも言える存在だ。
それに対し、ピノラは口を固く結びルチェットを睨み返している。
いつも可愛らしいピノラだが……こんな表情は初めて見る。
愛らしさの中に、静かに燃える闘志を感じる。
返事をしないピノラに、ルチェットは顔を顰めてみせた。
「フン! 万年勝ち星なしの最弱獣闘士のくせに、ご登場だけでこの歓声とは……ホント、気に入らないね! またいつかみたいに、こいつでふっ飛ばしてやるから覚悟しなぁ!!」
そう言ってルチェットは、ピノラの眼前に刃引きの曲刀を突き付ける。
客席では一層の歓声が上がるが、それでもピノラは微動だにしない。
まるで石像にでもなってしまったかのようだ。
ま、まさかとは思うが……緊張か恐怖で動けなくなっているのか……!?
「ピノラっ………………!!」
響めきと歓声の入り混じる会場で、たまらず俺は訓練士用として用意された席から身を乗り出して叫ぶ。
だが、それは無用な心配だった。
俺の声が耳に届いたのか、ピノラはぴくりと肩を上げると、観客席の最前列にいる俺の顔を振り返った。
そして大きく開いた瞳で真っ直ぐに俺を見て、にっこりと微笑んだのだ。
身がすくんでいるのかと心配していた俺は、突然のピノラの笑顔を見て呆然としてしまった。
だがすぐに、俺も笑みを返す。
あれは緊張なんかじゃなかったんだな。
そうだ、ピノラは強い気持ちを持った、俺のパートナーなんだ。
闘技場の中央にいた、進行役の男が下がっていく。
いよいよ試合開始だ。
「頑張れ、ピノラ……! お前の持つ全てを、相手にぶつけてこい!!」
そして3万人の観客たちに……お前の強さを見せつけてやれ!!




