私の上靴は自由になったのだ。
私の上靴が私の靴箱から消えたのは、きっと上靴が空を飛びたかったからなのだと思う。
汚れた廊下を裸足で歩くわけにもいかず、来客用のスリッパを求めて二階の渡り廊下を歩いていた。そこから見下ろした自転車置き場の屋根に乗っかって、私の上靴は日向ぼっこでもしてるみたいだった。
私の上靴は私みたいに自由を求めて鳥になったんだ。
そう思うと、ない交ぜになった感情が喉の奥から細くしなやかな金色の糸になって吐き出されていくようで、職員室のドアにかける手ももう震えていなかった。息を吸って、勢いよくドアを開ける。
「おはようございます。一年五組、片平紬です。いじめの相談に来ました!」
きっと物心ついてから今日ほど大きい声を出したことはないだろうってほどに、私は大声で挨拶をした。
職員室に居た先生が、全員こっちを向いている。注目されるって気持ちいいことなんだ。私、芸人にでもなろうかな。今ならなんにでもなれる気がする。
担任の木村先生が大きな目をさらに広げて駆け寄ってくる。裸足のままの私の足に視線を落として、ちょっと待ってなさいと言った。
教頭先生の机に向かう木村先生の短く刈り上げられた後頭部を意味もなく見つめていた。
事務の若い女の先生が来客用スリッパを持って私のつま先の前に置いた。
靴下は履いてこなかったのかと訊かれたのでスカートのポケットから白いそれを取り出した。私は靴下を履かずにスリッパを履いた。
ひんやりと冷たく、足を上げるとぺたりと足裏に引っ付いて来た。
そんな感触を楽しみながら、生徒指導室に連れられていった。
※
座りなさいと言われると同時に椅子に座った。
木村先生は朝のホームルームがあるから......と教頭先生がため息をついた。
教頭先生は真っ白なメモ帳を広げ、ボールペンをカチカチと鳴らす。そのメモ帳は何を書き込むためのものだったのだろう。イジメの内容を書き込む為に購入された物では無いと思った。
教頭先生は何故イジメられたと思うのか、具体的に何があったのかと訊いた。
あまりにも小さなことで最初は気が付かなかった。
消しゴムが折れていた。赤いペンが無くなった。自転車のカゴに紙くずが入っていた。
椅子が教室の隅に置かれていた。私が日直の日、私の名前だけが消されていた。
上靴が片方消えていた。そして今日上靴が空を飛んだ。
イジメというにはあまりにもささやかで、私が黙っていれば誰も気が付かない事だと思う。陰湿で幼稚でバカみたい。その幼稚でバカみたいな当てこすりに私の精神は着実に傷ついていった。
心がザラザラして手触りが悪い。目を瞑るとその傷が可視化して吐き気がした。
何をどこまで喋ったのかよく分からないまま、私はスクールカウンセラーのいる相談室に移された。正しくはスクールカウンセラーはいない。カウンセラーの先生は午後からいらっしゃる予定だったが、今から来てもらえるようにお願いしたから、と教頭先生が言った。
相談室は教室がある校舎とは別の、職員室や、事務室等だけがある小ぢんまりした古い建物の三階にあった。物置を改装したのだろうか。窓はなく、閉鎖的な空間を少しでも和らげようとしたのか幼稚園みたいに貼り絵がしてある。
教頭先生がそこから動かない様にと念を押して出ていった。そんなに心配しなくても飛び降り自殺をする程には、私の心は消耗していない。
笑ってしまった。喜んでしまった。誰かが私を心配してくれている。無邪気な子どものように足をばたつかせ、踵を強打して泣いた。