#2
あれから1週間が経った。あの後、結局通夜には行かなかった。聖子から連絡が来ると思っていたが、それすらもない。結局、初夏が生きているのかどうなのかすらわからないままだ。こっちから聖子に連絡しても良かったのだけど、きっと真実は一つだ。初夏はいない。あの日あったのは、僕が見た夢で心のどこかで僕が望んだことだ。そう解釈することにした。
「あ、そこ左ね」
助手席の律子が言う。久しぶりのデートだった。行き先は律子任せで、どこに行くのか聞いても教えてくれなかった。6月下旬の日ざしと空気は心地良く、あの事さえ無ければ僕の頭は今を思いきり楽しんだはずだ。
「今は忙しくないの?」
何となく出来てしまう間を埋める様に律子が言った。横目にコンビニで買ったミネラルウォーターのキャップを捻るのが見える。
「う〜ん…」
「まぁた締切りぎりぎりになって、慌てても知らないんだから」
律子の指摘は当っている。実際、仕事が溜っていて、締切りも近い。でも今は自宅にこもってパソコンと睨めっこする気分には到底なれなかった。
今の仕事。僕はフリーでグラフィックデザイナーをしている。美術大学を出た後、プロダクションに就職した。でもいつの間にか1人で仕事するようになっていた。デザイナーなんて自由そうな職業にも、しっかりとした上下間系と鬱陶しい人間関係がついてきた。群れることが苦手な僕はその職場を辞め、フリーで活動するようになった。正直、フリーで仕事をするのにはそれなりの苦労があって、一番に上がったのは金銭的な苦労。そんなとき、知り合いの知り合いから、高校で美術を教えられる人間を捜してると言う話を貰った。いつ使うか解らない講師免許があんなにも輝いて見えたことはない。今は講師の仕事を辞め、なんとか軌道に乗れたデザイナー業一本で生活をしている。
にしても、締切りが…ちゃんとやらなきゃな…
「もうっまたそんな顔して」
もう我慢出来ないと言わんばかりに律子が言う。律子には『昔の教え子が死んだ』としか説明していない。全てを、あの出来事を話す気持ちにはなれなかった。
「そんな顔って…してた?」
「してるしてる!とても彼女とデートしてるとは思えない顔」
「ごめん…」
「教え子が亡くなっちゃったのは悲しいけど、特別な子じゃなかったんでしょ?そんなに落ち込まないでよ」
謝りながらも律子の言葉に引っ掛かるものを感じた。
「特別な…」
「あ、見えて来た、今日のデートはここ……なんか言いかけた?」
「いや、なんでもない」
『特別な子』ってなんだろう。僕はそう呟いていた。
『今、なにしてます?』
仕事に暇ができると僕は決まって初夏にメールを送った。用事も無く、意味の無いメールを送るのは日常茶飯事だった。彼女は大体5分もしない内に返事をくれる。僕は携帯を持たない主義で、メールはパソコンからだったけれど、初夏とのメールは何十通と続いた。
『ピロン』パソコンからメールの受信音が鳴る。初夏から返事が届いた。やはり5分も経っていない。マウスを動かし、メールを開く。モニターには短く1行だけ
『今は、家出中』
とだけ書いてある。
「…なに言ってんだコイツ」
あぁ…またくだらないこと言ってるなぁこの人、と内心思った。一応『早くお家に帰りましょう。』と先生っぽいことを打ち、送信ボタンをクリックした。
高校を卒業してからの初夏は、悩んでいることが多かった。専門学校へ入学し、友達も羨ましいほど多かった。僕から見れば何一つ悩みなんて無くて良い人間なのに、初夏と連絡を取るといつも何かしら悩んでいる様子だった。相談に乗っていても、肝心なところを避けて話している感じで、いつの間にか話は脱線してしまう。僕は熱心に話を聞く方では無かったし、いつの間にか話してるのは僕の方ばかりになっていたせいで、彼女が何に悩んでいるのかしっかり聞いたことが無かった。
雑用を進めながら、何となく時計を見る。21時ちょっと前だ。さっきのメールを送ってから1時間が経過している。
「…遅い」
止せば良いのに、僕の中ではちょっとした心配の念が浮上し始める。テレビのスイッチを入れ、冷蔵庫からビールを取り出す。タバコを吸い、気にしない様に自分を促す。テレビ観ながも、耳はどうしてもパソコンの方へ集中してしまう。段々イライラしてきた。もう一度メールが来ていないか確認する。が、来ていない。
「はぁ…」
ため息が自然と出る。
「クソ…なんで俺が…」
とぼやきながら、電話の子機を手に取った。初夏に電話を掛過ぎてるせいで、番号を調べなくても頭に浮かぶ。立ち上がったまま、番号を押し、子機を耳にあてた。
『プ…プルルルルルル』
コール音が鳴る。
「…はい」
以外とあっさり、初夏が電話に出た。
「あのさ、なにやってんの?」
開口一番に怒鳴る。
「何って、家出だって言ったじゃん」
「だから、早く帰れって」
「イヤだ」
「イヤじゃないから、今すぐ帰りな、大体家出なんかしたって何の意味もないだろぉが」
「…あのさ、何の電話?友達の家に居るから大丈夫だよ…ってゆーか今日は絶対家には帰らないから」
初夏の声は冷静で、少し冷ややかだった。でも、彼女の嘘は見抜いていた。微かに聞こえる車の走行音と敢えて作っている冷静さ…なんでコイツはここまで分かりやすいんだろう。僕はもう次の行動を決めていた。
「柏山さん、外に居るでしょ…今どこ?」
「う〜〜〜〜ん…」
「今から迎えに行くから、場所教えて」
「…じゃあいつもの場所に、20分後でお願いします」
「はい、じゃあね」
電話を切り、外に出る準備をする。何故ここまで面倒をみなきゃならないのか、自分でも全く理解できないでいる。ただ、やっぱり、彼女は放っとけない。ただそれだけだ。
夜の道は車通りが少なくて『いつもの場所』に早く着いてしまった。地下鉄の出入口からは会社帰りのサラリーマンがちらほらと出て来る。人の波が途切れると、チューリップハットをかぶった女が階段を登って来るのが見えた。初夏だ。辺りをきょろきょろ見て、僕を捜している。僕を見つけると耳に入れていたイヤホンを取りながら、こちらに歩いて来る。助手席側の窓をコンコンと叩いてから、ドアを開けた。
「お邪魔します」
そう言うと間をあけてから助手席に乗り込んだ。少し、気まずそうな雰囲気を出している。まず、僕にはやらなきゃならない仕事があった。左手を大きく上げ、初夏の頭を殴ってやった。
「イッタァ〜〜何するのさ〜」
「ふざけんなブスっ何やってんだよ」
と怒鳴りながらもう一発殴る。
「お、降りる〜!」
初夏の叫びを無視して車を発進させた。
夜のドライブでは必ず行く場所が決まっていた。栄山公園の展望台。山の上にある公園で、駐車場から降りて階段を登って行くと展望台が見えて来る。そこは180度の絶景が広がり、ちょっとしたデートスポットなのだが、最近では近くに出来たタワーへ人が流れているせいで人の気配は少なかった。
僕は初夏と歩く時、いつも一定の距離を取って歩いた。少し遠い様な微妙な距離だった。まるで2人の気持ちを表したかの様な距離。初夏もその暗黙のルールに従って、僕の後ろをついてくる。「うわー今日も綺麗だ…」
初夏は最後の数段を駆け足で登り、僕を抜かして頂上へ着くと息切れ混じりに呟いた。
「で、何かあったの?」
初夏に続いて階段を登り終わると、家出の原因を探り始めた。
「う〜ん…別に何でもないよ」
「あ、そっじゃ帰るよ、まだ地下鉄あるでしょ」
「ゲッ待って待って」
初夏の焦った反応に思わず笑ってしまう。辺りは暗くほとんど輪郭だけしか見えないが、彼女が悲しい顔をしているのだろうと検討が付いた。きっと次に出る言葉は可愛げのない台詞なはずだ。
「ん〜…良いよ…置いてって…ありがとここまで連れてきてくれて」
初夏はそう言うとその場にしゃがみ込んだ。予想適中。ホントにこの女は性格が悪い。僕は初夏の後ろに近付き上着の衿を引っ張ると、無理矢理立ち上がらせた。
「うわっ何、イヤだ、帰りたくないんだってば」
「うるさい、ちょっと移動するだけだ、歩けブス」
初夏を立ち上がらせると、初夏の衿から手を放し歩き出した。
「あ、待ってよ」
初夏も慌てて僕を追う。
ここの展望台には昔から散策道があった。その道を下って行くとさっきの階段よりかなりの遠回りで駐車場に着く。元々展望台よりも先に出来た道なのにこの道の存在を知る人は少ない。最近、道を整備するのか工事中で簡単な黒と黄色のロープが頼り無く掛かっていた。
「こんなところに道なんかあったのね…工事中みたいだけど…」
初夏が不安げに言う。
「うん、行くよ」
初夏の不安は無視でロープを潜った。
「どこ行くの〜っ」
展望台は夜景のお陰でまだ明るかったことにようやく気付く。この道は真っ暗だった。時々、初夏がちゃんとついて来ているか後ろを振り向く。カサカサと足音が聞こえた。僕の悪戯心に火が付く。
「わぁーーーっ」
いきなり大声で叫んでみた。
「ひやぁーっなにっなにっやめてよっ」
初夏の怯え具合に大笑いしながら歩き続ける。しばらく行くと、道が二手に別れている場所に着く。僕は迷うことなく左側の細い道へ進んだ。奥はほぼ森と言って良いほど木々が生い茂っていて、闇が手招いて待っていた。その闇を目掛けて歩き続ける。
「ちょーっと待って、何があるの?」
初夏は恐怖のピークに達し、泣き出しそうな声で言った。
「大丈夫、もう着いた」
そこはちょっとした休憩所になっていて、円状に1部屋分位の原っぱと小さいベンチが一つあるだけの場所だった。
「着いたの?なぁ〜んにも見えないんだけど…」
後ろから初夏の疑心暗鬼な声が聞こえる。
「上、見てみ」
「上?…あ…」
「アオイ?」
律子が僕の顔を覗いた。
「どう?良い景色でしょ、気分転換には良いかなと思って…来たこと無かったわよね?」
律子が僕を連れて来たのは、あの展望台だった。山の爽やかな風が僕の身体を撫でて行く。目の前に広がる景色は、いつも夜しか見たことが無かったあの風景だった。
「すっごい…」
僕と初夏は静まりかえった森の中で空を見上げていた。僕達の目の先には今にも落ちてきそうな満天の星があった。初夏はぐっと息をひそめ呟いた。感動を噛み締めるかのように。
「すごいでしょ、今日は雨じゃなくて良かったよ」
「うん、こんなに沢山の星見たこと無い…キレイね…」
しばらく沈黙が続いた。いつの間にかあの一定の距離が無くなり、僕と初夏の腕が触れる。とても穏やかで、優しい気持ちが身体中を纏っていた。とても不思議な安堵感。きっと初夏もそうだろう。
「ここさ…」
僕は静かに口を開いた。
「なに?」
初夏も僕と同じトーンで返事をする。何となく、初夏から離れベンチに座る。もう一度空を仰ぎながら、この数億とある星を見る、自然と出て来る言葉を僕は素直に受け入れることにした。
「ここ…特別な人しか連れて来ないんだ」
「特別っ?……アタシも?」
今日一番の嬉しそうな声を出しながら、僕の横にゆっくりと座る。
「あぁ…まぁ…2番だけどっ」
「2番?アタシ2番になれたんだ!…もぉ〜…嬉しいなぁ…」
初夏は静かに泣きだした。この場所の時間だけが極端に遅く感じた。まるで別の世界に居るような、ゆっくりとした空気に呑まれていった。そこに言葉は無く。ただ、僕達の手はしっかりと結ばれていた。