母さんとケンカした。その日、母さんは倒れた。
「雄太~! 朝ごはんできたわよ。降りてきなさい!」
「あいよ」
雄太と呼ばれた少年は、寝ぐせでぼさぼさな髪の毛にはだけたパジャマ姿だった。目をごしごしとこすり、大あくびをしながら階段を下りてくる。
ダイニングテーブルに用意された朝ごはんのパンをポケーとしながら食べる。そして、テレビに流れていた朝のニュースを惰性で眺めていた。
『続いてのニュースです。歌手として活動していた○○さんが——』
「おっ、俺の推しじゃん。なんかニュースに出るってなんかあったのか?」
『亡くなっていたことが分かりました』
「は?」
雄太は持っていたパンを落としてしまった。だが、そんなことにも気が付く余裕は雄太には無かった。雄太は何度も目をこすり、見間違いではないのかと確認した。しかし、画面の文字が変わることは無かった。
まず始めに雄太に浮かんだ感情は困惑だった。
何を言っているのか理解できない。間違いじゃないのか。質の悪いドッキリなのではないか。しかし、そんな期待はスマホで調べた瞬間に潰えた。
推しの死因、死んだ日、関係者の追悼コメント。そんな求めてもいない情報の洪水が雄太に「推しが本当に死んだ」という絶望と共に襲った。
「あ、ああ、なんで。どうして。好きだったのに。どおして?」
消え入るような声と共に、雄太の目からは涙がこぼれていた。
雄太は自分の内にあるこの感情がなんだか分からなかった。
胸に鋭い痛みがする。思考が纏まらない。心がぽっかりと穴が開いたような感じがする。これはなんだ。
雄太にとって、知っている人が死ぬのは初めての事だ。遠い親戚の葬式に出たことはあったが、ほとんど面識のない人だった。だから分からない。
だからか、雄太にとって死ぬということは不思議な事象だった。いつか訪れる事は分かってはいるが、実感がわかない。どこか他人事のように感じていた。だから分からないのだ。
雄太は、始めて身近な人が死んだ事にショックを受けていた。
しかし、時間というのは無情だ。どんなに辛くても、どんなに苦しくても。どんな人だろうと平等に時を刻む。学校の時間が迫ってきていた。
雄太はフラフラと亡霊のような歩みで母親の元へ向かった。雄太は纏まらない思考の中で「泣いていたことがバレるのは嫌だ」となんとなく思った。溢れる涙をパジャマの袖で拭い、再び歩みを進める。
朝の支度をする母のもとに着く。雄太は震える唇を何とか抑え、できるだけいつも通りに母に話しかけた。
「母ちゃん、俺今日学校休むから」
「はあ? あんた、また休むなんて言っているの? 別に病気しているわけでもないのに」
「いや、そーゆうのじゃなくて」
「じゃあなんだって言うのよ!」
雄太には余裕が無かった。そのためか、母への言葉や、仕草、行動がかなり雑になっていた。
そんな様子の雄太に母は、カチンと来てしまった。母は、ゴニョニョと言いどもる雄太に怒鳴る。
そんな母に、雄太もイラっとする。年齢も思春期真っただ中だ。推しが死んだことで、精神が不安定だったことも拍子をかけた。
えもいわれぬ感情に支配されていた雄太の感情は、怒り一色に染められる。
「だから、違うって言ってんだろうがよ!」
「はあ!? だから、何が違うのか言えて言ってるんでしょうよ! あんたが『俺学校休むから』って言ってちゃんとした理由があった事なんてあった!? 毎回毎回サボりだったじゃないの!」
「だーかーら、今回は違うつーの!」
「もういいわ。雄太を今日休ませる事はありません。ちゃんと学校にいきなさい。以上」
「はっ!? はー!? ふざけんじゃねえよ!」
母は、もう聞く耳を持ちませんとばかりに雄太を無視し始めた。
雄太は怒りのやり場を急に失い「クソがよッ!」と捨て台詞を吐き部屋に戻っていった。
雄太は自分の部屋に戻り、頭をかきむしった。そして、怒りのままに暴言を吐く。
「くそっ! なんなんだよ。ムカつくなッ!」
雄太の心は煮えたぎるような怒りで支配されていた。
どうして理解してくれないのか。今回は違うと言ったのに、サボりと決めつけられたのがムカついた。今までサボっていた自分が悪いと分かるから、余計にやるせない怒りを覚える。やり場のない、抱えきれないほどの怒りに支配される。
ただでさえ不安定だった雄太の心は、怒りに飲み込まれる。
やがて雄太自身が思っていないことをも言い始める。
「あんな親がわりぃんだ。そうだ。そうなんだ」
雄太は自分に言い聞かせるように言葉を反芻する。そして、勢いのままに言った。言ってしまった。その言葉を吐いた瞬間、雄太は後悔する事となるだろう。それは、越えてはいけない一線だった。しかし、怒りに飲まれる雄太には。自暴自棄になっている雄太にはその言葉を言うことを辞めることはできなかった。
彼はこう呟いた。
「あんな母ちゃんなんて。死んじまえばいいのに」
その言葉を吐いた瞬間、雄太の心の中に煮えたぎっていた怒りが一瞬にして醒めた。
雄太はピタリと動きを止めた。
朝に見たショックなニュースのことを思い返す。推しが死んでしまうというニュースだ。
雄太の心には一つの疑問が浮かんだ。
「母ちゃんも死んじゃうのかな」
口に出した瞬間、雄太はぶるっと震えた。想像出来なかった。そんなこと、考えもしなかった。一つの疑問が魚の小骨のように心に突き刺さって離れない。
雄太は思考の渦に飲まれていった。しかし、そこから引きずり出す声が下から響いてきた。
「雄太ッ! 学校の時間よ!」
「……ッ。分かったよ」
雄太は、大人しく制服に着替え学校の準備を済ませる。階段を下りていき、母から逃げるように玄関に向かった。そして、靴を履き急いで家から出て行った。
母は、そんな雄太の様子に呆れた目をする。そして、どこか嬉しそうに送り出した。
「いってらっしゃい」
最後の授業のチャイムが鳴る。
雄太にとって今日は普段と何も変わらない一日だった。いつもの友達と駄弁り、眠い授業を受け、そして終わる。いつも通りの日常だ。
しかし、その日常が雄太にはどうしようもないほど辛かった。
自分の推しが死んだのに、何も変わることは無い。自分にとっては何にも代えられないほど辛いの日なのに、周りからしたら特に変わることのない、いつも通りの一日だ。
そんな鬱々とした思考をしている雄太に近づく人影があった。
「雄太ぁ~今日遊ぼうぜ」
「あー? 朝日、今日部活は?」
「顧問の用事? かなんかで無いんだよ。なあ、せっかく時間あるし遊ばね?」
「おー。いいじゃん、遊ぶかぁ!」
雄太の親友である朝日だった。
朝日は、休み嬉しいと言わんばかりの笑顔で雄太に話しかけてきた。雄太は陰鬱とした思考を打ち切り、朝日との遊びに頭を切り替えた。
「朝日、今日どこ行く?」
「俺、映画みてー」
「カラオケとかどーよ」
雄太はカラオケを、朝日は映画を提案する。意見が分かれた。
二人は顔を見合わせ、ニヤッと笑い腕まくりをする。部活で鍛えられた二人の筋肉が露わになる。首を左右に揺らし、小刻みにジャンプしだす。そして、二人の腕が振り上げられる——ッ!
『じゃんけんぽん!』
「よっしゃー! カラオケに決まりぃ!」
「くっそーおおぉ。映画見たかったんだけどなぁ」
「映画は今度遊ぶときな。また遊べば良いだろ」
「お、雄太良いこと言うじゃん」
褒められた雄太はまんざらでもなさそうな顔を浮かべ、帰る準備をしていた。朝日はそんな雄太を無視して、帰る準備をしだした。ホームルームが終わった瞬間、二人は一目散に教室から走り出した。
学校から出た二人を迎えたのはカンカン照りの太陽だった。見慣れた通学路が灼熱地獄に変わっていた。
雄太と朝日は、目を細め流れてくる汗を手で拭った。
「しっかし、バカみたいに暑いな」
「それ。アイスくいてー。朝日、コンビニよろーぜ」
「おーいいじゃん。雄太天才」
「ふはは! 俺様を崇めたまえ」
「ははー! ありがたやー」
二人は特に意味のないに話しながら、コンビニに向かって行った。
近くにあったコンビニに寄り、アイスを買う。外袋はコンビニで捨ててった。二人はアイスを咥えながらまた歩き出した。
「雄太それうまい?」
「うめーぞ。食うか?」
「おっ、おりがと。って、うめーなこれ!」
「だろ。って、全部食べるなよ!」
「あっ、つい。俺のあげるから許して」
「ついじゃねーよ! ついじゃ! ったく」
雄太は朝日が食べていたアイスをひったくり、ガリガリと食べる。
朝日は「これも結構いけるな」等々ゴニョゴニョ言っている雄太を嬉しそうに横目で見てから、ポケーとしながら周りを眺め始めた。
そんなこんなしているうちに雄太は、朝日のだったアイスを食べ終わる。アイスは買ってから五分もたたず無くなった。
ポケーっと周りを眺めていた朝日がとある発見をして、目を見張る。今発見した事を雄太に伝えるため、小声で雄太の耳元に話しかけた。
「雄太、雄太」
「なんだよ、暑苦しい。ただでさえ暑いのに寄ってくんなよ」
「あそこの子めっちゃ可愛くね?」
「よし、聞こう」
雄太は接近してくる親友を拒絶していたが、かわいい子と聞いて速攻で手のひらを返した。
二人は例の美少女にバレない様に木陰に身を潜めあった。
「どこどこ」
「ほら、あそこの子」
「マジじゃん、お前話しかけに行けよ」
雄太は朝日を肘で小突いた。二人の顔は美少女発見のお陰か、だらしない。
しかし次の瞬間、雄太の顔は真顔になった。そして、顔の表情を一切変えず朝日の肩に手を置いた。
「朝日、残念なお知らせだ」
「お? 雄太、どうした?」
「朝日、その子の隣をしっかり見てみろ」
「あぁ? って、彼氏いるじゃねーかよ!」
朝日の渾身の叫びである。朝日は木陰から飛び出し、「怒ってます!」と言わんばかりにズンズンと歩き出した。
「くそっ! 俺も美少女の彼女が欲しい。てか、美少女じゃ無くていいから彼女欲しい」
「それな? いや、ほんとそれな?」
「あーどっかに彼女落ちてねーかなー」
「それ、お前のじゃないから交番に届けるんだぞ」
「貴様、俺に夢も見せないと言うのか!」
そんなこんなしている内に、雄太と朝日は目的地であるカラオケに到着した。
二人はカラオケへと入っていく。
「うおー! すっずしー! 生き返るわー」
「あぁ、至福」
「雄太、おまえジジイみてーだな」
「お? 貴様やるか?」
コンビニ以来の冷気に雄太と朝日はワイワイ騒ぐ。あの灼熱地獄から解放され、二人のテンションもマックスだ。
二人は意気揚々と店内に入っていき、慣れた足取りで受付へと向かった。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「あ、二人でーす」
「プランがこちらから選べますが、いかがでしょうか」
「朝日、どーする?」
「いつまでいるか知らんし、フリータイムで良いんじゃね?」
雄太は店員さんとコースやら何やらを頼み、ドリンクバーの為のコップを受け取る。部屋の番号を教えてもらい、朝日と一緒に部屋に向かった。
朝日が、カラオケの部屋を勢いよく開け叫んだ。
「おっしゃー! 歌うぜよ!」
「どこの龍馬だよ」
「日本の夜明けぜよ!」
「うるせえ」
「いてっ」
雄太は朝日にチョップを入れ、部屋に入っていった。雄太はソファーにどかりと座り、荷物を端に置き、汗をぬぐった。
学校帰りのため、意外と大荷物なのだ。
朝日も雄太と同じ場所に荷物を置き、隣に座った。
「俺、待てるからお前飲み物持って来いよ」
「おー! 雄太ありがと。雄太は飲み物なにがいい?」
「んー、コーラ頼めるか?」
「オッケー。よっしゃあ! 野郎どもドリンクバーに突撃だ!」
「一人だろうがよ」
元気に出ていく朝日の様子に雄太は笑う。
朝日は勢いよく扉を出て、ドリンクバーに向かった。そして、そこで朝日はふと思った。「俺、パシリにされてね?」と。
朝日は雄太に良い感じに騙されて、飲み物を取りに行かされていることに気が付いた。その瞬間、朝日は雄太のために入れたコーラを一気飲みした。
雄太はほんの少しの仕返しをするため、とあるものを作り出したのだった。
そして、朝日は何事もなかったかのようにカラオケの部屋に戻って行く。
「おかえり」
「おうっ! はい、コーラ」
「ありがとー」
道中の暑さで喉が渇いていた雄太は、朝日が持ってきてくれたブツをグビグビと飲みだした。
朝日はその様子を確認して、ニヤリとほくそ笑む。
雄太は舌から、喉から猛烈に訴えてくる違和感に襲われる。
「おまッ! これッ! ごほ、ゴホゴホ」
「雄太、俺様特製のカクテルの味はどうだ!」
「訴えたら百万は硬いマズさだ、こんにゃろー」
「あはっはは! 参ったかー! 雄太が俺をパシリにしたのが悪いんだぞ!」
雄太はゴホゴホとむせながら文句を言った。しかし、朝日の顔に浮かぶのはドヤ顔だ。
「はあ。朝日、これ何混ぜたんだよ」
「コーヒに烏龍茶あとは炭酸水だ」
「見た目全振りじゃねーかよ」
「バレた?」
「バレた? じゃねーんだよ、このドアホ」
雄太と朝日は二人して大笑いした。ひとしきり笑った後に、朝日が立ち上がる。この部屋に備え付けられていたマイクを二本手に持った。片方を雄太に渡し、マイク越しに叫んだ。
「よしゃーじゃあ歌うか! 雄太ッ!」
「相も変わらず元気だなぁ、お前は。マイク持ったせいで余計うるせえわ」
「デュエルだ! 雄太!」
「デュエットな」
朝日は機械を操作して、いつも二人で歌う曲を入れた。雄太と朝日がカラオケに行くとこれを歌うのがお決まりなのだ。
雄太もゆっくりと立ち上がり、曲が流れ始める。何回も二人で歌っているからか、結構上手だ。雄太は気持ちを込めて、朝日はとにかく楽しそうに歌っている。
一曲歌い終わり、二人はソファーに腰かけた。
そして、朝日がソワソワした様子で雄太に話しかけた。
「次、俺一人で歌って良いか? どうしても歌いたい歌があるんだよ」
「お? 別に良いぞ?」
すると、流れてきたのはどこか聞き覚えのあるイントロが流れてきた。
「国歌じゃねーかよこれ! どう考えても君が代流れてるんだけど⁉ ってか、カラオケに国歌入ってんのかよ!」
「雄太、隠してたんだけど。俺、カラオケで国家歌わないと記憶喪失になる病気なんだ」
「どんな病気だよ、このドアホ! てか、お前前一緒にカラオケ行ったとき歌ってなかっただろ」
朝日はその指摘に、スッと顔をそむける。
「記憶にございません」
「おい」
「記憶にございません」
[もしや前回国歌を歌い忘れたから]
そんな問答をしている内に前奏が終わる。雄太は呆れた目を朝日に向けながら歌を聴いていた。
朝日は、そんな雄太をガン無視してこれでもかと仰々しく国歌を歌った。
「はあ。じゃあ俺もなんか適当に歌おっかな」
「おーいいじゃん!」
雄太は何も考えず、いつも通りの選曲をした。そう。いつも通り推しの曲を選んでしまったのだ。その瞬間、今までの雄太の楽しい気持ちが消し飛んだ。
曲が流れだす。雄太はこの曲が大好きで、穴が開くほど聞いていた。だからか、今まで推しが歩んできた、そして推しを追ってきたこれまでをハッキリと思い出してしまう。
初めて曲を聴いたとき、衝撃的だった。すぐに虜になって、聞ける限りの全曲を一気に聴いた。初めてライブに行った日のゾクゾク感は今でも鮮明に覚えている。楽しかった。心無いことを言われていたら、自分の事のように悲しかった。本当に、本当に大好きだった。
いつの間にか、歌い終わっていた。
「朝日、ちょっとごめん」
「おー? どうした?」
「ちょっと、トイレ行ってくる」
「雄太すげー顔してんぞ?」
朝日が心配そうな顔をしているが、かまっている余裕は無かった。急いでトイレに駆け込んだ。溢れてくる涙が止まらなかった。
朝はどこか現実感が無くて。正直、ふらっと戻って来るんじゃないかななんて思ってた。
でも、今この時初めて実感した。
——俺の推し、死んだんだ。
ふと、ある言葉が頭に浮かんだ。『大切な物は失って初めて気付く』という言葉だ。自分には関係ない話だと思っていた。でもこうしてわが身に降りかかると思うのだ。「ああ、確かに」と。
もっと歌を聞きたかった。もっとライブに行きたかった。もっと活躍している姿を見たかった。もっと思い出を作りたかった。
涙が止まらなかった。悲しくてしょうがなかった。
そんな中、無情にも一件の電話がくる。溢れる涙を何とか拭い、相手を見る。相手は滅多に連絡してこないとうさんだった。雄太は電話に出る。
『雄太っ‼ 母さんが——』
「——へっ?」
全身が凍るような感覚がした。頭の中が真っ白になる。
まさか、母ちゃんまでも? そんな思考がよぎった瞬間、雄太はトイレから飛び出していた。急いでカラオケの部屋になだれ込み、自分のバックを手繰り寄せた。
「朝日、ごめん。俺帰るから」
「え、う、あ。お、おう?」
次の瞬間には雄太の姿はカラオケからは消えていた。一人残された部屋で、朝日は内心をぶちまけた。
「何があったか知らないけど、落ち込んでたから誘ったけど、だめだったかぁ。でも、途中は楽しそうにしてたし、部活サボってきて、良かったかな?」
雄太は走った。とにかく走った。走る中でも、考えないようにしていたことがどんどんと出てきてしまう。
もし、このまま別れてしまうなんてことになったらどうしよう。このままじゃ、喧嘩したまま、理不尽にキレたままお別れになちゃう。感謝の一言も言えてないのに。ごめんなさいの一言も言えてないのに。
走っている筈なのに、家までの道が雄太には余りにも長く感じる。赤信号が無限に続くように感じる。
走る。とにかく走る。がむしゃらに走る。
もう嫌だった。推しの時と同じ後悔はしたくなかった。
母ちゃんと、もっと、思い出を作りたい。
ふと見上げると、家についていた。
急いで扉を開ける。靴を脱ぎ捨て、家に入っていく。部屋から出てきた父ちゃんが出てきた。
「母ちゃんは! 大丈夫なのか!」
「雄太、まずはリビングに行きなさい」
雄太は、言われた通りリビングに向かった。リビングの扉を開ける。
先ずはじめに飛び込んできたのは、美味しそうな料理の匂いだった。そして楽しそうな鼻歌。雄太にとって聞きなれた鼻歌だった。音の元に目を向ける。
そこには、母の姿があった。
「もう! 遅い! でも、私が倒れたって言っただけで三分で帰って来るなんてすごいわね? もしかして帰ってた?」
にこにこと笑いながら、自分のことを待っててくれた。そこにいるのは、いつも通りの母ちゃんの姿だ。
雄太はそのことが何よりも嬉しくて、そして心の底から安心して。
雄太の目には大粒の涙で溢れていた。
「雄太ごめんなさい? そんなに驚かせたかしら? もしかして、なんかつらいことでもあったの?」
それを聞かれた瞬間、雄太はダムが決壊したかのように話し出した。母はそれをしっかりと聞いてあげていた。
推しが死んじゃったこと。最初は訳が分かんなくて、不安になって、心の制御ができなかったこと。ホントに死んだって理解したとき、もっと思い出を作りたいって思ったこと。とりとめもないことまで全部話した。
最後に母さんに伝えたいことがある、と雄太は母さんに言った。
「お母さん。朝喧嘩したの、謝れてなかったから」
「うん」
「お母さん、ごめんなさい。いつもありがとう」
失わずに気付けて良かった。
何十年という時間が流れた。
雄太は音楽を流す。
あの時、カラオケで歌った曲だ。雄太は、母と思い出を刻んだ時は必ず聴くようにしていた。あの日の後悔を忘れないためだ。この曲を聴くと、あの日の後悔が鮮明に思い出せる。
「推しは推せるときに推せ」まさに雄太の後悔はこれに尽きる。誰かと思い出を作りたくても、楽しい時間を過ごしたくても、その人が明日笑って過ごしているとは限らないのだ。雄太の推しのように突然消えてしまうことも、あり得るのだ。
だから雄太は音楽を流す。後悔を忘れないために。
しかし、それも今日でお終いだ。
雄太は眠る母の顔を見下ろす。
見慣れた母の顔だ。でも、寝ている場所はいつもと違う。母は棺の中で眠っていた。
雄太は、母の安らかな顔を見ながら思いをはせた。
あれから雄太は親孝行と称して、両親を色々なところに連れまわった。
初めて連れて行ったのはディナーだった。働き始めて、そのお金で連れて行った。あの時の嬉しそうに泣いていた顔は、一生忘れないだろう。
どんなに忙しくても、毎年一回は帰省するようにしていた。帰るたびに甲斐甲斐しく母がお世話をしてくれた。それが、うれしかった。
お金に余裕が出来てきて、連れて行ったのが温泉旅行だ。二泊三日と短くはあったけど両親は楽しそうにしていた。そんな様子を見ることが出来て、ものすごく嬉しかった。
遊園地に行ったこと、公園に行ったこと、ショッピングモールに行ったこと、コンビニに行ったこと。喧嘩した時だってあった。楽しいことも、辛いことも、いろんなことがあった。
雄太は母の遺体に静かに話しかける。
「お母さん。俺はお母さんと沢山の思い出を作ることができた。幸せだった。ほんとうに、ほんとおに、ありがとう」
消え入るような声だった。心からの感謝の言葉だった。雄太の目には涙で溢れている。でもそれは、辛い涙では無かった。あの時のような、鋭い痛みは無かった。
雄太の心は、ぽかぽかとてした。雄太と母の、思い出の温かさだ。
そして、雄太は口を開いた。
元気に送る挨拶だ。
「いってらっしゃい」