09.『抱きしめても』
読む自己で。
カンカンカンと音が響いていた。
静かに目を開けると、フライパンを必死に棒で叩いている小早川先輩の姿が見えて、夢かと思って目を閉じても音は鳴り止まない。それどころかどんどん酷くなる一方だった。
「中っ、朝だぞ!」
「って、なんでいるんだよ!」
前にぎこちなくなったこと忘れたのか!
俺の慌てぶりはスルーされ、先輩が「起きたな、おはよう!」と言い元気よく笑った。
「通い妻なのだ、いてもおかしなことではないだろう」
「いや、昨日帰れって……」
「通い妻はスルーだと!? ……こほん、中が戻ってしまったから施錠に困ったのだ。このご時世、ここら辺は治安が悪いわけではないが、流石に鍵もせず放置もできなかったのだ。だから私がひとり残る形に――ではなく、鷹翔と一緒に残ることにしたということだな」
「自業自得ってことかよ……」
鷹翔がどこで寝たのか聞いたら、客室で寝たのだと先輩が答えてくれたのだが。
「ちょっと待ってくれ、先輩は鷹翔と寝たってことか?」
それは流石に問題があるだろう。
……それにそういうことをするなら鷹翔の家か先輩の家でやってほしいものだ。
彼女を寝取られているみたいに感じるからな。NTRは消えろ。
「そんなわけがないだろう。と・い・う・か、今度こそ嫉妬か? なあ、嫉妬だろう?」
「うざいけどまあいいか、おはよ」
「ああ、おはようだ!」
いい笑顔だ。先程ので十分眠気が吹き飛んでいたが、この笑顔が見られて完全に覚醒した。とりあえずふたりで1階へ向かう。
ぐーすか寝てる鷹翔を起こしたり、朝ごはんの準備をしたり、結構忙しなく行動しないと間に合わなくなるので頑張らないといけない。
とはいえ、鷹翔と先輩がいること以外はいつもしていることだ。7時20分頃には全て終えて俺らは家をあとにする。
鷹翔は前を歩き、俺らが追っていく形となっていた。
「中、今度からは勝手に帰るのではないぞ」
「先輩が不機嫌にならなければそうするよ」
「積極的に私を不機嫌にさせているのは中だぞ」
「は? マジカヨ、オレガワルカッタデスー」
「むかっ! そ、そういうところだぞっ」
「初、静かにしろ」
「にゃっ……」
……なに創作作品の主人公とヒロインみたいなやり取り交わしてんだ。どちゃくそ恥ずかしいし、今すぐにでも逃げたくなるくらいだった。
「はははっ、中も積極的じゃんか」
「うるさいぞ鷹翔。でも、先輩を抑えるためにこのやり方は最適だな」
「中……」
「……悪かったよ」
だから甘えるような声音と、袖を掴むとかやめてほしい。
先輩には1度、自分の攻撃性能をチェックしてもらいたかった。
「……また昼休みにでも行くから、きちんと逃げずに待っていてくれよ?」
「ああ、どうせ行くところないからな」
学校に着いたら先輩と別れて鷹翔と教室でのんびりとする。
「さっきの初さん、なんか凄い可愛かったね」
「鷹翔はどうするんだ?」
内心では認めつつも、俺はまた鷹翔に質問をした。
「僕? 安心してよ、横から初さんを取ったりしないから」
「別にそういうつもりで言ったわけじゃなかったんだが……。俺はただ、鷹翔が先輩を狙うなら応援するぞって言いたかっただけで」
「僕に取られても納得できるってこと?」
「あくまで友達だからな先輩は。色々な偶然がなかったら会話することすらできていなかった関係だからな。好きとかそういうのはないから安心しろよ」
分かってる、ふたりきりじゃ上手くいかないとかな。
自分に釣り合っていないとか、そもそも特別な意味で好きになるのはどうやるのかとか、色々分かっていたり、分かっていないことが多すぎて、正直どうしようもない。
相手が俺を好くわけがない――なんてことは分からないから、いま自分の気持ちをはっきり言っておくが、俺はただ友達でいられればそれで良かった。
恋とかそういうのは見ているだけでいい。
だってそうだろ? 昨日だって全然乙女心が理解できなくて不機嫌にさせてしまったんだから。
あの調子で続けていたらふたりとも疲弊し、嫌気が差し、最悪な形で関係が終わってしまうだけだ。そうなるくらいならずっと友達でいた方がいいだろう。
もっとも、これもまた俺が考えているだけでは話にならないのだが、そこはまあ小早川先輩に優しさを見せてもらうしかない。
「正直ね、さっきの見ていいなって思っちゃったんだ。僕があの初さんを引き出したいなってさ」
「じゃあいいじゃないか、頑張れよ」
やっときちんと言ってくれたか。
まあ分かっていたことだ、今更驚きはしない。
「でも、駄目だよ」
「なんでだよ? 一生懸命になればいいだろ?」
「だって中が初めて好きになれるかもしれない人なんだもん。邪魔なんてできるわけがないじゃん」
あまり支えてくれた友に言いたくはないが、どうして彼はここまで馬鹿なんだろうか。
モテたいとか言っておきながらこちらを優先するし、引き出したいとか言っておきながら、邪魔できないとかって言うし。
「そういう気遣いはやめてくれ。俺は分かっているんだよ、不釣り合いだってな。
分かった、じゃあ無責任に応援するとかってことは言うのやめるよ。普通に過ごすからさ、鷹翔も普通になってくれ。いいんだ、気になってしまったのなら仕方のないことだろ」
なぜか鷹翔の方を見られなくて、茶色の机についた傷などを見ながらペラペラと喋っていた。
「昨日言おうと思ったけどさ、もうお荷物でいたくないんだよ。俺を理由に我慢してほしくないんだよ。男友達に言うのは気持ちわるいのかもしれないけどさ、大切なんだ鷹翔のことが。だからこそ自由にやってほしいんだ。依存しすぎてしまってたんだよ俺は。なのに俺は気づかないフリをしていままでずっと――とにかく、先輩のことが気になったのならそのまま気持ちを抱いたままでいいだろ。いいな?」
ここは教室で、切り取られたらまるで俺が鷹翔のことを特別な意味で好きみたいな話に聞こえるかもしれないが、こういう場所で言うからこそ効果があるのではないだろうか。
面倒くさい重荷にしかならない奴から解放される。俺がもっと早く気づいて同じことを言ってやるべきだったのかもしれない。が、過去には戻れないからいまを変えるしかないんだよ。
「中はひとつ勘違いしているよ」
「は?」
「僕は女の子みんなに可愛い一面を見せてほしいって思ってる。だから初さんのさっきの様子を見て、いいなって感じたんだ。でもね? あれは中だからこそ引き出せた可愛い初さんなんだよ。無理してるわけじゃないよ? 神に誓ってもいいよ」
碓かに無理をしているようには感じられなかった。
彼がいつも浮かべる柔らかい笑みを浮かべ、こちらを見ている。
「だーかーら、これから探すんだ。僕の言葉や選んだ行動で可愛い一面を見せてくれるような女の子をさ。あ! 大切って言ってくれて嬉しかったよ。気持ち悪いとかそういうの一切なかったから。だって僕らはずっと一緒にいて、中的に言えば僕が君を支えていたんでしょ? それって僕が頑張っていたってことだよね?」
「そうだな、鷹翔は頑張ってくれていたよ」
「うん。でさ? そんな僕を大切って言ってくれるならやった甲斐があるってものでしょ? 別にそういう見返りがほしくてやったわけじゃないけどさ」
「なあ、抱きしめてもいいか?」
「どうぞ!」
真剣に鷹翔を抱きしめて「ありがとな」と口にした。勿論、すぐに離したが。
それからすぐに突っ伏して情けなく零れた涙を隠した。俺はマジでヒロインだ。
「どうしたの?」
「……いや、なんか暖かいなって思ってさ。過去になにがあったというわけじゃないのに、どうしてあそこまでしてくれたんだろうって不思議に思うけどさ」
「……誰かがいなくなるって十分なにかがあった、と言ってもいいと思うけど」
「……母さんが出ていったときはマジで悲しかったなあ」
ま、元気に生きてくれていればそれでいい。
出ていった理由が気になるが、今更真実を伝えられても困るからな。
「た、鷹翔くん」
「あ、おはよ!」
「お、おはよ。いや、そうじゃなくて! なんで抱き合ってたの?」
「親友の挨拶だよ! ……じゃないや、僕に『ありがとう』って言ってくれたんだよ中が」
浜野に見られていたのは痛い。というか教室でマジの雰囲気で男同士が抱き合っていたらそれこそ……痛いか。
「……えと、さっきの見たらその……」
「ああ! まあ中には気になっている人がいるからね」
「嘘っ!? こ、この、俺なんか好くわけがないとか平気で言っちゃいそうな男の子が!?」
「そそ! 中もやっと恋を始めたんだよ!」
「待て! 俺は先輩のことな……んて」
ふたりにニヤニヤと笑われた。
墓穴を掘ったということなのか? おまけに涙だって拭えてなかったし……。
でも、冷静になって考えてみても、やっぱり友達でいられればそれでいいんだ。
「俺は先輩と友達でいたいんだよ。恋心ってのとは違うと思うぞ?」
「分からないじゃんそんなの。中こそ、一生懸命に向き合ってみなよ」
「まあ、友達としてはいさせてもらうつもりだからな」
「うん、最初はそんな感じだから! 誰でもねっ」
もし、もしも俺が小早川先輩を好きになったとしたら、これが俺にとっての初恋ということになる。
だけど初恋って実らないんじゃ……。
放課後にひとり教室で本を読んでいると静先輩が訪れた。
「こんにちは。あなた読書が好きなの?」
「こんにちは。読書といってもライトノベルですけどね」
本好きと心から言えることではない気がする。
「そうそう! えと、初は男の子と帰るからということで今日は来れないそうよ」
「あ。ありがとうございます。それなら適当に本でも読んで過ごしますかね」
「ねえ、初に興味ないの? 男の子なら可愛い女の子を放っておかないと思うんだけど。あ! ちなみに私は綺麗だけど放置プレイにあってるけれどね!」
「はははっ、自虐ですか? ちなみに、自分も放置プレイされてますからね、お揃いですね」
前の席に座った彼女は「そんなお揃い嫌よぉ!」と叫ぶ。
……男友達か、特定の相手がいるのか。どちらにせよ、分からせてくれるには十分な情報だな、と内心で溜め息をつく。
そりゃそうだ、いま静先輩が言ったように、可愛い女の子を放っておけるような男子はいないだろう。静先輩のそれは……気づかないフリをしているだけだと思うが。
「お昼休みにも行けなくて申し訳ないと言っていたわ」
「そこは先輩の自由ですからと言っておいてください」
「ふぅん。あなた意外と隠すのがヘタなのね」
別に隠すようなことではないだろうに。先輩の行動を制限できる権利なんてないのだ俺には。先輩が誰といようが、俺のところに来なかろうが、全て自由じゃないか。
「あなたは初が違う男の子といても普通だと考えているでしょう? 可愛いからおかしなことではないと。分かっているのだと」
「まさか! まるで俺が狙っているかのような言い方じゃないですか」
って、表情とかちょっとした仕草に出ていたのだろうか。本の続きを読もうとしないのが気になった? けれど、静先輩が話しかけてきているのに本を読むのは申し訳ないと思ったからやめていたのだが。
「狙っていないの?」
「今朝、鷹翔にも言いましたけど、先輩とは友達でいられればそれでいいんです。鷹翔と付き合おうが他の男子と付き合おうがそんなの全部、先輩の自由じゃないですか。それにもし俺が初さんを好きになった場合、それが初恋になるんです。初恋は実らないって言うじゃないですか。悲しい結果になるくらいなら、最初から挑戦すらしませんよ」
「あなたって本当に臆病なのね」
「はい、多分静先輩より怖いと感じるもの、怖いと感じることが多いですよ」
なんかこの人って話やすい。なにを言っても静かに聞いてくれそうな感じで、正に名前どおりの人、という感じだった。
「静先輩に言うのはなぜか楽です」
「あら、そうなの? 乾君には違うのかしら」
「鷹翔はモテモテですからね。その点、先輩は俺と同じ非モテですから!」
「うぐっ……も、もう少しいい意味でかと思ったけれど」
「いえいえ、本当にいい意味で話しやすいですよ。だってそうじゃないですか、出会ったばかりの先輩にこんなことを吐いてるんですよ? そういうことだって思いませんか?」
鷹翔に言うのとは違うんだ。しかもこれを異性で、しかも年上の人に言っているんだから実に不思議な話である。
「なるほど、碓かにそうかもしれないわね。ふふ、そう言ってくれると嬉しいわ」
「あ、前も思いましたけど、静先輩の笑顔って魅力的ですよね」
「はにゃっ!? な、なによいきなり……」
「うーん、鷹翔の真似をしてみたんですけど、やっぱり駄目ですね俺なんかが言ったら」
「こら!」
静先輩がこちらの口に人差し指を突きつけ、「俺なんかって言うのはやめなさい」と告げてきた。こくりと頷くとすぐに離して、「いい子ね」と笑みを浮かべてくれる。
「私を口説くのはダメよ。大丈夫、初もきっと振り向いてくれるから」
「そうですかね」
「ほら、あなたも気になっているんじゃない」
「そうですかね?」
「はぁ、乾君と同じくらい鈍感ね」
「違いますよ、鷹翔と一緒にしないでください」
そのときだった。
「中!」
彼女が現れたのは。
男友達に大切とかって言いづらいだろうね。