5『接敵』
せせらぎの音が耳に心地よい。
そう大きくない滝と、かすかに舞う飛沫がそこだけ開けて光の差し込むそこで、虹を作っていた。
──〈ビートル〉との最初の戦闘から、三日が過ぎた。
その間、”悪魔”の襲撃はなく、ロゼたちは総出で、可能な限りの防衛策を講じることができた。
付近の探索に始まり、魔術結界による感知網、警鐘網の構築。硬質なビートルを屠るには、精鋭の聖騎士団と言えど骨だからと、いくつか大規模魔術の簡易術式も仕掛けておいてある。
この池も、探索の際に見つけたものだが。
「いいもの、ですね……」
人一倍気を張って、〈剣姫〉としての責任を果たそうとするロゼに、ミラが気を使い水浴びの時間を作ってくれた結果だ。食い下がったのだが、少しは休めとインドラにまで言われてはかなわない。
こうして渋々やって来て、見ているだけで心が濯がれる光景にほっと息をつく。そして、どうやら思っていた以上に疲れていたと自覚した。確かに、少しは休まなければ。
「……」
と、その前に。乙女の自衛手段として、ロゼは呪文を唱える。この場を中心に半径十数メートルにわたり、感知網と警鐘網を構成。これで不埒の輩が覗くこともできない。
ミスリルの剣を置き、ベルトを外す。青い刺繍の騎士服から袖を抜き、ついでインナー、ホットパンツの順に脱いでいく。
手早く畳んで近くの岩の上に置いてから、ロゼはそっと池の水に触れた。
「……っ」
冷たい。夏はまだ終わったばかりだが、この森は太陽光があまり入らず、気温が上がりにくいからなおさらに。けれど同時に、人の手が入っていないからこその大自然の雄大さと清廉さだ。底がはっきりと見える水質に薄く微笑みをこぼしつつ、そっとつかる。
ひんやりとした水気が、疲れて火照った肌に吸い付くようで心地いい。ふぅ、と息を吐き、空を見上げた。抜けるような青空、というのはこういうのを言うのだろう。天は高く、漂う雲は純白の美しさだ。
滝の方まで行ってみようと立ち上がる。
雫が流れて首筋を伝い、胸元へと至って止まる。その水滴に指先で触れ、不意に自分の胸へ目が留まる。透き通るような白さで実った双丘。そういえば、最近少し、剣を振るのに邪魔になってきたなと思わなくはない。
……あと、たまにミラがものすごく羨ましそうな目で見上げてくる。
ロゼとしては、ああいう小柄な方が愛らしくて可愛いと思うのだが。それはそれで、剣を振るのに大変そうだと思い至って、ついでに考えても詮無きことと嘆息する。
とりとめのない思考に、そうと気づかず耽ってしまうのは疲れてる証拠だ。やはり休まねばと腰を下ろして、つかの間の安息を享受しようと息を吐く。
突然。
振動音。
耳をつく、少しくぐもって不鮮明な。先ほど展開した感知網ではない、もっと物理的な音。
通信魔道具の音だと気づき、すぐに池を上がる。指先で触れてリンク──せき込むように、通信相手は言った。
『〈剣姫〉さまっ! 来ました、〈ビートル〉です!』
*
行軍する中、不意に〈アキレウス〉が足を止める。
ホロスクリーンを険しく眺め、シュンは周囲の状況を確認した。
座標的には、第九九三機甲大隊が“魔人”と遭遇したあたり。ちょうど戦闘があった場所なのだろう。目を凝らせば巨大樹に、機銃で穿たれた節が見て取れる。
だが。
『どうした?』
ジェイクに問われ思考を中断させる。
「いえ、少し、違和感が」
『なによ、違和感って』
「具体的には分からない。勘」
臆面もなく言うと、アリシアは押し黙る。通信の向こうで頷く気配があった。
『シュンの勘なら信用できるな。──よし、総員、各中隊ごとに分かれて周辺の捜索。一四:〇〇までに現地点へ戻ること』
『了解』
各機、進路を変え散開する。率いる第二中隊所属の十一の〈クアドロビートル〉を引き連れつつ、シュンも移動を開始した。南へ。
森を進むごとに違和感が強くなる。その正体は、巨大樹の森の中、そこだけ開けて太陽光の差し込むギャップにたどり着いて判明した。
「──いるな」
『え?』
停止の指示を出しつつ、周囲に気を配る。
ここまで進む中で、大隊はあのオオトカゲにしか遭遇しなかったが、それでも森の中にはいくつか、何かの動物のものと思われる痕跡が見て取れた。種類は分からない、しかし何らかの動物の。
それは今も散見できるが、性質が違う。大自然の中で生きるものがつけた跡ではない。もっと、別の場所にいた存在がここまで侵入した末についた、〈クアドロビートル〉の足跡とも異なる痕跡。
いわば、人工的な──。
『アズール中尉、俺が降りて見てきましょうか?』
「いや……」
部下の言葉に、シュンは難色を示す。
コクピットからでは視界は制限される。詳しく探るなら降りるのが道理だ。だが仮に。今、この場で“魔人”に遭遇したとして、生身で抗せるか。
粗い映像を思い出す。答えは否だ。瞬きのうちに殺される。それでも、確認しないことには状況は進まない。
「俺も行く。残りは周辺の警戒を──」
ちらりと。
遠く、巨大樹ひしめく森の一部が光った。その、あまりに見覚えのある一瞬の煌めきに追随して、遅れて響く重低音。
走り抜ける嫌な予感と同時、切迫した声が通信で届けられた。
『〈ヘラクレス〉より各機! H-6がロスト。ええっとあと、“魔人”を確認──ッ!』
計器の異常か、ノイズがかかった不鮮明な声音はまぎれもなくアリシアのもの。背後では轟く銃声と、〈ヘラクレス〉の重い機体が、必死に疾駆する騒音だ。
『〈ケイローン〉より〈ヘラクレス〉。接敵了解。数は?』
『不明! わかんないっていうか、数える余裕ない!』
『くそっ。わかった。これより第一中隊が援護に向かう。第二中隊は周辺の警戒を──』
ザッとノイズがかかって、通信にラグが生じる。途切れ途切れのそれに眉を寄せ、呼びかけてみるがロクな応答がない。
やがて回線内からアリシアとジェイクの二人が。続くようにして第二中隊以外の〈クアドロビートル〉が消失する。
“魔人”はひょっとして、無線を無力化できる何らかの手段を持っているのだろうか。だが、通信が切断されたのは他中隊とだけで、第二中隊内には何の問題もない。
とにかく、指示通りにひとまず周辺を──。
『中尉っ』
呼ばれ、気づく。
ホロスクリーンの向こう。巨大樹の森のギャップの端に、先ほどまではなかった影がある。
赤い薔薇の刺繍の入った、占い師が羽織るような純白のローブ。シュンと比べて頭一つ半は低いであろう低身長の、実用性に重きを置いたような木の杖を正面に掲げている。くすんだ銀の髪の、少女のような外観をした──。
「──人?」
『さ、さあ……?』
声音に困惑が混じる。
巨大なトカゲの徘徊する、巨大樹の森には全く似つかわしくない装いだ。だが、外見はまぎれもなく人そのもの。
「保護」の二文字が脳裏に浮かぶ。とりあえず話を。
──白霊よ……。
ぞわりとした。
「──全機、散開っ!」
らしくなく声を張った、脈絡のない指示に対応できたのは、〈アキレウス〉を含めた全十機。取り残された三機の〈クアドロビートル〉は、次の瞬間、光に飲み込まれた。
それは、この星の内部から噴き出したような、圧倒的な奔流だった。
地面に浮かび上がった、円形に配置された幾何学模様と見たこともない文字列。それを基盤として放出された光は、決して周囲に広がらず、乱れず、集束して一本の巨大な柱を形成する。
巨大樹を超える、壮絶な光景。
「各機、全周警戒っ。A-5、A-7、A-8応答しろ」
光の柱に飲み込まれた部隊員のコードに呼びかけても、応答はない。聞こえてくるのはひび割れて耳障りなノイズと、なにか硬質なものがひしゃげていくような騒音だけ。
唐突に、光が消えた。
目に映ったのは、軽量な割に堅牢に作られているアルミ合金の複合装甲が、紙のようにひしゃげて丸まり、砕け散った信じがたい光景だった。
『中尉、これは……』
「──」
冗談ではない、という空気が無線越しに伝わってくる。
状況が全く分からない。否、直感はあの少女が先の光柱の下手人だと告げている。一瞬のうちに〈クアドロビートル〉三機を破壊するその莫大な威力を、砲でもなく杖一本で成し遂げる。常識の埒外の法術はおそらく──“魔人”だが。
「……」
眉を顰める。
連射できるのかどうか、詳細は何もかも不明。だが、挑むにはあまりに分が悪い。
「撤退する。正面の“魔人”を警戒しつつ、全速で離脱、基地に、」
言いかけて、シュンは目を眇めた。
計器不良か、それともパッシヴの索敵レーダーでは、この森の中を詳細に探索するのが困難だからか。はたまた、さすがのシュンも想定外ばかりが重なりすぎて動揺しているのか。
ここに至るまで、気づかなかった。
「訂正。第二中隊全機、戦闘準備」
ぐるりと周囲を取り囲んだ“魔人”の数に歯噛みしつつ、シュンは非情に告げるしかなかった。