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共棲

作者: 十一六

 懐かしい声が聞こえる。

 私はそれを自分勝手に兄の声だと判断する。

 兄に触りたくて腕を伸ばす。

 そこに兄の皮膚の柔らかさはなかった。

 空虚な冬の冷たい空気だけだった。

 仕方なく瞼を開いた。けれど気分は決して悪いものではなかった。

 というのも、夢の中でも兄に会うことが出来たのだから、多少の幸福感はあった。

 何気なしに窓際を見ると、早朝から隙間が開いていた。私はそれを疑問に思ったが、水色のカーテンが揺れて、風が頬に刺さるように吹きつけると、


「いたい」


 私はそこで初めて声を発した。それで身震いすると直ぐに布団に顔を埋めて、さっきの兄の声をもう一度思い出そうとした。

 段々と頬が熱を取り戻していった。

 意識もぼんやり薄れて、もう一度眠りに就こうとした時。


「優香。朝だよ」


 もう一度私の眠っている傍から、さっきの兄と同じ声が響いた。

 私はまた引き戻されるような感覚と共に瞼を開いた。兄の声はどうも私の意識を覚醒させる要素を含んでいるらしかった。

 寒さで軋んだ身体を無理に動かすと、さっきから私を呼び掛ける兄を探した。カーテンの裏、押し入れの中、部屋の暗くなった隅の方、兄は中々見つからなかった。

 ベッドの下を覗き込んだところで、兄の姿をようやく見つけた。

 兄は目を細め薄く笑い、私のことを横目で見ていた。


「お前が上で寝たらいい」


 私は兄が昔そう言ってくれたことを思い出した。

 妹の私が上で、兄が下。

 兄弟関係から言えば本来見晴らしのいい上で兄は寝るべきだが、先に上を占領しても兄は文句を言わなかった。

 ただにっこりとさっきのような柔らかい笑みを浮かべ、同じように私を見てくれた。私が作りかけのプラモデルを壊して、泣いて謝った時も、兄は何一つ嫌な顔をしなかった。一人ふて腐れて、押入れに閉じ籠った時も、兄はそっと襖を開けて何も言わずに困ったように笑って頭を撫でてくれた。思えばいつもそうだった。そうやって私を見守ってくれていた。

 そして、その優しさに私はいつも助けられ安心して、心の底が温かくなって、そうやっていくうちに私は兄無しでは生きられなくなった。


「あ……」


 意識を覚醒するように、再度窓から風が吹き付けた時。

 私は大切なことを思い出した。

 同時に酷い頭痛に襲われた。


「あれ……。なんか違う。なんか変だ」


 私は頭を押さえながら独り呟いた。

 立ち上がりよたよたとベッドから降りると、下を覗きこんで、下ににいる兄に手を伸ばした。狭い隙間の食らいそこから、女性のような白い細い腕が見えた。私はそれを兄の腕だと思って掴むと思いきっり引っ張った。きゅっといって手応えを感じると、ベッド下の暗い向こうから、兄の顔がぼんやりと見えた。私はさっきより強く兄の腕を引いた。兄は嫌がるようにきゅっきゅと泣いて、下からは中々出て来ようとしなかった。


「兄さん」


 私は言うことを聞いてくれない兄に徐々に苛立った。兄は私を起こすくせに自分が起きるのは嫌がることが多かった。


「兄さん!」


 今度は怒鳴りながら兄を無理矢理に引っ張った。すると、ぶちりと何かが千切れる音がした。

 私はフローリングの床に尻餅を着くと、さっきの音の正体を恐る恐る確かめた。ベッドの下から半分出てきた兄は、肘から先が片方無かった。千切れた肘の部分から、血を薄めたような液体が出ていた。


「あれ」


 私はその兄の姿を見てようやくあることを思い出した。とても大切で忘れられないほど悲しいことだったのに、私はすっかり忘れていた。

 そういえば先月、兄は死んだのだった。風呂に入ると言ったきりそのまま上がらないで、疑問に思った私が覗くと、浴槽一杯に溜まった薄紅色の水に沈んでいたのだった。


「兄さん?」


 私はその時、そういう風に声をかけた。兄は丁度体の(やわ)い人が前屈をしたみたいに綺麗に体を折り畳んで浴槽に沈んでいた。

 浴室の明かりはついていなかった。不必要に白い背中が薄暗い浴室の中で白く光って、魚が川で光る時に似ていると思った。

 兄は暫くピクリともしなかった。しかし水面に微かな泡がたった後、水中にあった後頭部がスッと浮かんで、それから音を立てて兄は顔をあげた。バシャリと音を立てた兄はそのまま浴槽に立ち上がった。兄は死人のように白かった。体を僅かに捻りながら私の方を向くと、


「だめなんだ」


 恥ずかしそうに、そして何故か申し訳なせそうに薄く笑って、私を見てそう言った。笑った口元の端が熟れたように黒ずんでいて、私はそれを見て兄が萎んでいく気がして胸の辺りがぞわぞわした。それで思わず兄を抱き締めた。


「ごめん」


 体を震わせながら兄は小さく呟いた。兄の浸かっていた風呂は水風呂で、しかも気温の低い夜であったため体は氷のように冷たかった。私は自らの体温を兄に移すべく、今までなかったくらいにその体に張り付いた。そして大事なことを聞いた。


「私を置いていこうとしたの?」


 私の声が浴槽で籠ったように響いた。

 兄の薄い笑顔が、怖いくらいにじんわりと消えた。


「……置いてかない。お前を置いてなんかいけない」


 兄はそう言って私の背に腕を回すと、締め付けるように強く抱いた。私はその言葉を耳にして心が落ち着き、無言で頷いた。暫くそのまま姿勢で兄を温めたが、また不安が過ってもう一度兄に聞いてしまった。


「ずっと一緒だよね。兄さんは嘘つかないもんね?」


 兄は直ぐに答えた。


「ああ。俺は嘘をつかない。……嘘をつかない。俺は」


 突如言葉が途切れ、嗚咽ともに兄は膝から崩れ落ちた。水音が浴場に響いて、私はどう兄に声を掛ければよいのかわからなくなった。兄は私の腹の部分にもたれかかった。そして私に聞かせたくないかのように掠れた声で


「死んでるんだ」


「え?」


 私は当然聞き返した。


「俺は随分前に死んでる」


 そのまま兄は私の腹に顔埋めたまま、動かなくなった。

 私は兄を浴槽から出すと、そのまま体を引っ張って、引きずりながら自分部屋まで運んだ。

 そして部屋中心に寝かせてタオルを被せると、濡れて完全に冷たくなった兄の体を丁寧に拭いた。兄の体は透き通るように白く、とても人間のそれとは思えないほど無機質だった。私は兄の部屋から兄がよく着ていた服を選んで、それを兄に着せた。

 そしてベッドの下の吸い込まれそうな空間に兄をしまうと、そのままベッドの上で眠った。

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